イタリア紀行~「ローマ帝国」を訪ねて~
私はローマ帝国を継承した国家の一つであるイタリア共和国をかつて旅行しました。世界帝国たるローマは一定の地域に収まるものではなく、後継国家は各地に存在します。ですから、イタリアだけがローマ帝国の末裔であるとは考えていません。
それでも、イタリア半島が最もローマと馴染みの深いのは確かです。馴染みの深浅に貴賤は関係しませんが、関係の深さは出会いの多さに繋がります。それゆえ、人が生きられる時間が限られていることもあり、イタリアを訪ねることにしました。
イタリア共和国への旅行にはカステル・ガンドルフォ市にも行くツアーがありました。カステル・ガンドルフォはかつてアルバ・ロンガ王国の都があったところで、ヴァチカン市国と秘密の通路で繋がってもいます。また、その旅程にはローマ帝国の遺跡を利用したレストランでの食事もあって魅力的でした。
しかし、様々な事情からそれに参加できませんでした。その代わりウェルギリウス『アエネイス』を携え、イタリア半島を南北に縦断しました。ただ、シチリア島などには行っておらず、イタリアの宣伝でシチリアが強く推されていただけに残念でした。
一日目
イタリア共和国にはオランダ王国のアムステルダム市のスキポール空港を経由し、ミラノ市のマルペンサ空港から入国しましたが、飛行機で映画を視聴して酔いました。アムステルダムとミラノはどちらも日本国より寒く、やはり湿気はありませんでした。入国審査も日本より厳しかったです。
二日目
イタリア人は朝食に甘いクロワッサンを食べ、苦いエスプレッソを飲むらしく、イタリア共和国にいる間、私もそれに倣いました。イタリア料理は意外と薄味で、味が濃いのはハムやサラミくらいしかなく、野菜は家庭料理の食材であるため、外食では余り口にしませんでした。最も美味しかったイタリア料理はクリームの入ったクロワッサンで、種類も豊富にありました。
イタリアの町は新市街の方は日本国と似たような風景でした。市内に電線は全く見当たりませんでしたが、郊外の畑などにはありました。旧市街はヨーロッパと聞いてイメージするように石畳で、貴族の邸宅をアパートに利用するなど歴史的な建物が現在も数多く使われていました。
ただし、歩き煙草が多く見られ、吸い殻のポイ捨てなど路上にはゴミが散乱し、アフリカ大陸の砂が風で運ばれてくるらしく、汚れた車が少なくありませんでした。車道に線を引いて駐車場を設けられているので、イタリア共和国の道路は一車線ないし二車線が路上駐車で埋め尽くされているように見えました。それから、公共の時計は当てにならないと教えられ、掏摸や引ったくりについてもガイドさんに注意されました。
イタリアはガイドが都市ごとに免許が定められています。それゆえ、ガイドさんは都市によって別でした。ミラノ市のガイドさんはミラノのファッションについても教えてもらいました。
ミラノ市と言えばシックな紳士服で、壮年と老年の男性が格好良く、彼らからすれば青年はアメリカ文化に毒されすぎて世も末であるとのことです。ミラノの女性は肉体美で勝負するそうです。また、ミラノ市民は南部の人間よりも寡黙かつ勤勉と言われ、イタリア共和国において経済のミラノ市は政治のローマ市および工業のトリノ市と並ぶ三大都市の一つとされます。
そもそも、ミラノはローマ人の領土となる以前から栄え、イタリアが統一される前はフランス人やスペイン人、オーストリア人などによって征服されました。それを象徴するようにスフォルツェスコ城は征服者が代わる度に形を変えられました。神聖ローマ帝国が建てた歌劇場であるスカラ座は、造られた当時の様式を今に伝えています。
