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真夏特有の蒸し暑さに目を覚ます。
少しずつ意識が覚醒していき、小鳥の囀りや波のさざめきを脳が認識し始めた。
時計を見ると午前十時を回っている。僕は布団から這い出た。
僕の住んでいるこの建物は古き良き平屋だった。水回りにはある程度新しい家具や設備が導入されているため、不便に感じることも特にない。
蛇口を捻って顔を洗い、キッチンに置いてあるロールパンを口にくわえながら、家じゅうの遮光カーテンを開けていく。今の季節は夏。日差しを取り込み、換気しておかないと湿気などが屋内に溜まっていってしまうからだ。
家の南側のカーテンを次々と開けていく。この平屋は規模としてはなかなかのもので、全てを開け放つだけでも一苦労だった。
全て開け終え、自室に戻って着替え始める。
そしてステテコにTシャツの部屋着と何ら変わらない姿になり、納屋から荷台を取り出すと家の外に出た。
視界に広がるのは海、林、海、小高い丘、海……建物は殆ど見られず、人影に関しては皆無だった。
僕の現在住んでいるこの場所は無人島一歩手前の小島だった。
数か月前までは二桁に届くくらいには住民がいたのだが、定期便が今日を皮切りに打ち止めになるという話がまとまり、島の全員は本州の都市に移住する運びとなった。
皆、納得していた。当然僕も妥当であると思っている。
高校は通信制に通っていたのだが、来年の春には大学に入る予定であったし、都市に移り住むことは何かと都合がいい。
だから納得していた。
それでも僕には一つ、心残りがあった。
この島には平屋が何件か建っているほかに、少し離れたがけっぷちに、この島の雰囲気にそぐわないような大きな洋館が鎮座している。
そこに滞在しにやってくる少女と僕は六年前の一夏の間、仲良く遊んでいた。
当時の僕は一目ぼれのような何かに囚われていた。
そして、あどけなく無邪気に笑う彼女は今でも僕の脳裏に焼きついている。
そんな彼女と約束を交わしたのだ。
「二人とも大人になったら、ケッコンしよう。」と。
稚拙なものである、と笑ってくれて構わない。それでも高校三年の一夏をこの島で過ごす動機としては十分だった。
洋館――恐らく別荘の一つであろうあの建物に住む彼女と自分とでは、身分も財力も、何もかもが大きくかけ離れた縁のない存在なのであろう。
しかしこの島が奇妙な縁を紡いでくれた。
しかし僕は島から離れ、彼女との縁は切れてしまう。
だから高校三年の夏休み、八月の間一ヶ月、島の最後の住人となって僕は彼女を待つことにした。
島で唯一、正しくは一般に開放されている唯一の波止場に到着する。
すると既に一隻の船が泊まっており、一人分の人影が見受けられた。
船の真横までやってくると声をあげる。
「すいませーん。」
寝て起きた後、初めて声を出したためか思ったより声が出せずにかすれてしまった。それでも船の主には聞こえていたようで返事が戻ってくる。
「はいよっと。お! 蓮君じゃないか。こんにちは。」
半袖短パンの、肌を真っ黒に日焼けさせた大柄の男性が姿を現す。
彼がこの船、島にやってくる定期便の操縦者である三船渉だ。
「こんにちは。それと本当にすいません。お手を煩わせることになってしまって。」
その言葉に彼は首を振った。
「いいや。もともと今月末までって話だったし、謝る必要はないよ。それに回る島も他にたくさんあるから大した手間じゃないしね。」
彼の言っているとおり、定期便は本来今月末まで来る予定だ。
しかし自分が残ると言う前までは、住民が退去することから先月で打ち止めだった。故に僅かながら罪悪感を覚えているのだ。
「じゃあ今日までありがとうございます。」
「それでいいのさ。……さて、ささっと荷下ろし終わらせるか!」
そして彼と僕は手早く荷下ろしを終わらせていく。何分手伝うのは初めてではなかったため、とても素早く終えることができた。
「ほい、お疲れさん。」
そう言って三船さんは缶ジュースを差し出してくる。荷下ろしの手伝いをすると必ずもらえるのだが、いかんせん本州の都市にあるお店のあまりもののため、聞きなれない飲料が殆どだった。
