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熊谷ゆりと彼女  作者: 海豆陽豆
6/8

 朝の一件以降、幾度となく考えを巡らせてみたものの、無理解と理解が堂々巡りしてしまい、単純な否定の言葉さえ得られずにいた。

 外は既に暗くなり、朝方から空を覆っていた雲から雨が降り始めている。雨が静かに地面を打つ音が鼓膜を震わせていた。

 とりあえず夕食を済ませ、ソファに横になりテレビを点ける。気分が多少なりとも紛れるかと思ったが、嫌でも考えを巡らせてしまう自分の頭はそれを騒音と認識してしまい、すぐに消してしまった。

 ソファから立ち上がり、リビングを煌々と照らすライトを消すと自室へと向かう。そして数日前から敷きっぱなしの布団に身を投げ出した。

 数日間敷いたまま、湿度の高い夏、等の理由からか久しぶりに横になった布団は僅かに湿っており、不快感を煽る。

 それを忘れようと目を閉じる。すると眠気がやってきて徐々に僕の意識を侵食していった。

そのまま眠りに就こうとすると甲高いインターホンの音が家中に響く。静かな空間を切り裂くその音は酷く無作法なもので、眠気を悉く吹き飛ばしていった。

 布団から起き上がると玄関へと歩みを進める。

 チェーンロックをして玄関扉を開けると、傘を差した彼女が立っていた。その表情は今までのものとは異質で、強い緊張感を漂わせている。

「ごめんね、蓮君。でも『また明日』って言ってくれたから……」

 彼女の訪問は些か予想外だった。それでも驚かずにいられたのは苦悩している自分が心の何処かで彼女と話したいと願っていたからかもしれない。

 或いは、彼女を一度拒んだとはいえども、僕へ全幅の愛を傾けてくれていることへの罪悪感や陶酔感に溺れつつあることが理由かもしれない。

「いや、謝ることないよ。上がって。」

 一度扉を閉めチェーンロックを外し、彼女を招き入れる。既に間取りをある程度理解しているからか、前を歩く彼女の足取りは滑らかだった。

 奥まで進んでいくと示し合わせたかのように僕と彼女は前回座った椅子と同じものに着く。

「その……いきなり来て申し訳ないんだけど、何か飲み物、もらえないかな?」

「あ、ごめん。お茶くらいしかないけどいい?」

 彼女は返答の代わりに首を縦に振る。その様子を見届けた僕はキチンに足を運び、昨日と同じく市販のお茶をグラスに注ぎ彼女に差し出した。

「ありがとう。」

 一言礼を言ってグラスを手前に引き寄せると、彼女はポケットから一つの小瓶を取り出す。中では無色透明の液体が揺らいでいた。

 そして小瓶の蓋を開けると、中の液体をお茶に数滴たらす。

 そのとき、熊谷の言葉が頭をよぎった。

「待て。……それ、毒じゃないよな?」

 既に彼女は過去に自殺を図っている。そのため死ぬことへのハードルが大きく下がっているはずだ。躍起になってしまえば、その場の勢いで死んでしまえるほどに。

その点を加味して熊谷は僕に早く選択するように迫ったのだろう。

「……え? ……ああ、これ?」

 彼女の一挙手一投足を緊張して監視する僕とは裏腹に彼女は声を堪えるようにして笑い出した。

「安心して。これは毒物でもなんでもないよ。特に健康を害するものでもないし、ね。」

 小瓶の蓋を閉めるとテーブルの上にそれを置く。そしてグラスを手に取った。

「……本当にそれは毒じゃないんだな?」