そのように分裂して外来の勢力に支配されていたからか、イタリア半島の統一に貢献したサルデーニャ王のヴィットリオ・エマヌエーレ二世は、君主でありながらもイタリア共和国の至るところで顕彰されていました。スカラ座の近くにあるヴィットリオ・エマヌエーレ二世ガレリアもその一つです。ヴィットリオ・エマヌエーレ二世ガレリアはカフェやブランド店が軒を連ねるアーケード街で、ミラノ市でも活躍したレオナルド・ダ・ヴィンチについての博物館もあり、日本の商店街と比べ物にならないほど瀟洒でした。
半島を統一して海外に雄飛する姿勢が反映されてか、アーケードの十字路には上に各大陸の象徴が描かれ、下にはイタリア王国が都を置いた各都市の紋章があしらわれていました。牡牛の紋章は股間の赤い部分を踵で踏み、三回転すれば願い事が叶うそうです。もっとも、何を願ったかばれてはならないという条件付きとのことでした。
私はヴィットリオ・エマヌエーレ二世ガレリアを通り、スカラ座からミラノのドゥオモに行きました。ドゥオモとは司教がいる大都市の大聖堂で、ゴシック様式で建てられていました。ゴシックはフランス人の野蛮な様式であるという反対もあったそうです。
フランス人を嫌うイタリア人の声はよく聞きました。それでも、巨大な彫像やステンドグラスにごてごて飾られた大聖堂には圧倒されました。それらの美術が有する迫力や物語性は、凄まじいほどに量が多く、古典古代の神話や文芸復興の科学を取り入れてもおり、他の寺院でもそれは変わりませんでした。
ミラノ市ではミラノ風のリゾットとカツレツ、パンナコッタを昼ご飯に食べました。それらがミラノを代表する料理とのことで、カツレツはシュニッツェルを思わせました。それから、古代ローマの市門やムッソリーニ政権期の出版社を眺めながらヴェローナ市に向かい、道すがら灌木や昔ながらの家が並ぶ田舎を通りました。
ヴェローナもローマ人のものとなった時には既に反映しており、名産の葡萄酒を飲んだ古代ローマの将軍カエサルは、その味に唸って町の再開発を命じました。ミラノ市やフィレンツェ市と並んで観光客が多く、古代史と中世史を学んだ学生たちが遠足に来ます。古代ローマの円形闘技場などが残っているだけではなく、シェイクスピア『ロミオとジュリエット』に関連する史跡もあります。
『ロミオとジュリエット』はヴェローナ市民が書き残した実際の事件をイングランド王国の劇作家シェイクスピアが戯曲化したとされます。ヴェローナ市にはヴェローナの貴公子ロミオと貴族令嬢ジュリエットの家とされる建物がそれぞれあります。確かにどちらもそれらしい建造物でしたが、観光客による落書きやガムで汚れていました。
それらの建築は個人が所有しているので、持ち主が綺麗にしなければならないとのことでした。ジュリエットの家にはその像があり、バルコニーからも彼女よろしく女性が顔を出しました。ジュリエットの像も右の胸に触りますと、幸せになれるとされています。
ミラノのスカラ座はヴェローナを支配したスカラ家に由来しますが、同家の墓所には十字軍の兵士のような格好の男性がいました。ヴェローナ市はヴェネツィア市にも支配されましたが、ヴェローナを観光した後、本土の側にあるヴェネツィアの地区であるメストレ地区に向かいました。メストレにおける晩ご飯は白身魚を用いての魚料理でした。
三日目
ヴェネツィア市を本土から本島へと移動するには水上タクシーないし水上バスですが、私はタクシーを使いました。ヴェネツィアの本島は海に打った杭の上に造られています。杭は石灰化しており、朽ちることがないそうですけれども地盤の一部は沈下しているらしいです。
本島に上陸してドゥカーレ宮殿へ向かいましたら、溜め息橋のところで恐らくモデルであろうドレスの女性が写真を撮られていました。ドゥカーレ宮殿は木造のところもありましたが、ヴェネツィア共和国が略奪した大理石やスペイン王国が「新大陸」から奪った黄金で飾られていました。兵器を陳列したところにはオスマン帝国の海軍から得た戦利品もありました。