「ありがとうございます。」
船内の冷蔵庫で冷やされたものを受け取る。手に伝わる冷たさが心地よかった。
「それにしても、この島もすっかり寂しくなったな……」
缶ジュースを口に運びながら三船さんは口を開く。
「そうですね……」
目の前には手入れが数日間されていない畑、人気のない平屋、小高い丘に位置する古めかしい鳥居。聞こえるのは波のさざめきと木々が風に揺れる音だけだった。
「なんだか、ここが異世界みたいだ。」
そして残っていたジュースを彼は一気に飲み干す。僕もそれに倣って最後の一口を口に含んだ。
「さて、そろそろ次の島に行かなきゃいけねぇから。」
大きく伸びをすると彼は甲板に飛び乗る。すると船が小さく揺れた。
「ありがとうございました。三船さん。」
再度、彼に向かってお礼をする。閉ざされた島において定期便は大きな手助けになっていた。
「おうよ。じゃ、またな!」
彼が操舵室に入り、しばらくすると船にエンジンがかかる。そして次の瞬間にはゆっくりと船が動き出していた。
「じゃ、蓮君! 体調には気をつけてな!」
窓から顔を出し、三船さんが手を振る。
「三船さんも気を付けて!」
僕は手を振り返す。
その後船はスピードを上げ、目の前に広がる大海原の中に消えていった。
◇ ◇ ◇
大事な食糧の載った荷台を押して波止場から自宅へと戻っていく。
人との会話から一転、恐ろしいまでの静けさに、自分が先一ヶ月一人でいる可能性があることを強く再認識した。
「解放感……違う。寂しさってわけでもないしな……」
普段会話する程度の大きさで話しても必ず独り言になって消えていく。そのことに僕は違和感のようなものを覚えていた。
スマートフォンを取り出して海の写真を撮り、適当な文面を添えて呟いてみる。少し経つと数人から何かしらの反応があった。
「今の時代、真に孤独なんてあり得るのかね……」
再度独り言を呟く。そしてその後は無言で家までの道を進んでいく。
荷台の車輪が地面を転がる音がやけに大きく自分の耳を打った。
それが酷く耳障りで僕は僅かに眉を顰め、遠くから聞こえてくる音に耳を傾ける。
木々が風に揺らめく音の奥から、海が静かに流れる音が湧き上がってくる。
人々の喧騒は皆無。僕はそんなこの島を他意なしに気に入っていた。
ようやく家に到着し、食料品などをしかるべき場所にしまい込む。そして西側の縁側に腰を下ろし、遠くに見える水平線を何も考えずに眺め始める。
水平線は自分の位置からおよそ五キロ先にあるらしい。余談ではあるがこの島の周囲五キロには島や飛び出した岩でさえ見受けられない。そのためどの視点でも綺麗な弧を描く水平線を眺めることができた。
空と海、蒼と藍の境界線をじっと見つめていると、不思議と木々の音が小さくなり波の音が大きくなっていく。
そして引き込まれそうな、そのまま青と同化してしまいそうな、そんな感覚に意識が陥っていく。
と、視界の端で異物がうごめいたことを確認し、僕はそちらに視線を向けた。
未だ豆粒と何ら変わらない影だったが、少し経つと細部が確認できるようになる。
どうやら一隻の船のようだった。
恐らく三船さんが島での用事を忘れたため、戻ってきたのだろう。
ゆっくりと腰を上げると再度波止場まで足を進める。今回は手ぶらで、だ。
先ほどから続く大自然の戦慄に、波を割って移動する船のノイズが走る。
波止場に到着すると、未だに船は遠くに位置したままであった。
彼の船であれば視界にとらえてから数十分で波止場に到着するはずである。故にこの状況は不可解であった。
あるいはごく稀に見る漁船の類であろうか。しかし、それにしては船影はいささか小さかった。
波止場に腰を下ろし、その船を観察していると少しずつ島に近づいてくることが認識できる。
そこで僕は一つの違和感を覚えた。
あの船が僕のいる波止場に向かってきていないのだ。
船頭は僕の向きよりも右に傾いている。
――そこで、この島には波止場がもう一つあることを思い出した。
もちろん、一般に開放されているのはここ以外にはない。
ただしこの島でたった一家だけ、プライベートで船着き場を持っている家庭があった。
丁度僕の右手奥にそびえている、彼女の泊まっていた屋敷、その所有者だ。
