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熊谷ゆりと彼女  作者: 海豆陽豆
5/8

 結局あのまま一睡もできずに早朝を迎える。シャワーを浴びた後、適当に朝食をとると僕は家を出た。

 外は明るくなっているが太陽は顔を出していない。雲に覆われた空からは今にも雨が降り出しそうだった。

 波止場の方へ歩いているといつもの通り木々が風に揺らめく音が聞こえてくる。普段ならばその音は心地よい響きとなって僕の心を満たしていくのだが、今は思考を乱す雑音にしか聞こえなかった。

 少しずつ地平線が見えてくる。今日は美しい蒼と藍の境界線は広がっておらず、濁った白とくすんだ青の境界線が広がるばかりだった。

 波止場が視界に入ってくる。すると一隻の船が泊まっていることに気が付いた。

 その船に近づいていくと中から二人の男性が出てきた。一人はこの船の所有者である三船であり、もう一人は初老でスーツを着用した、上品な男性だった。

「おっ! 蓮君。丁度よかった。君に用があるって人を連れてきたよ。」

 そう言って彼は視線を初老の男性へとずらす。するとその男性は深々と礼をした。

僕もそれにつられて礼をする。

「こんにちは、蓮君。私のことを覚えているだろうか?」

 彼は目を真っすぐ見ながら話し始めた。

「もしかして、熊谷ゆりさんのお父さん、ですか?」

 その言葉に対し、彼の表情が僅かに明るくなる。

「覚えていてくれてとても嬉しいよ。久しぶりだね、蓮君。」

「はい。お久しぶりです。」

 彼との挨拶を軽く済ませると、それまで静観していた三船が口を開いた。

「それで、熊谷さんが蓮君と話がしたいって言われたから連れてきたんだ。熊谷さん、僕は船で待っているのでお好きなだけお話しください。じゃ、蓮君もまた後で、な。」

 そして三船は船の中に姿を消す。この場には僕と熊谷が取り残された。

「少し歩こうか、蓮君。」

 彼はゆっくりと歩き始める。その方向は彼女がいるであろう屋敷とは真逆の方向だった。

「はい。」

 返事をし、彼の後をついていく。

 恐らく話とは彼女のことであろう。なかなか話を切り出さない彼の背に向かって僕は言葉を発した。

「話って、彼女――熊谷ゆりのことですか。」

 その言葉に対して彼は数十秒の沈黙の後、口を開く。

「そう、ゆり……私の娘に関する話と、お願いをしにやってきたんだ。」

 そして彼は立ち止まりその場で振り向く。

「もう、ゆりとは会ったかな?」

「はい。恐らく彼女がこの島に来た日に。」

「蓮君は、どのように感じただろうか?」

 その問いを投げかける彼の表情は不安と期待の入り混じったものだった。

 それに対し僕は、何か答えることもなく沈黙する。

「まあ、言いづらいこともあるだろうから、無理に答えてくれなくて構わないよ。」

 なら、と彼は続ける。

「質問を変えよう。ゆりから、あの子の昔の話は聞いたかい?」

 僕は無言で頷く。

「ならば話は早いね。聞いたときに感づいていたかもしれないけれど、あの子は自分の顔が醜くて怖くて見ることができない、醜形恐怖症の可能性があると診断された。その結果、整形に依存してしまった。」

「僕にとっては昔のゆりちゃんの方がとても魅力的だと思うんですけど。」

 そんな僕の言葉に熊谷は嬉しそうな、それでいて悲しそうな顔をした。

「ありがとう。あの子もそんな言葉を聞けたらとても嬉しいだろう。……ただ本当に悔しいのは、もっと早く、あの子にその言葉を――というのは、あまりに失礼だね。」

「いえ……気にしないでください。」

 彼自身、彼女との接し方について思うことが多々あるのだろう。娘に対して大きな愛があったのだろうが、それを彼女に示すことを怠ってしまったという悔恨や、僕が六年前の彼女に一言でも彼女の容姿を褒めていたらという願望が。

