怒れ!マリー!
マリー・アンネットは激怒した!
黄金の髪の毛を逆立て、白磁の肌を朱に染め、形の良い眉は吊り上がり、今にも口から火を吹かんばかりである。
それほどマリーが激怒するのは無理からぬことであった。
なぜなら愛する婚約者、ルイ・スカーレットに自分以外にも婚約者が居ることが発覚したのだから。
ルイはフランソワ王国の王子で眉目秀麗にして大変な女好きであるからマリーは浮気をされないように目を光らせていたものだがその警戒網を潜り抜け、浮気どころか婚約までしていたとは、マリーは怒りで気を失いそうであった。
「ごめんよー。マリー。みんな魅力的な女の子でそれにみんな朕と結婚したいっていうから婚約しちゃった」
「みんな! ? みんなとおっしゃいましたか? 殿下は何人の女と婚約しているのです! ?」
「……三人」とルイは申し訳なさそうに三本の指を立てる。
その様子に不審を抱いたマリーは眉根を顰めて「わたくしを含めてですか? 」と聞くと。
ルイは泣きそうな目をマリーに向け「……マリーを含めてなら四人」と立てる指を増やした。
「きぃいいいええええええ! ! !」
マリーはついに怒りのボルテージが限界を超えた。マリーの部屋のうららかな午後の日差しが差し込めるテラスで南国の鳥のような絶叫が響いた。
「すぐに他の女たちと婚約破棄してくださいまし! 」 ルイに掴みかからん勢いで、否、掴みかかりルイの頭を揺さぶる。
「これはわたくしのみならず、アンネット公爵家に対する侮辱ですわ。アンネット公爵家をこれほど愚弄するとは許せませんわ! 許せませんわ! 許せませんわ! 」
すごい勢いで頭を揺さぶれつつも「マリー! マリー! 許しておくれ! マリー! 」と涙ながらルイが訴える。
「もちろん朕も正気に戻ったときにその三人に断りの手紙を書いたよ。あれ、やっぱなしねって」
乙女の純情をあれ、やっぱなしで踏みにじるルイはどうしようもない屑男ではあるが、それを聞いてマリーはほっと胸を撫で下ろし、なんだもう断りの手紙を出したのか、それなのにこんなに取り乱して恥ずかしいわとテーブルに置いてある紅茶を飲む。
「返事はみんな、断るって返ってきた。断ることを断られちゃった」
間欠泉のように紅茶を吹き出し、今度こそ気が遠くなりその場に崩れ落ちそうになるのを後ろに控えるマリーのメイドが「お気を確かに」と支えてくれる。
マリーとルイは幼い頃からの許嫁であった。
マリーの父、つまりアンネット公爵とルイの父、つまりフランソワ王は君臣の間柄でありながら親友でもあった。
フランソワ王は常々、「朕の子とそなたの子がもしそれぞれ男女であったならばこれを娶せよう」と言っていた。
そして偶然にも二十年前に王家にはルイが産まれ、公爵家にはマリーが産まれ、お互い三歳のときに許嫁となった。こう言えば幼い頃からの許嫁、というよりは生まれる前からの許嫁、という方が正しい。
幼い頃からの付き合いであるからこの顔立ちだけがいい幼馴染みのルイにマリーは男女としての愛とともにもう既に家族愛のようなものも芽生えている。
で、あるのに、ルイはマリーに対してこの仕打ちである。情けなくてほろほろと涙を零しそうになりながらも「いかがなさるのです? 」と問いかける。
ルイは情けない顔をして、目を泳がし「いかがしたら良いと思う? 」と逆に尋ねた。
ルイの今の気持ちが幼い頃からの付き合いだからマリーにはよくわかる。本気で困っている。
ルイは甘々に育てられた文字通りの王子さまであるからこのようなトラブル(自らの責任が大きいが)に対処する能力はない。
ことがことであるからあまり大っぴらにするわけにもいかない。アンネット公爵が聞けばかわいいマリーに対する裏切りに怒り狂い、フランソワ王にしたところで親友であり建国以来無私の奉公を続けたきた公爵家へのこの不義理は許せないだろう。廃嫡もあり得る。
