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マリーゴールド・ガーデン

作者: 紫媛

空は朝焼けのため薄紫に染まり太陽の出現を予感させる。夜明け前のひんやりした朝霧の中、私は独り小船を漕いでいた。ちゃぷんちゃぷん。かいが水をかく音が規則正しく耳に届く。ちゃぷんちゃぷん…どのくらい漕ぎ続けただろうか。気が付くと空はオレンジ色に変わり遥か彼方の地平線から太陽が顔を覗かせていた。波間をぬうように浮かぶ島々から鳥が飛び立ってゆく。あぁ、生きているのだな。命あるもののために光はさしている。生者のための時間に死者を弔うのはワガママだろうか。船を漕ぐ手を止め隣の硝子瓶をそっと持ち上げる。透明な瓶には赤いリボンで少し大きな鈴が括り付けてあり、ちりん、可愛く儚い音がした。


鈴の音はあの子の記憶を呼び戻した。あの子と出会ったのは太陽が西へ沈もうとしていた時だった。本屋からの帰り道、たまたま寄り道した川縁にその子はいた。石の上で毛ずくろいしていたその子はまだ幼く小さかった。自分自身を庇っているようなその姿が妙に気になり近くに寄った。灰色の毛に紺碧の瞳。海よりも深く透き通ったブルーだった。それは十二分に美しいものであったが、それ以上に私を惹きつけたのは左目から流れる赤だった。じろりと眺める私に気が付いたのか、その子は目を合わせてきた。左目にはかなり酷い傷がありまだ流血が続いた。痛みを押し殺し見開かれた赤い左目に、私は心を売った。


今までペットなんて飼ったことも興味をもったこともないのに、無意識のうちその子を抱き抱え家へ連れ帰っていた。その日から私とあの子のルームシェアが始まった。


本来直ちに動物病院に連れていくべきなのだろうか、私はそうせずしばらくその子を凝視していた。強い意思を感じさせる姿は見ていて飽きなかったからだ。そんなあの子が膿み腐ってゆくことは堪えられないと感じようやく病院へ向かった。


手術が終わり出てきたあの子は顔の左半分を包帯でぐるぐる巻きにされていた。獣医いわく

「左目は二度とものを見ることはないでしょう。また、傷跡が消えることもないでしょう。」

そうだろう。予測していた。別に気にすることとは思えなかった。


数日経ち包帯が取れるとそこは案の定酷いケロイドとなっていた。たとえ目が見えなくとも、薄ピンクに盛り上がったそこは海より美しい蒼の瞳を凌駕するものであった。


その子に似合いの名前を付けてあげたくて一日かけて考えた。ただひたすらに思考し続けるうち、その子が血を流す姿がまるで私だと感じたからこそ連れ帰ったのだと悟った。ならば名前は「セル」だ。自己という意味のSELFを略し、セル。また、セルには細胞としてのcellという意味も込めた。


「セル。」

「みゃう。」


改めてまして、これからよろしくね、私。


私が家に帰った時、たいていセルはいた。爪を磨いでいたり眠っていたり瘢をなぜていたりした。私がセルにすることといえば朝晩の食事の準備くらいなものだ。猫可愛がりなんてしたことない。お互い気が向いた時だけジャレ合う気楽な仲だ。私が誰かと一緒に家に帰った時は必ずセルは家にいない。私に気を遣っているのか、ただ単に他の人間と遭うのが煩わしいのか、定かでないがそんなことはどうでもよかった。逆に私が家に帰る気分でない時は、セルが他の猫を連れてきてる、確証はないがそう断言出来る気がした。ペットではなくルームシェアと言い切ったのはこういう理由からである。




同居を始めて一ヶ月ほど経った頃のことだった。その日は一日何も予定がなく、しかも朝から雨が降り外に出るのも億劫だったので、私は引き出しを片付けることにした。ごそごそ漁っていると何か音がした気がした。するとそれまで素知らぬ顔だったセルがすたすた歩いてきた。

