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熊谷ゆりと彼女  作者: 海豆陽豆
7/8

 全速力で走っているのにも関わらず、彼女の後姿はどこにも見当たらない。

 そもそも自分は彼女を再三に渡り拒んできた身だ。僕が彼女に会って何を話すべきなのか、何を伝えるべきなのか、何一つとして思い浮かばない。

 それでも彼女と僕は何かを吐露し合わない限り、互いに一歩を踏み出すことは到底できないと思っていた。

 まず頭に浮かんだ場所が屋敷だった。そこまで向かっている途中、波止場にて三船が船の準備をしているのが視認できた。

「三船さん! 彼女――熊谷ゆり見ませんでしたか?」

 僕の焦っている様子に困惑しながらも三船は答えた。

「熊谷さんの娘さん? 見てないけど……」

「ありがとうございます!」

 すぐに踵を返して走り始める。彼の当惑した声が呼び止めるが気にせず走り続けた。

 屋敷まで辿り着くと乱雑にインターホンを押す。すると既に玄関先にいたのか、熊谷がすぐに扉を開けた。

「蓮君……? どうしたんだい?」

 その一言で、熊谷が彼女の行方を知らないことが理解できた。

「いえ、早朝に失礼しました!」

 そもそも彼女は屋敷に熊谷たちが泊まるという理由もあって僕の家にやってきていたのだ。屋敷に戻るとは考えにくい。

 一刻を争う状況なのにも関わらず、冷静になることができずにいた。

 その後、手当たり次第に思い当たる箇所を全て回った。家屋の一つ一つ、神社、林の中に作った秘密基地、熊谷ゆりと六年前に過ごした場所の全てを見て回ったが、それでも彼女の姿は見当たらない。

 そして遂には、波止場まで戻ってきてしまった。三船はもう準備を済ませたのか、甲板で何かを飲んで一息ついていた。

「――蓮君、大丈夫か?」

 彼の口から発せられたのは僕の体調を気遣うものだった。

 思い返してみれば昨日から一睡もせずに早朝から走り回っている。心身ともに疲れ切っていた。

 しかし、そんなことを言っている場合ではなかった。最悪の場合、彼女の別れの挨拶は自らを死に追いやる発言でもあるのだ。

「大丈夫、です。あの、熊谷ゆり、見ませんでしたか?」

 激しく息切れしているため、上手に言葉を紡ぐことができない。

「いや、見てないけど……もしかしてまだ見つからないのか?」

 一度、三船に彼女を見たかどうか質問してから一時間近く経過している。

「まあ、はい。それで、もう行くんで。」

 明らかに動きが鈍くなった身体に鞭を打って駆けだそうとする。しかし三船に肩を掴まれ止められてしまった。

「待て待て。特に今日は日も出てて暑いし、そのままだと熱中症とかなるぞ。一旦休んどきなって。」

 振り向くと彼がいつもの缶ジュースを差し出してくる。しかし悠長に休憩などしていられなかった。

「本当に、大丈夫なんで。」

 視線で手を離せと訴えかける。

「……もう一時間は経ってる。その様子じゃ心当たりあるとこ含めて粗方回ったんだろ? それで見つからないなら無暗に探しても見つからない。一先ず休憩して、今一度その子がどこにいるか落ち着いて考えてみたらどうだ?」

 凪のように静かなトーンで彼は語りかけてくる。それに呑まれてしまった僕は大人しく缶ジュースを受けとることしかできなかった。

 プルタブを開けて一口飲むと渇きが僅かに解消されていく。缶ジュースを飲む僕を見て彼は頷いていた。

「…………蓮君。熊谷さんのお願いは承諾したのかい?」

 悩む様子を見せながらも堂々と問いかけてくる。

「その、知ってるんですか?」

「ああ、まあね。船を出す人間としてちょっと目的を聞きたかっただけなんだけど、熊谷さんが律義に話してくれたから。」

 それでどうしたんだい? と再度問いかけてくる。僕は呼吸を整えつつ口を開いた。

「……断りました。」

 するとその回答に三船は僅かに驚いた。

「なるほど、ね。じゃ、一つ聞いてもいいかい?」

「何ですか?」

「いやね、どうして蓮君はその子を探してるんだろうと思ってね。」

 彼の口から発せられたものは、何とも冷たい意見だった。

「いや、この意見が冷たーいものなのは理解できてるよ。でも蓮君はゆりちゃん、だっけ? ゆりちゃんと一緒に島で暮らすことを拒んだんだろ? だったらもう蓮君とは関係ない。放っておけばいいんじゃないのか?」

