中編 泥魚と黒い鱗
月明かりがほのかに差し込む、暗く静かな海の中。銀の鱗をきらめかせて悠々と泳ぐ、小魚たちの群れ。
不規則に揺れる長い海藻。断続的に小さく巻き上がる海底の砂。
海中にただよっていたヘドロのような濁った色の淀みが、風船のようにぶわりと大きく膨らんで、銀の魚群を一口でまるごと飲み込んだ。そして、何事もなかったかのように、潮の流れに乗ってどこかへと消える。
静かな海に取り残された、いくつかの小さな気泡だけが、ゆっくりと海面に昇っていく。
*
「ニルカ、見回り行くぞ」
静かな夜風に乗って、不意に年長者たちの声が届く。修理途中の網を置いた少年は、大声で返事をして、守り神の彫られた青銅の提燈を手に取り、作業小屋の戸を開けて外に出る。手の甲に白い精緻な刺青を刻んだ青年たちに駆け寄った。
ポツポツと灯りの灯り始めた夜の漁村の、入り組んだ路地を、青年たちが雑談まじりに歩いていく。
噂好きの一人が声をひそめてとっておきのゴシップを話し始めてすぐ、鬼気迫る叫び声が夜の静寂を破った。青年たちは一斉に西の方角を見上げる。聞き覚えのあるその声は灯台守の爺さんのもの。すぐさま鳴り始めるけたたましい半鐘。いつにない勢いに、少年の隣を歩いていた一番若い新入りが唇を震わせて小さく悲鳴を漏らす。
月夜の下、岩場を跳ぶように駆け下りて波打ち際へたどり着いた青年たちは、めいめいに指笛を鳴らし、黒い海に手の甲を向ける。薄暗闇の中、様々な白い幾何学模様がきらめく。凪の海を突き破って、無数の海獣たちが次々と飛び跳ねた。
「急げ、追い払え!」
うぞうぞと磯に這いあがろうとしていた濁った色の泥魚が、事態に驚いたように震えて、いくつかの塊に分裂して四方に散る。逃げ惑うヘドロの塊は、海から現れた勇ましい海獣たちに囲まれ、追い立てられるようにして海に逃げ込んでいく。
いつもならこれで解決するはずの泥魚の襲来は、しかし今回ばかりは勝手が違った。
磯になお残るいくつもの泥色の塊は、飛び交う海獣たちの間を巧みにすり抜けて、互いに引っつきすぐさま元の大きさまで戻る。不気味に蠢きながら磯に転がる巨岩を砕いては飲み込んでいく。ぐわ、と、大時化の荒波のように、獣が二足で立ち上がるように、岸壁のような高さに伸びた泥が——黒い背の海象と、それを従えていた青年の身体をを、まとめて飲み込んだ。
近くに立っていた友人たちが伸ばした手は、あと少しのところで空を切る。
「う、うわあああ!!!」
一瞬で親友を失った若い一人が、腰を抜かしてあとずさりながら、喉が裂けそうな、獣のような絶望に満ちた絶叫をあげる。
「あああああ!」
続いて伸びてきた泥が、逃げ遅れた海豹遣いの少女の片腕を捉えた。悲鳴を上げて必死に身を捩る彼女の抵抗も、彼女を掴んだ周囲の青年たちが足を突っぱってその身体を引き戻そうとするのも虚しく、うぞうぞと這い上がる泥が身体を覆い、とんでもない力で彼らを丸ごとヘドロの中へと引きずり込んでいく。
誰かが手を離した。少女が手首に巻いていた装身具の紐が切れ、よく磨かれた丸い小石がばらばらと岩場に落ちて転がる。
数人が悲鳴をあげ、仲間を押しのけて山の方へと逃げ出す。
その場にへたり込む、うずくまる、腰を抜かして震えるだけの数人。彼らの足元に落ちるのは、隣町の呪術師にあつらえてもらった魔除けの護符。
じわじわと磯に広がっていく泥色の触手が、失神した一人の身体を絡めとり、ズルズルと引きずりこんでいく。
見たことのない惨状——沿岸自警団の長を務める青年が、皆を落ち着かせようと片手を掲げて声を張り上げる。その頬から首筋へと、一粒の汗がつうと伝う。
今までにない事態にパニックを起こした若い数人が、蒼白な顔で喚き、村のほうへと逃げていく。統率のとれなくなった海獣たちが混乱したように暴れ、黒い海に大きく白波が立つ。
「加勢だ!」と誰かの声。
非番の青年たちが袖をまくりながら駆け寄ってくるのが見える。
さらに、岩場の上に建つ家屋の窓が開き、蠢く泥に向かって古鍋や鉈や履き物やその他の家財道具が次々と投げつけられる。泥は当然のようにそれらを飲み込んでかさを増やす。渡水師の青年たちが制止する声は届かない。
「渡水師以外は下がれ!」
長の青年が努めて冷静に言うその押し殺したような声色から、鯱遣いの少年は、ことさらに事態の余裕のなさを感じとる。
と。
流線型の黒い影が一つ、沖に浮かぶ古城の上を高く高く、猛烈な勢いで飛び越えた。
「え」
偶然それを視界の中に入れた数人が、思考を止めた。
少年の、緑色の瞳が揺れた。
月明かりにくっきりと浮かび上がったのは、特徴的な、三日月型の尾ビレ。
その形を見たら真っ先に逃げなさいと、村の子どもが一番初めに覚える形状だ。
宙に飛び散ったいくつかの小さな黒い鱗が、月明かりにきらきらと反射しながら海に落ちた。
海獣にはありえないほどの速度で、瞬く間に近寄ってくる巨大な黒い影。水面を切り裂く、異様に小さい背ビレ。
「さ、サメだ!」
誰かの声。
派手な飛沫を上げて、巨大な上顎が海面から飛び出した。鋭く尖った牙が、うごめく泥魚に噛みついて乱暴に引き裂いた。岩場に泥の粒が飛び散る。
磯浜に巨体を乗り上げた一頭の黒鱗鮫が、周囲の張り詰めた空気も含め、あらゆるものを食らうかのような迫力で、闇夜に向かってゾッとするほどの大口を開けた。空気が震える。
千切れた泥の塊のいくつかが、何かを察知したかのように急に動きを止めたかと思うと、逃げるように次々と海に飛び込んだ。小さくなった残りの欠片を、傷だらけの海獣たちが追い回す。
大きめの胸ビレを使って磯に身を乗り上げた座頭鯨が、逃げ回っていた最後の泥魚をくわえて海に放り込んだ。青年の一人がゼェと荒い息を吐き、震える腕を鯨に向けて、小指と親指を付けて手首を振る。
「やった……か?」
小さく息をついた青年たちは、だがすぐに警戒した顔つきに戻って、皆同じ方向に目を向ける。黒い、ざらついた流線型の身体を器用にくねらせた海の怪物は、近くで震えながら血の匂いを放っている人間たちの群れには見向きもせず、派手な水音を立てて海に消えた。
波音に混ざって、海獣たちと青年たちの息遣い。どこかの家屋から、幼子の泣き声がかすかに聞こえる。
いくつかの動かぬ身体と、腰を抜かして息を乱す青年たちの足元を、やがて満ちてきた潮がちゃぶちゃぷと濡らした。