「……まじかよ。」
心の中で期待してはいたものの、実のところ実現するとは思ってもみなかった。それでも彼女の屋敷に船が向かっている、この事実が冷静さを取り戻そうとする僕の気持ちを駆り立てた。
島の傍まで船がやってきて、やがて視界の端からフェードアウトする。波を割る音は鳴りを潜め、再度雄大な自然の音楽が耳を打った。
太陽は既に南中高度を過ぎ、空を茜色に染めんと傾きかけている。
一度家に戻るか、それとも屋敷を訪問するか、あるいはこの場で陽が沈むまで待っているか――――
その選択肢のどれもが、合っているようで間違っているように思えた。
そもそも彼女はあの船に乗ってやってきているのだろうか。そして彼女は自分のことを覚えているのだろうか。再開の可能性が高まった途端に気にしていなかった心配事が湧いてくる。
だが何をせずとも時間は刻一刻と過ぎてゆく。心なしか青空に浮かぶ太陽が水平線にぐっと近づいたように感じた。
そうして特に何も行動を起こさずに半時ほどたっただろうか。流石に真夏に直射日光を浴び続けていると辛くなってきたため、一旦家に戻ろうと腰を上げる。
するとそのとき、エンジン音が遠くからうっすらと響いてきた。
視界の端から先ほどの船が姿を現すと速度を上げつつ島から離れていく。
その様子を困惑して眺めていると、突如背後から声がかけられた。
この島では、聞くことがまずないであろう人間の声が。
「こんにちは。」
鼓膜が震え、脳に信号を伝える。それに共感したのは幼少の頃の甘酸っぱい記憶だった。
僅かに落ち着きを孕んだ声。しかし奥底の響きはあの頃と何ら変わらない。
「こんにちは。」
挨拶を返しながら振り向く。
そこでお互いに顔を合わせた。
彼女は僅かに驚きながらもどこか嬉しそうな顔をしていた。上がった口角や、えくぼが僕にそのように思わせたのかもしれない。
「あ……蓮君……?」
幼少の頃とは異なり、長く伸ばした栗色の髪をいじりながら名前を問われる。
真っ白なワンピースを着こなす彼女は幼少の記憶と嫌でも重なった。
やはり彼女で間違いはなかった。
「うん。えっと……久しぶり?」
自分の記憶をたどりながら曖昧な返事をする。
そんな返答にも彼女は喜びをあらわにした。
「やっぱり! 私の名前、憶えてる?」
名前どころか、あの時の表情、声音さえ忘れたことはなかった。
「……覚えてるよ。熊谷ゆり、でしょ?」
「……うん。」
彼女は満足げに頷く。
始終、彼女は嬉しそうだった。
彼女――熊谷ゆり――僕が待ちわびた人は、目の前にいるはずだった。
均整のとれた目、鼻、口。珠のように綺麗な肌。彼女の顔は畏怖すら感じるほどに美しかった。
ただ、そこにはあどけなさや無邪気さを感じることはできず、子供の頃の面影を全く、全く、垣間見ることができなかった。
「本当に、本当に熊谷ゆり……ゆりなのか?」
再確認をする。
「……? うん。そうだよ。私は熊谷ゆり。」
と、僕の表情を読み取ったのか、彼女は何かを察したように口を開いた。
「ああ、もしかして昔の面影がないって思ってる? だったらとっても嬉しいなぁ。」
美しい顔を微笑みで彩りながら彼女は続ける。
「私ね、変わったんだ。変われたんだよ。あの頃の醜くて醜くて、醜くて醜くて仕方ない私から。きっと変われたんだよ。」
「変わった?」
「うん。足して除いて、切って貼り付けて。私は絶対に変わったんだ。ねえ、蓮君。私、綺麗でしょ?」
僕は思わず頷いてしまう。その動作はぎこちないものだったはずにも関わらず、彼女の目にはしっかりとした受け答えのように映っていたらしい。
「本当!? やっぱり、やっぱり蓮君は昔から私の味方だね! ありがとう!」
確かに言動や仕草はあの頃の彼女と変わらない。実に懐かしいものだった。
しかし彼女の顔だけが、見たことのないものにすり替わっていて。嫌悪感が僕の頭を埋め尽くす。
「それじゃ、六年ぶりにお話でもしない?」
そう言って彼女は笑って手を差し出してくる。
その少し子供っぽいような行動が昔の光景と重なる。
しかし彼女の顔には切り貼りされた表情が糊付けされていて。
不躾なコラージュのように。
酷く醜く、浮いて見えた。