 冷静になって考えてみれば、彼の冷たい意見は筋が通っていた。

 僕は僕自身で彼女との関係を断ち切ったのだ。熊谷ゆりとは違うと突き放し、彼女自身も狂っていると突き放した。客観的に捉えれば僕が彼女を追う道理が分からなかった。

 彼の問いに対して反論を試みるも言葉が浮かんでこなかった。それでも精一杯の反抗として彼を鋭く睨みつける。

「でも放っておけないんだろ? それってさ、蓮君はゆりちゃんと何か別の関係を築きたいって思ってるからじゃないのかな。」

 その言葉に僕は細めていた目を見開いた。

「正直、熊谷さんの言ってることには賛同できないよ。だから蓮君が断ったのは当然だと思う。でもその子のことを大切に思ってるから突き放した後も気にかけてるんじゃないのかな。」

 ああそうだったのか、と自分の心の中の蟠りが解消されていくのが分かった。

 彼女と出会って、僕は彼女に熊谷ゆりとは別の存在だと認識した彼女に惹かれていたのだ。

しかしその惹かれてしまった人物が僕の中の大切な記憶を崩しさってしまったが故に、それと同時に軽蔑の感情を抱いていた。

そして彼女の記憶は熊谷ゆりそのもの。顔が違うといくら拒んでいたとはいえ、頭の何処かでは彼女を熊谷ゆりと認識する自分がいた。それ故に僕は彼女に対して熊谷ゆりへ向けていた稚拙な愛を僅かでも彼女に向けていたのだ。

僕が彼女に向けていた感情は僕自身が理解できないほどに複雑になっていたのだ。

「まあ、俺が思うにこじれた青春してるなー、恋してるなーって、ね。」

「…………一つ。聞いてもいいですか?」

 三船は僕の言葉に対して無言で頷く。

「僕が抱いているのは恋なら愛って何ですか?」

 僕はほんの数日前まで、熊谷ゆりに恋ではなく愛を傾けているのだと思っていた。恐らく彼女も僕に対して愛を傾けていると思っているのだろう。だからこそ、僕たちの稚拙な愛は何が拙いのか知りたかった。

「……恋は一方的なもの。性格に惚れたとか、見た目に一目ぼれしたとかそんなもんじゃないかな。愛は……何だろう。誰かに向けるとかそういうものじゃなくて、幸せを分かち合う人の間に存在するものなのかな。ぶっちゃけ、まだ結婚一年目だしよくわからん。」

 でも、と彼は続ける。

「蓮君も恋した人と一緒に幸せな時間を過ごしたら自分なりの答えが出せると思うよ。」

 そんな人物など、ただ一人だった。

 六年前は口元から見える八重歯が魅力的で、主張の控えめな鼻がいじらしくて、丸めの顔が可愛らしくて、トロリとした目元が煽情的で、楽しいときを一緒に過ごして、最後には結婚の約束をして別れて、今では並びの良い歯が端正で、すらりと通った鼻が美しく、調和のとれた顔が可憐で、はっきりとした目元が麗しく、僕との記憶を大切に抱えている、熊谷ゆりという彼女のみだった。

 残っている缶ジュースを飲み干す。蟠りが完全に消え失せ、思考が驚く程に巡っていた。

「三船さん、今日、帰るんですよね?」

「ああそうだよ。」

「僕とあと一人、乗っていっても大丈夫ですか?」

 その問いかけに彼は力強く頷いた。

「ほら、ゴミよこせ。そして早く行ってこい。」

 彼と同じく、僕は力強く頷く。

 そして僕は何かに駆られることなく、自分の意志で走り始めた。


   ◇   ◇   ◇


 一度だけ、彼女と喧嘩してしまい、彼女に逃げられたことがある。散々探し回った挙句、熊谷に泣きつくと島の端に位置する小さな洞穴を教えてもらった。曰く、彼女は激しく泣き出すとそこに身を隠すのだという。