「みゃあみぁあ」

「ん、セルどした? 退屈してたのはあなたもだった?」

そっと耳を撫で顎の下を擽ってやる。普段ならごろごろ喉を鳴らし甘えるように身体を擦り付けてくるのに今日に限ってそれはなかった。それどころか爪で私を引っ掻いてきた。

「ちょっと、どうした?」声が耳に届いてないのか、私の動揺を無視して引き出しの近くへ行った。そして後ろ脚で立ち上がり、どう足掻いても届かないであろう高さにある引き出しに必死になり手を伸ばしていた。セルがこんなにも何かに一生懸命になる姿など今まで目にしたことなどなかったのに。わたしは怪訝そうに眉をひそめ、セルを抱き上げた。どうせたいした物など入っていない引き出しだ。そう思い、セルの好きなように漁らせたところ、混沌とした中から何かを見つけくわえてきた。

「何引っ張り出してきたの?」

そう尋ねると共にセルの口から、ちりん、音をたて転がり落ちるものがあった。鈴だった。そうか、さっき音がしたと思ったのはこれだったのか。けれど、何故こんなにもセルがこの鈴に執着したのかは最期まで解らなかった。


その鈴は少し大きく、少しくすんだ色で私とセルを映した。こんな鈴なんで持ってるんだっけ。でもまぁセルが気に入っているなら鈴も鳴りがいがあるというものだろう。セルの眼前で鳴らしてやると、もっともっと、渇望するように手を伸ばす。折角なので同じ引き出しに入っていたリボンから赤色の物を選び、鈴を通し首へ結んだ。

「あっ。」

この時になり私は漸くセルに首輪していなかったという事実に気が付いた。




セルと出会ってから二年の月日が流れた。その時私は不安と幸せの絶頂にいた。当時付き合っていた相手からプロポーズされたからだ。その人は今迄の誰よりも誠実で誰よりも私に寄り添ってくれた人だった。友人は皆いい相手に巡り逢えたねと言ってくれた。けれども私は結局その人と結婚しなかった。

「ごめんなさい。」

この一言で彼は察してくれたらしい。

優しい手でいつものように私の頭を撫で、包み込むというには強すぎる力で私の全身を抱きしめた。その強さに不覚にも私は泣いてしまった。こぼれ落ちんばかりの星屑が煌めき、彼の頬に反射した。全身の震えが服など介さないかのように伝わる。とめどなく溢れ出る泪を堪えることなど不可能で、私はもう一度

「ごめんなさい…」

聞こえるか聞こえないかの声を漏らした。

「いいんだ。僕では変えれなかった。それだけだから…」

私が悪いのに泣いてどうする。これ以上彼を困らしてはいけない。頭では分かっていても涙腺の崩壊は留まることを知らず、漸く

「誰にも私を変えることはできないんだよ。あなたが悪いのではない。生まれて以来最高の幸福感に浸してくれてありがとう。大好きだった。今もこれからも嫌いになることなどないし、なれないよ。私から解放されてあなたの人生を。ありがとう。」

渾身の力を込め腕を振りほどき、彼にはにかんでみせ、私は独り来た道を戻る。いつの間にか空には雨雲が姿を現わし光を隠していた。重たそうな雲が全てを見えなくしてくれればいい。過去も現在も未来も見境がつかなくなればいい。雨で私を洗い流して。彼も一緒に流して。そして二人を溶かし合わせて。二人で不安も幸せも苦しみも快楽も存在しない世界へ。