 嫌でも最悪の状況が浮かんでしまう。目の前で彼女が自ら命を絶ってしまうことは当然看過できなかった。

「心配してくれて嬉しいけど、本当に大丈夫だから。それでも不安なら――」

 飲んでみる? と彼女は持ち上げたグラスを僅かにこちらに傾かせ問いかけてきた。

 仮に混入させたものが毒物だった場合、彼女は自身が愛していると公言した人間に毒を差し出していることになる。

 目の前の彼女はそんなことを絶対にしないと、六年間積み上げてきた想いが訴えかけてきていた。

「いいや、そこまで言うなら信用するよ。」

 その言葉に彼女は心底嬉しそうに微笑んだ。

「うん。正直なところ、あんまりこれを蓮君に飲ませたくはなかったし、何より信用してくれたのがとっても嬉しいよ。」

 そして彼女はグラスを一気に仰ぐ。余程喉が渇いていたのか一気に飲み干してしまった。

「……ほら、死んだりしてないでしょ?」

 そう言って彼女はいたずらっぽく笑う。その様子を見て、安堵している自分がいた。

「それで、ただの液体ってわけじゃないだろ? 何入れたんだ?」

「うーん、もう少し経てばわかると思うよ。」

 僕の至って当然な疑問は即座にはぐらかされてしまう。再度問おうと口を開くが、その前に彼女の発した言葉に遮られてしまった。

「あのさ! 蓮君、父さんに会ったんでしょ?」

「ああ。今日の朝に。」

「そっか……」

 この話題を切り出したということは、彼女が熊谷の訪問を知っていることの何よりの証だった。

「その様子だと熊谷さんが来てたの知ってるみたいだけど、会った?」

 その問いに彼女は首を横に振る。

「ううん。会ってないよ。インターホン越しに少しは話したけど。今は屋敷に泊まってる。船の操縦士と一緒に。だから逃げてきたっていうのもあるんだ。」

 僅かに眉を顰めながら視線を窓へとずらし忌々し気に呟く。

 しかし次に正面を向いたときには元の不安そうな表情に戻っていた。

「それで、父さんから、いろいろ聞いたと思うんだけど。」

 いろいろ。彼女の言っていることとは、この島で僕と一緒に暮らすことだろう。そしてその計画は彼女自身も知った上で承諾しているようだった。

「聞いたよ。……君はそのこと、どう思ってるの?」

 受け入れているのだから、ある程度肯定的であることは伺える。しかしそんなことが聞きたいわけではなかった。

「もし蓮君が快諾してくれるのなら、とっても嬉しく思うよ。実現したら最高に幸せだと思うし、私は蓮君を必ず幸せにする。」

 彼女の口から発せられたのは、僕の期待とは大きく異なる言葉だった。

「それが本当に、最上の幸せなのか?」

「うん。蓮君と二人っきりで居られれば他はどうだっていい。私は蓮君を好きになるために生まれてきたんだと確信してる。」

 それは僕の考え得る限り、最悪の答えだった。

 彼女の父、熊谷はその提案が妥協案や次善策であることを痛いほど理解した上で選択をしている。

 一方で彼女は恐ろしいほどに目の前の恋に盲目だった。それが本当に一番なのかどうか疑うそぶりさえ見せないほどに。

「もし、他に違う道を進む可能性があるとして、それでもこれが一番なのか?」

 『もし』というあくまでも仮定の話だ。進んできた人生には当然、仮定は存在しない。それでもこの問いを投げかけたのは、彼女が未だに一縷の望みを抱いていることを願ってのことだった。