 その時は結局、大泣きしていた彼女を島の住民が捕まえ、再会した僕たちは大泣きして仲直りした。だから彼女と僕はまだ、その場で一緒の時間を過ごしていなかった。

 おそらく僕はまだ、彼女の奥底に触れることができていないのだろう。だからこそ、この瞬間に触れ、抱きしめなければならない。

 漸くその洞穴の目の前までやってくる。中には日差しが決して当たらないため、真っ暗だった。

「……聞こえるか?」

 その言葉に対し返事はなかった。しかし奥からは息を飲む気配が感じられる。それだけで十分だった。

「言ってなかったことがいくつもあって。それでここに来た。」

 特別なにか反応があるわけでもない。それでも僕は続けた。

「僕は熊谷ゆりに惹かれていたんだと思ってた。でも君と……再会して、気づいたよ。僕は六年前の熊谷ゆりの顔が好きだったんだ。だから僕は君がどうしても許せなかったし、君をその理由で突き放した。」

 そして、と僕は続ける。

「君に身体を求められたときは、君にとっての幸せは僕にとっての幸せと大きく離れていたと思った。君は周りが見えていない、狂っていると僕は感じた。その状態で選んだ人生は君にとって間違っていると思った。だから、突き放した。」

 そこで初めて、そこにいる彼女が声をあげる。それはとても荒々しいものだった。

「ちがう! 間違ってなんかない!」

 暗闇に慣れてきたのか、うっすらと視認できた彼女と目が合う。

「私は絶対に幸せなんだ。そして私は絶対に蓮君を幸せにする。そのための努力だってしてきただから――」

「間違ってる!」

 彼女の言葉を遮るように叫んだ。

「君が幸せかどうかは君にしか分からない。それは正しいのかもしれない。だからこそ、僕の幸せは僕にしか分からない。そして僕自身は、君のその人生において幸せになれる気が全くしないんだよ。」

 それは、と僕は言い放った。

「ただの満足感。欲望を満たして一時的に得ることのできる充足感。それが僕と君が勘違いしていたものだよ。」

「でも、でも! 私は蓮君のことをこんなにも愛してる!」

「僕も愛してると、思ってた。でも違うんだ。」

「何が……何が違うの……」

「僕も君もお互いがお互いの幸せを理解してない。僕が思う熊谷ゆりの幸せも、君の思う僕の幸せも、自分の欲望に巻き込んで幸せだと決めつけていたにすぎないんだ。きっと僕たちの想い描くお互いの幸せはそれぞれにとっての不幸なんだよ。……それを愛してるとは言えない。自分の欲で形作られた成熟した恋、或いは精々稚拙な愛程度のものなんだ。」

 今まで頭を巡っていた考えを次々に吐露していく。とりとめのない複雑なものだったが、それが僕の彼女に対する本当の想いだった。

「じゃあ、じゃあどうすればいいの。私は蓮君の側にいたいのに。一緒に暮らしたいのに、でも私の想いは蓮君を不幸にするばかりで、じゃあ、どうすればいいの。」

 彼女の声は涙ぐんだものに変わっていた。

「僕にとって、恋をしたのは熊谷ゆりが最初で最後だったんだ。」

「わたっ、私も、蓮君がずっと、ずっと、好きだった!」

「理想的な愛なんて分からないけど、醜いまでに強い恋は絶対に本物なんだ。だから熊谷ゆりとなら、僕はきっと愛を理解し合えると思ってる。」

 彼女と、熊谷ゆりと一緒にいたい、この気持ちは決して変わらない、明白なものだった。

 彼女と一緒でなければ、僕は本当の幸せを手に入れることができないと六年間をもって確信していた。たとえ幸せよりもたくさんの不幸がその道に待っていようとも。

 正しいことじゃなくても、間違ってはいなかった。

「僕は君の思う幸せと不幸せを受け入れて理解するよう頑張るよ。だから、僕の思う幸せと不幸せを受け入れて理解するよう頑張ってほしいんだ。そうすればきっと、お互いに愛が理解できると思うんだ。」

 だから僕は、彼女に向かって手を伸ばす。

「僕と一緒に人生を歩んでくれるのなら、僕の手を取って。」

 そして六年ぶりに彼女の名前を呼んだ。




「ゆりちゃん――――」

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