叶うはずなどない。解っているはずなのに、脳が暴走し続けた。


がちゃり。

「ただいま」

ちりん ちりん…

「セルいるの?」

「    」


もう此以上立っていられなかった。ぺたりと床に座りこみ嗚咽を漏らす。


ははっ。なんて身勝手なんだろう、私という生き物は。幸せになると怖くなって、自由になると淋しくなって、生きていると死にたくなる。人間が嫌いな癖に独りで死ぬのは淋しい。あまりの矛盾加減に呆れ自嘲する他ない。さっき彼に言った言葉も嘘だ。本当は彼を解放なんてしてやりたくない。私をいつまでも1番の女として認識し続けてほしい。だけど忘れないで。大好きだったのは本当。最高に幸せだったのも事実。自らの歪みに耐え切れず、鞄に手を伸ばす。底にひっそりと忍ばせていたカッターを取り出し、カチカチカチカチ、金属を露呈させる。久しぶりの鈍い光にごくりと唾を呑んだ。ひゅう。鼻と口からめいいっぱい吸い込まれた空気は肺を満たし身体中に酸素を供給した。酸素の供給を受けた脳細胞は痛みと血液を欲する。欲しい。ほしい。早く、はやく! ごめんね。約束守れそうにないよ。付き合って以来我慢していたけどもうだめみたい。


エンゲージリングが収まるはずだった所に、シルバーの替わりに自ら赤いリングを嵌めた。


その日、結局セルが帰ってくることはなく、私は薬指にそっと口づけし深い眠りへと堕ちていった。





別れから優に一年以上が経過した。季節が一回りしたというのに何もかかもが不変のように感じ、永久に終わらない螺旋を歩き続けているようだった。



別れた彼とあの夜以来の再会をした。ぎこちない雰囲気だが、お互いの近況報告をするうち違和感がほぐれていった。サラダから器用にコーンだけを取り除く彼は昔のままだ。そして、そのコーンと引き換えにトマトを彼の皿へ入れる私も変わらない。思わずくすりと笑ってしまった。つられるように彼も苦笑する。あたたかな時間。もしあの断らなければ… 今更そんなこと考えどうしろというのだろう。思考の無益さ加減にげんなりとした。払拭するようカクテルに手を伸ばす。ブルームーンと呼ばれるそれは、蒼とも紫とも言えない曖昧な色の癖に実はアルコールきつめだ。今日の再会に相応しく、且一年前に刻んだ薬指によく映えるカクテルだと思う。バイオレットの華やぐ香りを従わせ酔った振りをした私を、ジンの鋭さでコーティングした。

食事の後、彼は私を家まで送ると言った。悪いからと断ったが、

「酔うとすぐ寝るんだから危ないだろう。」

と言われてしまい、結局彼の車の助手席へ乗ることとなった。綺麗に片付けられた車内は相変わらずで、

「吐きそうになったら早めに言うんだよ。」

という言葉までもが過去そのものだった。不意に変化が欲しくなり、窓硝子に人差し指を押し付け、ぎゅうぎゅうと音がしそうなほど強い力で上から下へと指を降ろした。彼は綺麗好きだから窓硝子の指紋に気がつけば丁寧に拭き取るだろう。今は運転に集中して気が付いていない。気が付き磨く時少しでも私を思い出してくれれば…


家に到着した。

「今日、あり

「みゃあ みゃあ」 

えっ。決して聞こえるはずのない声が聞こえた。ちりん ちりん。聞き慣れた鈴の音もする。間違いない。セルだ。

「セル、ただいま。」

折角なので彼にも紹介した。始め驚いた顔をしていたが、すぐに柔らかい笑顔となり

「はじめまして、セル。」「みゃう」

と挨拶を交わしていた。


ふと、私は異変に気付いた。普段なら他人がいると姿を見せないのに、何故今日に限って家にいるのか。加えて、抱き上げた時心なしか冷たかった気がする。よく観察すると心臓の拍動もおかしい。リズムが不規則で且弱々しい。


「いや、セルが死んじゃう!セル!セル!おいていかないで!独りにしないで!私もセルと逝きたいの!」

私の叫びで彼も異変を察知した。まるごと受け止めるよう、セルごと私をぎゅっと抱きしめる。

「最期を心置きなく過ごせるよう、まずは落ち着こう。ね。落ち着いて。」

肌の温もりと彼の言葉で冷静さを回復し、セルが何故鈴を見つけた時と同じ声で鳴いたのか考えた。渇望、希求、切実… どれも相応しいようで少しも表現仕切れていない声は私自身の私への欲求。