「あの子は元々、精神的に弱かったのかもしれない。けれど気丈に振舞っていてね。それに甘えていた。いや、気付かなかったと言った方が正しいね。初めてあの子が精神的な病に侵されていると気づいたのはあの子が自分の顔に包丁を突き立てようとしたときだったよ。それまで、休みがちな学生としか認識していなかった。……そんな過去の自分が腹立たしいよ。」

 言葉を紡ぐ目の前の彼は心底怒り狂ったような視線で、悲嘆にくれたような、力ないため息をする。

「あの子が一度自殺を図ったことは聞いているかい?」

 再度、僕は無言で頷く。

「そのときあの子は走馬燈でも見たのかな、君のことを鮮明に思い出したみたいでね。丁度一年前くらいだよ。それからほんの僅かだけど前向きになって、蓮君に失望されたくない、見捨てられたくない一心で魅力的になるように努めていたよ。料理などの家事であったり、まあ有体に言うと専業主婦として非の打ち所の無い女性になるように、ね。それと、ひたすらに化粧を覚えようとしてたかな。鏡を見れないのにどう覚えたのか不思議だけどね。」

「その、自殺しようとしてから整形は止めたりしなかったんですか?」

「そのことなんだけどね。最初はあの子の望むままにしてたんだけど、二重手術をしたあたりで、私は徐々に別人になりつつあるあの子の顔を見て、もう一度激しい危機感を抱いたんだ。このままでは駄目だと。だからどうにかしようと考えたんだ。そして思いついたよ。」

 彼女の整形依存を止めさせる、そんな得策を思いついたのにも関わらず、彼の表情は曇ったままだった。

「このまま整形を続けたら、蓮君がゆりのことを熊谷ゆりだと分からなくなるよ、と。」

 その言葉を聞いた途端に、自分の中でわだかまっていた疑念の一つが明確になる。

 彼女が整形に依存していることは明白だった。しかし、それにも関わらず彼女の言葉は整形の美徳を語るものではなく、整形に対する否定的意見を排斥し、どうにか正当化しようと足掻いているものだった。

 整形のポジティブイメージを誇張するのではなく、ネガティブイメージをひた隠そうとするように。

 つまり彼女は僕に愛を傾けた故に、今まで自分が溺れてきたものの代償を受けることになったのだ。僕に認めてもらおうと行ったことが結果として僕に受け入れられないのではないかということに、自分で自分の首を絞めてしまったことに、気づいたのだろう。

そのときの彼女の心境は推測できるが、想像できるほど安易な感情でもなかった。

「それを言った途端、整形をせがむことは一度だけ収まった。けれどそれから少し経って、再度整形をせがんできた。」

 そのときに彼女が何と言ったか、想像に難くなかった。

「もとに戻して欲しい、ですか?」

 その言葉に彼は無言で頷く。

「当然、一度手を入れた顔は元に戻せない。仮に上手くいって元の顔に近づけることはできても、それは元の顔の酷い劣化にしかならない。あの子も分かってはいたんだろう。そのときのゆりは最後の希望にすがっている様子ではなく、淡々と事実確認をするように問いかけてきてね。……あの子には私がもう見えていないと、私が何を言っても無意味、手後れなのだと悟ったよ。」

 そこで彼は大きくため息をつく。その姿は今まで何かに耐え忍んできたものから解放されたような安堵感が含まれていた。

 と、自身の振る舞いに思うところがあったのかすぐに姿勢を正し、謝罪の言葉を口にする。

「ああ、すまないね。私だけ懺悔して、満足してしまって。」

「……いえ。」

 肯定とも否定ともとれる曖昧な返事をする。迷惑でないと言えば嘘であったが、一方で迷惑だと突き放すことはできなかった。

 熊谷はその旨を全て理解したのか、申し訳なさそうに苦笑した。

「気まで使わせてしまって、本当に申し訳ない。……今言った通り、あの子に対して私はもう、殆ど何もしてあげることができない。だから私はせめてもの償いで、今ここにいる。」