ヴェネツィアは海軍と海洋交易の国家であるだけではなく、共和国でもありましたけれどもそれは密告制度に支えられ、ドゥカーレ宮殿では密告するに使用された仕掛けも見学できました。海軍国や共和政の国である点でヴェネツィア市民はローマ人の伝統を引き継ぎましたが、ローマ帝国の後継国家たるビザンツ帝国から四帝統治の像や騎馬像を奪い取ってもいました。私はそれらをサン・マルコ寺院に向かう中で見掛けました。
サン・マルコ寺院はビザンツの様式を採用しており、金やモザイク画があしらわれ、バルカン半島なども含めた中近東という意味でのオリエントをそこに感じました。サン・マルコ広場に出ていきますと、石畳から水が溢れ、一部が通行できなくなっていました。潮が満ちてくると、そのようになってしまうらしく、鴎や磯臭さと共にヴェネツィア市が海の町であることを印象付けられます。
ヴェネツィアでは硝子細工の工房も訪ねました。重労働であるがゆえに筋肉質な職人さんによる実演を見せていただいた後、硝子の製品を幾つか買いました。不安定なゴンドラでも飲めるよう起き上がり小法師のようになったグラス、液体を入れれば屈折率の関係で溝が消えるグラス、光の種類によって色が変わるグラスなどがありました。
名物のゴンドラによる遊覧もしました。船頭さんが歌うこともなくて静かなもので、家の壁や水面から浮き出た杭を蹴って方向を転換し、橋などのトンネルは船体を傾けて通過しました。昼食は磯臭いレストランにてお薦めの料理である烏賊墨のパスタを、夕食はフィレンツェ市へ移動してラザニアに加え、ティーボーンステーキのようなフィレンツェ風のステーキを頂きました。
四日目
フィレンツェ市ではまずミケランジェロ広場から町を一望しました。広場にはダヴィデ像があり、恐らくは外国人である方から写真を撮ってくれるように頼まれました。それに応じて感謝され、日本人かと訊かれて肯定しましたら、「謝々!」とお礼を下さいました。
それから、フィレンツェを統治したメディチ家の収蔵品が鑑賞できるウフィツィ美術館を訪れました。そこでは中世の美術がどのように近世の文芸復興に繋がっていくかが見られました。肖像画のコーナーもあったのですが、そこは美術館に求められる防災の水準を満たしていないため、行くことが出来ませんでした。
イタリア共和国はウフィツィ美術館もそうなのですけれど観光地には軍隊の車が停まっており、兵隊さんたちが銃を構えていました。彼らを撮影した人は注意されました。テロを警戒しているようで、荷物や身体の検査は各所で受けました。
兵隊さんたちは迷彩服でしたけれども州警察の黒い制服はお洒落でした。彼らは市庁舎などで見掛けました。イタリアではカトリックの教会で結婚式を挙げても公的な効力はなく、証明書を発行する市役所が歴史的な建築を挙式の会場に提供するので、そちらを選ぶ夫婦も少なくありません。
イタリアはカトリックの優勢な国ですが、幼児洗礼すらも祖母が孫のために頼むくらいでしか行われず、それも成人する際に入信するか改めて問われます。それでも、カトリックの寺院は数多く、シニョリア広場に立ち並ぶ様々な彫像を見学した後、花の聖母寺に行きました。ごてごてしたところは少なかったですが、配色が春のように爽やかな華やかさを感じさせました。
イタリア人の芸術家ミケランジェロが「天国の門」と評したサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉やジュエリーの店が建ち並ぶヴェッキオ橋を見物し、中華料理で昼食を取ってピサ市に移動しました。イタリア料理と比べましたら中華は和食に近いのだなあと思いました。そして、フィレンツェ市に戻って夕食にマカロニを頂きました。
フィレンツェでは名産の革製品を売る店にも入りました。林檎の形をした小銭入れが名物であるとのことでした。それには縫い目がありませんでした。
ピサでは斜塔やドゥオモ、洗礼堂を見てまわりました。カトリックの寺院は声が響くよう天井がドームになっており、カトリシズムの建物も声明を意識しているのかなと感じました。斜塔は中を登りましたが、階段は磨り減って足下が悪く、登り切ったところは傾いでいることもあって怖かったです。
