序章 その四
今回は少し長めです。
それでも5〜6分で読めると思います。
楽しんでいただけると幸いです。
炊飯器にお米を移して、後は帰ってからにしよう。
お財布オッケー、手提げカバンオッケー、鍵も持った。
それじゃ、香奈を呼びに行こう。
一階へ降りてインターホンを鳴らす。
「紅太? 今降りるから待っててね」
「うん、エントランスで待ってる」
香奈は、僕がこのマンションに引っ越してきた時には、もうこのマンションに住んでいた。
聞くところによると生まれた時には、既にここの住人だったらしい。
香奈は引っ越してきたばかりの僕にマンションのことや、この町のことを教えてくれた。
初めての環境で、不安だった僕の手を引いて、案内をしてくれた。その時の香奈の背中は、同い年のはずなのに大きく、大人びて見えた。
そんなこともあってか、僕の香奈への印象は従姉妹のお姉ちゃん。どれだけ可愛くても恋愛対象にはならない。
ちなみに、一回だけ「香奈ねぇ」と呼んでみたら、恥ずかしいからやめてと言われて今に至る。
「おっまたせ〜。今日は環だけ?」
「うん、だから帰ってくるのは五時半を回りそう。門限は大丈夫?」
「一応六時までは大丈夫。なんだけどちょっと早すぎるよね〜。こちとら青春真っ盛りの高校生だって言うのに…」
「一回交渉してみたらどう?」
「門限延ばしてって、言ってはみたんだけどね。ダメだった」
「…まあ、その代わりに事前に連絡してたら、十時までは大丈夫になったけど」
「それなら普通くらいなんじゃない?」
「そうかもしれないけど、せっかく高校生になったんだし、もっと夜遊びとかしてみたい!」
「まあまあ、香奈を心配して言ってるんだと思うよ?」
「そうなんだろうけどさ〜」
香奈が不貞腐れる。可愛いのにもったいない。
「ほらほら、買い物行くよ」
「っと、ごめんね。行こっか」
切り替えが早いのは流石だ。
スーパー環までは自転車で片道十分ほど。全体的に黄色い建物で、二十四時間営業。深夜に前を通ると目が痛いくらいにライトアップされている。
…まあ、深夜に環に行くことなんてないのだが。
何故、知ってるかって?旅行の帰りで前を通ったことがあるからだよ。
そして環にくると…
「おっ、いらっしゃい、紅太くん!」
「こんにちは、環のおじさん。今日も元気だね」
「おうよ、店長が元気ないと店員さんが笑顔になれないからな!」
このおじさんはスーパー環の店長の環浩明さん。
百八十以上ある身長、筋骨隆々な身体、小麦色の肌。
見た目に違わない力強さで、町内会の開いた「腕相撲大会」では無敗のチャンピオン。
未だかつて、彼を打ち破った者はいないらしい。
これで奥さんと娘二人がいるのだから隙がない。
ちなみに長女の沙希は、同じ中学の同級生で、今は別の高校に通っている。
「今日は香奈ちゃんも一緒か!仲良いね〜!」
「おじさん、僕と香奈はそんなんじゃないよ。何回も言ってるでしょ?」
「そうです! あたしと紅太はただの友達なんです!」
「わかってる、わかってる」
豪快に笑いながら僕の肩を叩く。
「痛い痛い! 力強すぎるよ!」
「すまんすまん。でも、逆に紅太くんはもっと鍛えた方がいいんじゃないか?」
大きなお世話だ。これでも自宅でできる範囲で筋トレはしている。全然変わらないのはきっと体質のせい。
「まあ、ゆっくりしてってくれや!」
「そうさせてもらうよ」
環のおじさんと会話するだけでダイエットになりそうだ。その証拠に既に少し疲れている。
「おじさんは相変わらずだったね」
香奈も少し疲れているみたいだ。
「そこがおじさんの良いところだと思うけどね」
切り替えていこう。
「さ、早く買い物済ませちゃおっか」
十七時まで後、二十分。卵以外を見に行っても十分に間に合う。
「香奈は何を買うの?」
「えっと、卵、ほうれん草、鶏モモ肉、玉ねぎ、お豆腐」
「親子丼かな?」
「多分ね」
作ったことがある料理なら、食材を聞くだけで何を作るか、わかるようになってきた。
これも今の生活の副産物だろう。
「ほうれん草は何に使うの?」
「おひたしじゃない?」
「なるほどね」
一種類だけ教えられてもわからないのが伸びしろか。
と、思ったけど流石に食材一種類で何を作るか、わかる人は少ないんじゃないか?