マリーは目の前でおろおろとしているこの未来の夫というよりは出来の悪い弟か息子のような許嫁を是が非でも助けなければ、と思った。
「はぁ……」とマリーはため息を吐き、この顔だけがやたらと整った、頭も冴えなければ武芸に秀でたわけでもない、さらに言えば人格だってさほど善良とは言えないどうしようもないこの男のなにが好きなのだろうと思った。
運命なのだと思った。巷で言われるようなロマンティックなものではない。この人とやっていかねばならぬそういう運命の下にわたくしはいる。とマリーは思った。それこそこの縁は自分が産まれる前から決められていたことである、これを運命と言わずなんと呼ぶのだろうか。運命には逆らえない。
「……まことに不本意ながらわたくしがなんとかいたしましょう」
そう絞り出すようにマリーが言うととぱっとルイは顔を輝かせると「助かる!」とマリーの手をとった。
「しかしながら殿下、ことをすると多少手荒なことになるかもしれません。それをご承知ください」
「……ひとえに朕の不徳の致すところだがこうなれば仕方ないだろう。なれどあまり荒っぽくはしてくれるな」
どの口が誰に言っているのか本当に分かっているのかとまた頭が怒りに染まりそうになるがなんとか耐える。
こういう男なのだ、今に始まったことではない。どうしようもない男を教育していくことこそ女の役目と身中に喝を入れ、握られている手に力を込める。そろそろ本当に限界だった。
「ギィエェ! ! !」と潰れたカエルのような声をルイがあげる。
「痛い痛い痛い痛い! マリー! 手がつぶれる! 」マリーから手を離そうとジタバタするがびくともしない。
「他の女に手を出す、このような穢らわしい手……いります? 」
ぞっとルイの顔から血の気が引き、顔が真っ青に染まる。やりかねない、と思ったからだ。当然ルイもマリーの気性をよく知っている。
この話だってマリーの機嫌が良さそうなこの日を選んだ。本当は自分ひとりで解決したかったがあの三人の娘たちとて一筋縄ではいかない。なくなくマリーに相談し怒りをぶちまけられ軽蔑の視線に晒されたがなんとか助けてもらえると分かりほっと息をついた瞬間これだ。
「いるいるいる! 必要だよ! マリーを抱きしめるためにいる! 」
「あら、嬉しいわ。殿下からそのようなことを言っていただけるなんて、さっそく抱きしめて頂こうかしら」とマリーはルイを引きずっていく。
「待て待て待て。こんな昼間からはちょっと……お茶でも飲もうマリー! 」
「いえ、わたくし……こんなこと女がいうのははしたないのですけども、もう我慢できませんの……きゃっ」
「ア、アルフレッド! アルフレッド! 朕の今日の予定は! ? 今日はこれから人と会うが約束があるよな! ? 」
背後に控える自らの若く聡明な執事にルイは叫ぶようにして問いかける。おい、分かっているよな! という強い視線も送る。
「ございません」とアルフレッドはきっぱりと言い、一礼する。
「アルフレッドォオオオ! ! !」
「では、ゆっくりできますね、殿下。……ゆっくりと、致しましょう」
テラスから出て寝室へと連れて行かれる。
寝室へのドアはマリーのメイドであるエマが開けた。エマは冷めきった心臓すら凍らせるような視線をルイに向ける。
そもそもエマはルイのことが嫌いであった。自分の敬愛する主人がまたこの男のせいで要らぬ苦労をせねばならぬと思うと喉元を噛み千切りってやりたいほどの憤りを覚えた。
「エマ、来客はすべては断るように。部屋に近づかせてもいけません」
「かしこまりました」
エマは一礼して、ドアを閉める。
「ひぇええええ! ! ! 」ルイの情けない声が屋敷に響いた。