 僕の問いかけに対して、ゆっくりと彼女は頷く。その所作に迷いは一切感じられなかった。

「不幸なこと、たくさんあっただろ?」

 次に彼女は首を横に振る。やはりその所作にも迷いは一切感じられなかった。

「それも、蓮君と結ばれるために必要不可欠なことだったと思うから、不幸だなんて全然思ってない。」

 今更ながらに、彼女が手遅れなところまで沈んでいってしまっていることに確信を持ち始めていた。

「ねえ、私はとっても、素晴らしいことだと思ってるんだけど、きっと、蓮君は嫌なことだと思ってるよね。」

 僅かに双眸を虚ろにしながら彼女は続ける。

「だって私は、蓮君にとって、熊谷ゆりじゃなくて、一人の醜い一般人なんだから。」

 でも、と彼女は肩を怒らせながら懇願の視線を向けてきた。

「やっぱりヤダよ。嫌だ。捨てないで、蓮君。私、蓮君と一緒なら、他はなんだっていいから、だから、だからお願い。一緒に暮らそ?」

 彼女自身に余裕がなくなってきたのか、或いは断られることへの恐怖に呑まれつつあるのか、言葉を紡ぐ様子はとても不安定なものだった。

 一度、僕は彼女を突き放している。それでも再度問いかけてきたのは、僕が熊谷と話し、考え直したという可能性に賭けてのことだろう。

 故にこれが最後だった。ここで承諾すれば彼女は笑顔で応えてくれるだろう。しかし歪ませて形作られた笑顔は、僕にとっても、彼女にとっても、そして熊谷ゆりにとっても侮辱的なものだった。

 何より、僕の美しい記憶を汚されたくはなかった。

「それでも、駄目だ。」

 憮然として、僕は予め用意していた言葉を言い放つ。

 それを聞いた彼女の双眸は潤み、口は絶望したかのように開かれ、今にも崩れ去ってしまいそうだった。

 それでも僕は決して言い直すことはできない。

 決意は固かった。

 目の前の彼女は次いで肩を震わせ始める。泣き出し、躍起になってしまうのではないかと身構えたが、彼女の口から溢れ出たのは泣き声ではなく、何かを諦めたかのような渇いた笑いだった。

「あはは……だよね……蓮君、私の顔はダメだって、言ってたし、心もダメだって、言ってたし、熊谷ゆりの記憶を持つのも、許せないって、言ってたもんね……」

 はあ、と何度もため息をつく。落胆の様子が全く見られないことが一抹の恐怖を掻き立てた。

「あ、あのな――」

「でも!」

 彼女の叫び声が僕の声を遮る。それは続く僕の言葉を言わせまいと押し潰すようだった。

「まだ、まだ、中身は知らないよね? だから外見じゃなくて、心じゃなくて、中身を感じて、判断して?」

 手をテーブルにつき、ふらつく身体を支えながら、彼女は椅子から立ち上がる。

 呼吸はいつの間にか荒々しく、真っ白な頬はほんのりと赤らんでいて、瞳は妖艶に濡れていた。

「もしかして、さっきの液体って……」

「へへへ、あと少し、勇気が足りなかった、から。ね?」

 覚束ない足取りながらも、ゆっくりと確実に彼女はこちらに近づいてくる。度々溢れ出る吐息はこれから訪れるであろう享楽に歓喜の声をあげているようだった。

 つまり彼女はこう言っているのだろう。『肌を重ね合わせ、身体の相性で判断してくれ』と。

 彼女は既に欲望に呑まれつつあるのか、渇望を満たすことを懇願する視線を僕に向ける。しかしその双眸には僅かに恐怖の感情が渦巻いていた。

 その恐怖は恐らく、全てを拒んできた僕に対する最後の最後の提案を断られてしまうことに対するものだろう。薬を使って理性の箍を外したことも、恐怖から湧き出る躊躇いを払拭するための手段であったように思えた。

「……蓮君…………蓮君……」

 身体の温もりを、欲望を満たす快楽を、そして何より彼女にとっての理想的で幸福な人生を、狂信的に渇望するその姿は僕の描く幸福な人生から最も離れた存在だった。

 互いが互いを理解しあい、時に喧嘩をし、その度により一層仲を深め、苦しいことも辛いことも、楽しいことも嬉しいことも、隣にいる人と自身のそれを半分にして互いに分かち合う人生。

 熊谷ゆりとなら、きっとそんな人生を送れると思っていた。

 しかし彼女とはそんな人生を送れると思えなかった。

 彼女の一方的な依存。彼女は僕の全てを受け入れてしまう。彼女にとって僕がいれば辛苦は無く、全てが幸せに満ちたものなのだろう。それが理解できない僕は彼女とそれを分かち合えない。