って、話していたら、買いたい食材も残すところ卵だけとなった。
「ちょっと早く来すぎちゃったかもね」
「間に合わないよりはいいんじゃない?」
「それもそうだね」
卵が買えない方が悲しい。
「持て余しちゃうけど、待っとこうか」
十分くらいなら、まだ待てる。色々見て回っていたら、すぐだろう。
「やっぱり環は生の食材が安いのがいいよね。ただ、冷凍食品は業務用…」
「ね、ね、紅太」
香奈が言葉を遮ってくる。
「ん? どうしたの?」
「さっきすっごく綺麗な人がいた!」
「え、どこどこ? どんな感じの人?」
「あっちの棚の間から、ちょっとだけ見えたんだけどね。金髪の外人さんで、横顔しか見えなかったけどすっごく綺麗だったの! 服装からして名家のお嬢様じゃないかな」
「お嬢様もスーパーに来るんだね。というか、この町に外国人が居たんだね」
「うん、それもビックリだよね! また会えないかな〜」
「香奈がそんなに言うならよっぽどの美人さんだろうね。僕も一度会ってみたいな」
可愛いもの、綺麗なものに目がない香奈だが、こんなに興奮するなんて珍しい。
香奈のお墨付きなら期待値大だ。
「今日のタイムセールは卵だよ〜! じゃんじゃん買っていってくれな〜!」
「タイムセール今からだって。行こ、香奈」
「五分早かったね。思ったより待たなくて良かった〜」
早足で卵コーナーに行く。そこには、カートを押す環のおじさんがいた。
「おじさん、僕と香奈で一パックずつちょうだい」
「お、紅太くん達はやっぱり卵狙いか。はい、卵だ」
「ありがと、おじさん。それじゃ、お会計済ませたら帰るね」
「おう、また来てくれよな」
会計を済ませて、持ってきた手提げカバンに買ったものを入れる。
「ねぇ、紅太。卵ってさ、袋詰めする時に下の方か、上の方、どっちの方に入れたら割れにくいのかな?」
「わかんない。けど、僕はカバンの下の方に入れてるかな」
「じゃあ、あたしもそっちにする」
実際、どっちが割れにくいんだろう。後で調べてみよう。
用も済んだし、早く帰ってご飯を作ろう。
五月だからこの時間はまだマシだが、それでもすぐに暗くなる。早く帰るに越したことはない。香奈もいるしね。
少し速めに自転車を漕ぐ。もちろん、香奈がついてこられるくらいのスピードで。
落ちる太陽を左手に受け、僕たちは帰路をゆく。
ふと、空を見上げる。
雲は一つも見当たらない。
多分、明日も晴れるだろう。
帰る家はもう目の前だ。
「買い物に付き合ってくれてありがとね」
「いいのいいの。私だっておつかい頼まれてたし。それに最近は物騒だからね」
エレベーターが四階に止まる。
「また明日ね」
「うん、また明日」
香奈と別れて部屋に急ぐ。
手を洗ったら食事の支度だ。
炊飯器のスイッチを入れる。
ワカメを水で戻し、豆腐をさいの目切りに。
……したところで思い出した。
今日の美術で絵の具が切らしたんだった。今日買っておこうと思っていたのにすっかり忘れてた。
どうしよう。百均は環よりももうちょっと遠い。明日必要ってわけじゃないけど、多分、次の美術までには忘れてるだろう。
ワカメは水につけておいても大丈夫、か?
豆腐はそのまま冷蔵庫に入れて、他の食品も冷蔵庫に入れればいい。
ご飯も保温が効く。
…行くか。忘れ物して減点されても面倒だ。
鍵とお財布は持った。香奈は誘わなくても大丈夫だろう。迷惑かけるのも嫌だし。
きっと大丈夫。
絵の具を一つ買うだけだ。
物騒だなんだと話していたすぐ後で、事故や事件に巻き込まれるなんて、創作の世界じゃないんだから。
また妖精が出ないのですか。
実は当初の予定では、この話から一章の予定でした。しかし、日常パートが長引いたため、まだ序章です。
次の話では妖精が出ます。