「お願い。部屋へ来て。」彼の瞳には戸惑いの色が濃く困惑も入り混じっている。が、今はそんなことに構っている猶予など一刻足りともない。

右手でセルを抱いたまま、左手で彼の手首をぐいと掴み玄関へと連行する。

がちゃり。

半ば無理矢理に私の部屋へと連れてくると、流石に彼も眉をひそめたが大人しく腰を下ろし私と向き合う。

「セルは他人がいるとき絶対に姿を見せない。にも関わらず今日に限って私たちの帰りを待ち侘びるようにして家にいた。きっとあなたにも看取ってほしいからこんな行動をとったんだよ。解るでしょう。セルは私なの!」

観念したのか納得したのか、あの日私の頭をなぜたようにセルの頭をなぜ、労るように抱き締めた。それからセルを私に戻した。私は抱き抱えたまましゃがみ込み只ひたすらに身体を撫で続けた。少しでも苦しくないよう、少しでも痛くないよう、少しでも孤独を感じないで済むように…


ちりん


唐突に螺旋は途切れ落下した。


途切れは私の喪失故。


セルが生きることを辞めたのだ。正しくはcell。セルも私も始めはたった一つの胚細胞。それが2倍4倍8倍16倍と倍々ゲームの如く増えてゆく。やがて細胞は分化を始め、筋や神経、骨、内蔵諸器官を形作る。思考を生み出す脳もそのたった一つの細胞から形成される。


細胞が生きることを放棄し、セルは死んだ。果たして最初に辞めたのはどの細胞か。脳か心臓か神経か。はたまた腸か筋肉か。セルの生きた年月は世間一般でまことしやかに囁かれる寿命にはまるで足りない。充分生きましたか? 思い残したことはないですか? 満ち足りた生でしたか? また生まれてきたいですか? 聞きたい事は山のように存在する。何より、どうして生を破棄したのかが知りたい。此以上生存に堪えうる状態ではなかったのか、それとも生に嫌気が注したのか。細胞の都合と思考の都合は時に相反する。同じ細胞から形成されたものであるのに。脳は死を求めるのに細胞はそれを赦さない。脳は生を希求するのに細胞はアポトーシスやネクローシスを実行する。この矛盾こそが生物。この矛盾こそが私たち。私にとって生き難い世のように、セル、あなたにとっても生き難い世だったのかもしれないね。お疲れ様。



墜ちた先は箱庭で私はそこに閉じ込められた。



落下後の記憶は酷く曖昧だ。朧げながら覚えているのは火葬場から立ち上る煙。殺人的な強さで輝く太陽の下を薄い灰色がゆっくり流れ消えてしまった。希釈されたグレーを一粒でも取り込めるよう、横隔膜を下げて肺の隅々まで吸い込む。そのまま限界まで堪えたが呆気なく口から流出していった。内側の私にできることなど眺める以外になかった。




追憶の糸が手元まで辿り着いた。





セルの遺骨を口に含む。さらさらと乾燥した骨に唾液が染み渡る。舌の上で充分味わった後、こくりと飲み込んだ。

「おかえり、私。」


ささやかな箱への抵抗。


私へセルを溶かしこむ。


生も死も等しく内包する海へ残りの骨を流した。たゆたう白はやがて水底へ沈んでゆき認識を逃れた。


ちりん


ごめんね。鈴は私たちが確かに存在したという証に手元に遺すね。セルのかわりに私が執着し希求し実行するから。



喪失は箱。

そのなかで私は遊戯する。おままごとのような生という遊戯。

私を失った私は箱庭の住人としてしか存在が赦されない。




ちりん





庭に花が咲いた。


あなたと出会った川縁に咲いていたマリーゴールドだった。

マリーゴールドの群棲に埋もれるよう横たわり、そっと目を閉じた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 紫媛さんの小説には、他にはない独特の“美しさ”がありますね。深い世界が描かれていると思います。 私は「生と絶望」や「生と死」のように一見相反しているものも実は表裏一体であると考えているん…
2009/12/28 11:04 退会済み
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