ピサ市にはアフリカ系の露天商が多くいました。移民への対応は都市によってまちまちです。なお、インド系の移民は露店に特権を持っているそうです。
ヴェネツィア市では違法が横行して彼らの露店が禁じられました。ただし、そのせいでヴェネツィアでは物乞いが増えました。ヴェネツィア市は港町でありますけれどもピサ市とてそうで、ヴェネツィアより早く栄え、イスラム教徒と戦いつつもイスラム美術を取り入れました。
五日目
フィレンツェ市からナポリ市へと向かうために新幹線を利用しました。かつてイタリア共和国の駅は切符を買わずともホームを素通りできました。昨今はテロのために改札でチェックを受けなければなりませんでした。イタリアの鉄道は線路とホームの段差が低く、国鉄と私鉄があり、どちらも新幹線が所有され、民間の新幹線は様々な業種のブランドが開発に参画しました。
イタリア共和国の電車は直前までどのホームに来るのか分からず、遅延しても連絡されなくてベルもなしに扉が閉まります。また、来た道と逆向きに進むこともあります。そうして私はナポリに着きました。
ナポリ市はゴミに加え、犬の糞もあってうんこ臭かったです。ゴミの回収車は箱ごと取り替える形で回収していました。ナポリなど南イタリアは統一後の開発に取り残され、路駐も当たり前であって混沌としていますが、人情は厚いと言われます。
昼食はボンゴレのパスタを食べ、レモンのリキュールたるレモンチェロを飲みました。レモンはナポリ市やソレント半島、カプリ島などで取れてそのジュースはシロップでなしに砂糖を入れます。アルコール度数が高いレモンチェロは凍らず、ナポリではきんきんに冷やしたものを食後にきゅっとやります。
私もレモンチェロを飲んでみましたが、レモンキャンディーのような強い甘さを感じた後、喉がかあっと熱くなりました。他にもナポリ市にはブラッディオレンジがあります。これは赤い果汁のオレンジで、私はそのジュースで喉を冷やしました。
梶木鮪のステーキも出てきましたが、オリーブ油でしか味付けしていないような代物でした。イタリア料理は南がオリーブ油、北がクリームで味付けしており、北部の方がこってりしているそうです。食事中は楽師の人がギターを弾き、お捻りを貰っていました。
食後はポンペイ市の遺跡を訪れました。噴火で滅んだポンペイは、溶岩でなくて火山灰が降り積もったおかげでそれがギプスのようになって残りました。外から見たポンペイ市は要塞のようでした。
ギプスである火山灰が無くなったので、町を守るものがなく、彫刻や壁画は殆どポンペイから持ち出されました。それゆえ、なおさら要塞のように無骨な印象を受けました。ただし、娼館の春画や円形闘技場の落書きはそのまま残っており、それらには露骨な生活感がありました。
生々しさを有する廃墟としてのポンペイ市はイタリアの監督フェリーニが『サテュリコン』で描いた古代ローマを思い起こさせました。ポンペイには噴火に巻き込まれた妊婦の石膏像も展示されていました。その生々しさと無機質さの同居こそがポンペイ市を象徴するのではないかと感じました。
ナポリ市に戻ってからはカメオの工房を見学しました。今のカメオは貝殻など特定のものを使用した浮き彫りを意味するそうです。しかし、古代ローマでは浮き彫りならば何でも良かったとのことです。
夕食は窯焼きのピッツァでしたが、アメリカ合衆国のピザのように柔らかかったです。形は耳がアメリカのピザのように分厚く、それ以外のところはピッツァらしく薄べったかったです。エレベーターがなかった時代と同じ上と下の階は紐で籠を垂らし、遣り取りをしていました。
ミニトマトのサラダやデザートのティラミスも頂いた後、スーパーにも寄ってみましたが、そこには和食のコーナーもあり、日本国のビールや酒、醤油、味醂、山葵などが売られてありました。寿司の試食も行われていました。店内はやはりハムやチーズの種類は豊富でした。
