事件発生
思い返してみれば、あの時点で違和感に気付いてるべきだったんだよね。そうすれば琥珀様は……。
その日の夜、鶴喰は都外れの神鷹籠の中に収納された、大きく損傷した神鷹、『月夜鶫』を、雑に配置された文机の前に腰掛けながら、じっと見上げていた。
「――……。」
神鷹には大きく分けて五つの世代がある。月夜鶫はその内第一世代に分類される最旧式の神鷹であり、その全高は、貴族の屋敷の屋根よりもやや高い。特殊な鉱石から鍛造された装甲で覆われた金属製の神鷹は、神鷹籠を仄明るく照らす蝋燭の灯りを反射して、橙色に光り輝いている。
「面白くないな……。」
そう呟いて、鶴喰は日中の一件を思い出す。
どこからか、ひそひそと声が聞こえた。
「あれ、紫水殿の蓬生ちゃんじゃないか……。」
「かわいそうに、誰がこんなことを?」
紅彩殿の廊下に倒れ、息絶えていた紫水殿の下女の死体を取り囲む後宮の下女、女官、姫君たち。衛士の癖なのか、手早く検死を始める水柿を見下ろしながら、前へ前へと飛び出そうとする野次馬精神旺盛な下女たちを抑え込む鶴喰の耳に、その噂話は否が応でも入ってきてしまった。
「蓬生ちゃんと言えばさ、この前紅彩殿の宝物いくつか壊しちゃったらしいよねぇ……。」
「元々鈍くさい子だったし、そろそろ厳罰かなぁって思ってたんだけど……。」
「まさかこんなことになるなんてねぇ。」
「もしかして……琥珀中宮様が、大切な宝物を壊された腹いせに……?」
「ちょっと! 琥珀様がそんなことなさるわけが……!」
きなくさいぞぉ、と歯を食い縛る鶴喰。唐突にそこへ、紫水殿一番の姫君の声が響き渡った。
「蓬生――!」
それは、紫水殿に住まう皇帝妃のうち、最も美しいと称される姫君、睡蓮紫水殿女御であった。正しく清水に咲き誇る睡蓮の如き美貌を持つ淑女は、血相を変えて廊下をこちらへと駆け寄ってくる。
「蓬生! 蓬生! しっかりして、蓬生!」
目尻に涙を溜めた瞳で、そう言って背後から下女の肩を揺する睡蓮。そんな必死な様子の睡蓮に、水柿が冷静に死体に無闇に触れないようにと忠告する。
「あまり御手に触れますと、遺骸の状態が崩れてしまいます。致しますと、彼の者が如何なる手段、理由を以て黄泉の国へと去っていったかが霧と消えてしまいます。心中お察し致しますが、どうか、今しばらくお待ちいただきたい。」
(こういう時に頼りになるよなぁ、水柿って。)
周囲の野次馬たちのざわめきに気を張る黎明院の背後で、他人事のように感心する鶴喰。その視線の先で、下級衛士に忠言を呈された睡蓮が、逆上して声を張り上げていた。
「なッ……! 何を偉そうに! その腕章、下級衛士の癖に、この私に命令するつもり!?」
「いえ、決してそのようなつもりは――!」
「こっちはね、昔からずっと可愛がってきた下女を殺されたのよ!? どうして、どうやって冷静になれって言うのよ!」
涙目で水柿の衿に掴みかかる睡蓮。
「睡蓮女御! 見苦しいわよ!」
しかし、黎明院の一声で我に返り、震える肩を女官にさすられながら、人混みの中に戻っていった。
「はいはーい、薬司、明衣の到着やでー。」
しばらくして、そんなのんびりと訛った声が響き渡り、人垣を押しのけ、おかっぱ頭のひとりの少女が現れた。手には木箱を提げ、真っ白な手ぬぐいを額に巻いている。明衣と名乗ったその少女は、遺体の頭の前にどっかりと腰を下ろすと、目の前に立つ水柿に気付いた。
「あれ? 水柿やん。ちゅうことは……。」
そう言ってきょろきょろと辺りを見回し、遂に黎明院の背後に隠れる鶴喰を発見する明衣。
「やぁっぱり! またこないなとこにおるのか、鶴喰!」
呆れたような明衣の声に、鶴喰は苦笑いを浮かべながら、黎明院の影にこそこそと引っ込んだ。
「まぁええわ、とりあえずご愁傷様。被害者はこの人一人だけやな?」
尋ねられた水柿が、明衣から革手袋と手ぬぐいを借り、革手袋を両手にはめ、手ぬぐいで口を覆い、明衣の隣にしゃがみ込む。
「うん。見たところは一人だけ。死因は……。」
「まぁ、どっからどう見てもこの切り傷やろうねぇ。」
そう言って、同じように手袋と手ぬぐいをした明衣が、死体のへその上から胸にかけてざっくりと開かれた切り傷をなぞる。
「……不自然やなぁ。」
「だよねー。」
「こないにきれいにまっすぐな斬撃、生身の人間にできるんやろうか。」
「無理でしょ。上級衛士でもこんなに大きな切り傷なら、途中で絶対曲がるか、歪むもの。」
「そうなると、犯人は余程の剣の達人か、もしゅうは……。」
そこまで二人の会話を黙って聞いていた黎明院が、ぽつりと呟く。
「……神鷹。」
「やろなぁ。……って! 黎明院様!? こらとんだご無礼を!」
「何で私に気付いて黎明院様に気付かないんだい……。」
「いやぁ、またけったいなのがおるわ思て呆れてもうて。」
鶴喰の愚痴にたははと笑い、ひとつ黎明院に会釈をすると、また死体と向き合う明衣。明衣が覗き込む裂傷の断面に触れる水柿が、気付いたことをぽつりと口にした。