 そして何より、醜い僕の感情が彼女を熊谷ゆりだと決して認識しなかった。

 狂った彼女の想いと醜い僕の感情によって、歪みきった偽りの幸せに満ちた人生が、彼女の背後には広がっていた。

 いつの間にか、彼女は僕の目の前にやってきていて、僕の肩に手を添えている。華奢な彼女の腕では大した力も出せていなかったが、その両手は僕をその場に縛り付けるほどの拘束力を生み出していた。

「そのまま、ね?」

 彼女の妖艶な唇が近づいてくる。口紅を塗っているのか定かではないが、光に照らされるそれは怪しく輝き、艶めかしいものだった。

 じっくりと、確実に僕と彼女の距離が縮まっていく。

 このまま彼女の愛を受け入れ、堕落していけたのならどんなに簡単なのだろうと、彼女の愛に確信を覚え、それに溺れつつある自分の感情が心を侵食していく。

 それはきっと楽しいことなのだろう。気持ちのいいことなのだろう。心地よいことなのだろう。

 しかし本当に幸せなのだろうか。

 楽しい、気持ちのいい、心地よい、可愛い、美しい、魅力的。

 彼女の求めるものは全て、無限の欲望を一時的に満たすための即物的な満足感や充足感だった。さながら食事をして空腹感を抑えるように。

 魅力的、いじらしい、可愛らしい、煽情的。

 僕の求めるものは全て、一時の欲望を解消するための即物的な満足感や充足感だった。さながら欲しいものを買って物欲を抑えるように。

それによって人間は確かに幸福を感じ、ひと時を幸せだと認識することができる。だがそれは人生における『幸せ』とはかけ離れたものだ。

 僕も彼女も、『幸せ』という言葉を深く理解した気になり、あまつさえそれを他人に振り翳していた。

 漸く気付くことができた。

 僕も彼女も、成熟した恋と稚拙な愛を持っていた歪な存在だったのだ。

 彼女の吐息が僕の唇に触れる。目を閉じた彼女は期待と不安を一身に背負っていた。

 ここで受け入れないということは、彼女の期待を裏切り、不安に加担する行為に他ならない。その行動が正しいという確信を抱くことはできなかったが、間違っていないという確信を抱くことは既にできていた。

 彼女の吐息が遮られる。そして次に彼女の呼吸が止まった。

 手のひらに感じる彼女の唇の潤いや柔らかさがくすぐったい。僕が拒んだその感触が鋭利な刃となって僕の心を突き刺す。

 互いにゆっくりと距離をとり、僕が彼女の、彼女が僕の瞳を覗き見る。

 彼女の双眸には絶望の感情が渦巻いているようにしか見えなかった。そしてあふれ出す大粒の涙が、絶望に染まり切り他の感情を表すことができなくなっている瞳の代わりに、僕に悲しみを伝えていた。

 僕の瞳にはどんな感情が渦巻いているのだろう。

 しかし彼女の瞳は感情によって濁り、涙でかすんでいたため、僕の双眸がはっきりと映ることは決してなかった。

 そのまま長い間、互いに静止したまま向き合っていた。時が止まっているような錯覚が頭を支配しようとするが、唯一彼女の涙は流れ続け、時の流れを嫌でも感じさせていた。

 数時間後、朝日が部屋に差し込んでくる。

 そこで彼女の口から小さく、短い一言が発せられた。

「さよなら。」

 そして彼女は走ってその場から立ち去っていく。玄関の扉が閉まる音が聞こえたとき、僕は漸く動き出すことができるようになっていた。

 終始、彼女の涙が枯れることはなかった。そして瞳を支配していた感情が別のものに変わることもなかった。

 輝く太陽の光が、テーブルの上の小瓶を照らす。手のひらには彼女の感触が未だ残っている。

 再会の約束をせずに僕と彼女が別れたのは、これが初めてだった。

 追わなければ。

 彼女とこのまま別れてしまっては、絶対に駄目だという根拠のない感情が僕の心を駆り立てる。

 僕は走り始めていた。

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