六日目
カプリ島にも渡りたいと思っていたのですが、天候のために無理でした。古代ギリシアを崇拝する人々が実際にはギリシアを旅しなかった故事に倣ったということにしました。そこで、「ナポリを見てから死ね」と評されたナポリ市を見て回りました。
そう評されたのはポジリポの丘から眺めたナポリ湾です。確かにカプリやヴェスヴィオ火山も望めて見晴らしは良いものでした。曇天であって風は強く、海は荒れ狂っていましたが、地中海と聞いてイメージする景色と大きく違っていたのが面白かったです。
丘にはギリシア人やローマ人も別荘を構えており、ナポリには彼らにまつわる伝説が伝わっています。ナポリ市にはギリシア人の英雄オデュッセウスに騙されて自殺した人魚が流れ着いたとされ、ローマ人の貴族ルクルスが魔術師ウェルギリウスに頼み、町を守る金の卵を作ってもらいました。金の卵はナポリのどこかに隠され、町が滅んでいない以上、今も壊されないでどこかにあると信じられています。
そのような過去の品々が所蔵されるナポリ国立考古学博物館にも入場しました。ナポリ国立考古学博物館にはポンペイ市で発見されたものが展示されており、ポンペイが外枠とすれば、博物館はその中身です。美術品ばかりか日常の品々までもが数多く残っており、この豊かさは羨ましいばかりで、特別展では古代の日時計が特集されていました。
外から眺めましたら博物館は赤い色をしています。これはポンペイ市の色を真似たらしく、ナポリ王のフェルディナンド四世によるものだそうで、臣下も主君に倣ったとのことです。博物館の他には卵城やサン・フランチェスコ・ディ・パオラ大聖堂、王宮、サン・カルロ劇場、ウンベルト一世ガレリアなども見物してプレビシト広場ではヴァイオリンの演奏を聴きました。
ナポリ市を移動するにはトンネルも利用しました。それは開発のためにナポリの南北を統領ムッソリーニが繋げさせたものです。また、ナポリ市には戦争で沢山の爆弾が落とされ、それによる廃墟が現在も多く保存されています。
カプレーゼと魚介類のリゾット、ババで昼食を取ってからローマ市に向かいました。ババとはスポンジをラム酒に漬けたナポリのお菓子です。ローマに着いた後は、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂や共和国広場を抜けてディオクレティアヌス浴場跡を見学しました。
浴場跡の外観は巨大でありながらも無骨な廃墟でしたが、建物を再利用したサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会は、荘厳な内装をしていました。それはローマ帝国の敗北とキリスト教の勝利を象徴するかのようでした。晩ご飯にはローマ市の名物であるカルボナーラとアバッキオを食べましたが、羊肉のグリルたる後者は本当に肉を焼いただけのようであって素朴な味わいでした。
七日目
ローマ市ではサン・ピエトロ大聖堂を見学する予定でしたが、その前に私はコロッセオと「コンスタンティヌスの凱旋門」を見物しました。ヴェイユは「ローマは無神論的で、物質主義的で、自己しか崇めない巨獣である」と評しました。確かにコロッセオや「コンスタンティヌスの凱旋門」は物質として自己の存在を圧倒的に主張する巨獣のように思えました。
ヴァチカン市国にはパラティーノやアッピア街道、ジェズ教会、ヴェネツィア広場、ヴェネツィア宮殿、「トレビの泉」、スペイン広場、三位一体教会、旧最高裁判所、サンタンジェロ城などを眺めながら入国し、まずはヴァチカン美術館に入場しました。入り口は城壁に守られていましたが、それはエルサレム神殿を模しているとのことでした。美術館は彫刻や調度品、絵画、絨毯などが展示されており、異教の作品ばかりか前衛的な芸術もありました。