「……熱い。」
「熱い?」
明衣が水柿の触れていた場所に指を添えると、水柿と同じ感想を漏らした。
「ほんまや、ほんの少しやけど熱い。」
自身の感覚が狂っていなかったことにやや安堵した様子の水柿は、そこで鶴喰の方を見やり、彼女にしか答えられないであろう問いを、緊迫した面持ちで投げかける。
「鶴喰、熱を帯びた斬撃が出せる人型の神鷹って宮中にはどれぐらい配備されてる?」
唐突な質問に面食らいながらも、鶴喰はその答えをすらすらとそらんじてみせる。
「え!? っとぉ……。紅彩殿近衛の『暁月夜』だろ、蒼華殿近衛の『蒼朝明』だろ、紫水殿近衛の『天紫陽花』だろ……。それと、黄湖殿近衛の『嶋百狸』。あ! 兵部省直轄近衛の『天ツ風』もだ!」
「聞いた? 明衣。」
「聞いたで。」
「……この中で、兵部省直轄近衛は除外されるね。たとえ真夜中であっても、兵部省直轄近衛は改造人間だ。人工神指を感知して通行を遮断する後宮には侵入できない。増してや神鷹を持っていれば、なおさらだよ。」
つまり、犯人は後宮の近衛か、後宮に大変近しい地位を持った人物――。口頭確認をせずとも、明衣と水柿の結論は一致していた。
はぁ、と溜息をつきながら飛び散った臓物を布袋に詰め、床に染みついた血の海を力任せに雑巾で拭っていた明衣が遺骸を持ち上げると、その手に握られていた大粒の琥珀石が指の隙間からころりと零れ落ちた。
「んあ? なんやこれ。」
明衣が疑問を口に出し、その琥珀石の正体を水柿に尋ねるも、水柿は首を横に振った。首を捻る両者の疑念の答えを示したのは、真っ青な顔で声を震わせる黎明院だった。
「――それは、琥珀ちゃんの十歳の誕生日に贈られた、特別な琥珀石よ。よく見てごらんなさい。中に小さな花弁が閉じ込められているでしょう。」
明衣が目を細めて琥珀石の内部を覗き込んでみればそこには確かに、白く小ぶりな花弁が閉じ込められていた。
「大陸の都外れで見つかったとされる琥珀石でね。遠く遠く遥か古代の花が内に秘められたとっても貴重な琥珀石なの。」
「では、この下女がそれを盗み出した、という事でしょうか?」
「断定はできないわ。でもここ最近、琥珀ちゃん外遊に行っていたでしょう? もしかしたらその間に……なんてこともあり得るかも……。」
黎明院のその言葉に、野次馬たちが一斉にざわつき始める。その喧騒の中、今まで我慢していたらしい睡蓮が、限界とばかりに声を張り上げた。
「ってことは蓬生を殺したのは、あのガキの息のかかった人間なのね!? 許せない……あの小娘! ちょっと帝に可愛がられているからって……っ!!」
「睡蓮女御!!」
怒気をはらんだ黎明院の叱責も聞こえていないのか、顔を真っ赤にした睡蓮は、足早にその場から離れていき、慌てた様子の部下たちがその後に続いていった。
(あの勘違いは一番やばい類のそれだ。下手をしたらこのやり取りでこの野次馬共は完全に犯人が琥珀様だと思ったかもしれない。そうなれば、琥珀様の居場所は……!)
事の顛末を整理しながら観察していた鶴喰はそんな危惧を心に抱え、「どないしよか?」と困惑する明衣から琥珀石を預かり、水柿と黎明院と共にその場を後にし、黄昏時の蒼華殿へと戻っていった。
手のひらの中で輝く琥珀石を俯瞰しながら、再度鶴喰は呟く。
「……面白くない。」
別に、鶴喰自身は琥珀の部下というわけではない。本来ならば、職務に忠実に生きていれば、琥珀とは何の関りも持っていなかったはずなのだ。しかし、こうして地位こそ違えど友人関係にある人物が濡れ衣を着せられているとあっては、じっとしてはいられない。
しかし、だからといって内裏最底辺の主鷹司たる鶴喰に何かができるかと言われれば、何もできないのもまた事実。
「……今日はもう遅いし、紅彩殿の警備も厳重になってるはず。勢いで預かっちゃったけど、これを返すのは明日かな。」
そう言って古ぼけた椅子をきしませながら壁に背をもたれかけ、うとうとと微睡み始める。
(……琥珀様、今どうしてるんだろう……。)
そんなことを心配しながら、やがて意識が薄れてくる。
しかし、夢へと誘われようとしていた鶴喰の精神を覚醒させる物音が突如として神鷹籠の中に鳴り響いた。その音の正体を確認しようと吃驚しながらも椅子から飛び起き、その方向を振り向く。そこには、体中にかすり傷を作った水柿が息を切らして立っていた。
「水柿!?」
「鶴喰、外に出て! この中にいると危険だよ!」
何のことかさっぱりわからなかったが、緊迫した様子の水柿の迫力に気圧され、言われるがままに神鷹籠の外に出る。
「何、何があったんだい!?」
「わかんない! 事態がまだ完全に飲み込めてないの! ごめん!」
そう言って水柿が指で指し示した先を鶴喰が見ると、濃紺の夜空を翔け、こちらへと高速で接近してくる戦闘用の無人神鷹が五機ほど確認できた。その腕部に装備された刺突用の刀身が、神鷹籠入り口に設けられた灯篭の光を反射し、ギラリと凶悪に煌めく。
「――っ!」
その刃が、鶴喰の喉元へと肉薄していく――。