 彼はそこで言葉を切り、姿勢を正して僕に面と向かって立つ。

「実を言うとね、この島の住人の退去は私が中心になって行ったんだ。一ヶ月、前倒しにして夏休みに被せたのも私だ。そして……私はこの島を買い取った。」

 突拍子のない、かつ現実的でない発言に僕は困惑を露わにする。そもそも別荘を持つ程度の彼が退去に関わる意味もあまりないだろうし、何ら資源的価値のないこの島を買う意味が分からなかった。

「どういうことですか?」

 故にシンプルな疑問を投げかける。それに対して彼は予想していたかのように、淀みなく返答する。

「あの子は蓮君と一緒にいられさえすれば幸せだと、何度も何度も言っていた。でもあの子は精神的な影響によって閉ざされた世界でしか生きていけない。人の目線があるだけで恐怖してしまうほどだからね。だから私はあの子にこの島を用意した。」

 僕はその全容にただただ驚愕し、恐怖することしかできなかった。

 彼女に中てられたのか、彼の愛もどこか狂っていた。

「この島は全方位が綺麗な水平線。さながら隔離された一つの小世界のようだ。そこに蓮君、あの子が愛する君がいれば世界には二人だけ。食料やインフラの問題も月一回の便で解決できる。この島で、せめてあの子が死んでいくまで、一緒に暮らしてくれないだろうか?」

 彼の視線や声音、立ち振る舞いの全てが冷静沈着そのものだった。だからこそ、彼の言葉が酷く印象に残り、狂気を増幅させている。

「もちろん、蓮君を島に縛り付けるなんてことはしない。好きな時に、自家用の船を出して本州間を行き来しよう。ただ、蓮君の帰る場所がこの島であり、あの子の側であって欲しいんだ。」

「正気ですか?」

 そんな愚問が反射的に口をついた。目の前の彼が正気であることは分かっているものの、紡ぐ言葉が冷静や正気の類から大きく離れていたため、困惑していたが故なのかもしれない。

 その言葉に熊谷は無言で頷くだけだった。

「それが……それが本当に彼女にとっての一番の幸せだと思ってるんですか?」

 余生を孤立した島で、それもたった一人としか会わないことが人間的に幸せな生活だとは考えられず、それを愛する娘に与える彼の考えが理解できなかった。

「…………一番の幸せだとは、一度も思ったことはない。むしろ、最も不幸な人生だと思っているよ。」

 あまりに重々しい言葉に、僕の口から出かかっていた義憤のようなものは霧散してしまった。

「ただね、こんな道をあの子が辿ってしまった以上、一番の幸せを掴むことは叶わないんだ。だからこの状況における、あの子にとっての一番の幸せ、最悪な人生の中でのささやかな幸せ、それを私は与えてあげたいんだ。」

 どんな困難に苛まれても、いつだって幸せな人生を送って欲しいという親心だということを僅かながらに感じ取った。

 しかしそれは妥協案、次善策、つまり何かを諦めるという人生において最も不幸な選択の一つだった。

 そしてその不幸な選択を彼女に与えてしまったことを仕方ないと飲み下している彼を理解することはできなかった。

「蓮君。私の頼みを、あの子の幸せを承諾してはくれないだろうか?」

「…………少し、少し考えさせてください。」

 けれどこの場で彼の頼みを断ることができなかったのは、心の片隅で彼の苦悩を僅かながらに共感してしまっているからだった。

「分かった。蓮君の人生にとっても一つの大きな決断だ。急かすことはあまりしたくない。」

 ただ、と熊谷は続ける。

「蓮君も会ってみて分かったかと思うが、あの子は今、とても不安定なんだ。君と幸せに暮らすことのみを夢見て、その実現を原動力に生きている。だから……あの子が、夢を諦めて自ら命を絶つ前に、お願いしたい……」

 そして深々と頭を下げてくる。それは断ることを躊躇わせるほどに痛々しいものだった。

「分かりました。……では、失礼します。」

 未だ頭を下げ続ける彼に背を向け、自宅へと歩き始める。

 いつまで経っても、背後から自分以外の足音が聞こえてくることはなかった。

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