また、ヴァチカンの建物そのものも豪奢で、ローマ教皇がヨーロッパの君主たちから戦争の調停を頼まれてその謝礼で造られたらしく、その関係からイタリア半島の地図が描かれてもいました。教皇を選出する会議が開かれるシスティーナ礼拝堂にも行きました。そこの壁や天井などには『旧約聖書』や『新約聖書』の物語、預言者、シビュラの巫女などが描かれてありました。
そして、サン・ピエトロ大聖堂に移動していきました。ヴァチカン美術館から行く方が余り並ばないでサン・ピエトロ大聖堂に入れるそうです。流石に世界宗教の総本山に数えられるだけあり、サン・ピエトロ大聖堂は広大な空間が過剰に装飾され、その存在感や情報量に畏怖させられました。
なお、サン・ピエトロ大聖堂にはパンテオンやカラカラ浴場、コロッセオなどの資材が転用されているそうです。そのようなサン・ピエトロ大聖堂を後にし、またイタリア共和国に再入国しました。その際にスイス衛兵たちを見掛けましたが、彼らの制服はミケランジェロの絵画を元にデザインされたそうです。
昼ご飯にはバジルのソースを掛けたニョッキを食べて赤ビールを飲みました。それからは途中でジェラートを買い食いするなどしながら、ローマにある遺跡を見て回りました。「七つの丘」の上にあるローマ市は坂が多く、上り下りを何度も繰り返しました。
イタリアの道は黄信号が青信号よりも長く、カウントダウンのあるものも見られます。矢印信号と一体になった青信号もありました。歩行者は割りと信号無視をしていました。
そうした道路を通りながら、私はアウレリアヌス城壁やピンチャーナ門、ボルゲーゼ公園、アウグストゥス廟、ハドリアヌス神殿跡、「マルクス・アウレリウスの記念柱」、アルジェンティーナ神殿跡、「トラヤヌスの記念柱」、ウェスタ神殿などを見ていきました。「双子の教会」はローマ皇帝ネロの墓があったところに築かれたらしく、「平和の祭壇」はそれを覆う博物館が築かれ、パンテオンでは教会に転用されており、マルケルス劇場は住居の一部に組み込まれてありました。「トラヤヌスの市場」やフォロ・ロマーノなど古代の遺跡は多くが現代の地表よりも低いところにあり、遺構の発見で地下鉄の開通が遅れているという話も聞きました。
イタリア共和国における最後の晩餐はアマトリチャーナを頂きました。私が観光している間、イタリアは暴風雨に襲われ、木が倒れて車を大破させたり学校が休校になったりしていました。イタリア共人は悪天候に慣れていないらしく、日本人には大したことない雪でも公共の交通機関を止める場合があるそうです。
八日目
日本国にはフィウミチーノ空港とスキポール空港を利用して帰りました。ローマ市にあるフィウミチーノ空港は、レオナルド・ダ・ヴィンチ像が立っているため、レオナルド・ダ・ヴィンチ空港とも呼ばれています。その空港へ向かう途上でヴィットーリオ・エマヌエーレ二世記念堂を目にしました。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世記念堂は半島の統一を記念し、「無名戦士の墓」も兼ねています。常に二人の兵隊さんが守っており、ガイドさんはイタリア共和国の靖国神社と説明しました。なお、カトリックと対立したヴィットーリオ・エマヌエーレ二世は、異端者として教会の許可が下りなかったため、多神教の中心であったパンテオンに遺骸が埋葬され、神々の一柱であるかごとく民衆から信仰されました。
イタリアはイタリア統一運動の歴史を国体としているように思われます。そこにローマ帝国を接続させようとする試みは、ムッソリーニの破滅で潰えたのかも知れません。彼はポエニ戦争におけるローマの勝因をイタリア半島の一致団結に求めました。
イタリアに幾らかでも興味を抱いてもらえればと思い、古代イタリアを題材にしたフィクションを以下に挙げさせていただきました。
文月今日子『エトルリアの剣』