桃太郎と優しい鬼【前篇】
後頭部に、鈍い痛みが奔った。
桃太郎が背後を振り返ると、少し離れた位置から、村の子供達が様子を窺っている。
足元には子供達が投げたと思われる石が転がっていた。
「ッ……こんのガキ共……!!」
桃太郎の額に青筋が浮かぶ。
「桃から生まれた妖怪ー!」
「妖怪はこの村から出て行けよ!」
子供達は怯むことなく、桃太郎に石を投げつける。降り注ぐ石を左手で払いながら、桃太郎は拳を振り上げた。
「うるせえ!! 黙れ!!」
「うわー妖怪が怒ったー!」
ようやく子供達は石を投げる手を止め、蜘蛛の子を散らすように退散した。
桃太郎はそれを追うことはせず、代わりに深いため息を吐いた。
――『桃』から生まれた桃太郎は『妖怪』とさげすまれ、村人から恐れられていた。今日のようなことは日常茶飯事である。
黄昏の中、桃太郎は家へ続くあぜ道を歩いていた。道の左右には、黄金の稲穂が広がっている。もうそろそろ収穫の時期である。
そんなことを思いながら桃太郎は足を止めた。沈み往く太陽が、ひとつの大きな影をつくり出している。
影の正体は、小山と見間違うほどの巨体だった。
「鬼さん、今日もありがとう。助かったよ。きみには足りないかもしれないが……良かったら食べてくれ」
村人はそう言って、小さな包みを差し出した。
巨体が揺れる。
「そんな! 悪いです! 今年は不作だと言っていたじゃないですか」
「いいんだよ、こんな老いぼれの話相手になってくれるのはあんただけだ。持っていってくれ」
しばらくそんなやりとりを繰り返した後、鬼は包みを大切そうに大きな二本の指でつまんだ。
「それでは、また明日来ますね」
鬼はそう言うと、畑から、あぜ道へと上がる。
「ああ、桃太郎さん、お疲れ様です。もうすぐ桃太郎さんのところの畑も収穫の時期ですね。ぼくで良かったら手伝うので……」
「どけ」
「あ……す、すみません!」
鬼は慌てて道の端に寄った。
すれ違いながら、桃太郎は横目で鬼を観察する。
桃太郎の三倍ほどはある巨大な身体が、今は道の端で小さくなっていた。
人と似た姿をしているとはいえ、その頭に生えた二本の角は、やはり人間にはないものだ。この鬼が少し力を入れれば、桃太郎など、枯れ枝のように折られてしまうのだろう。さらに赤茶けた分厚い肌は、どんな攻撃も武器も通さないらしい。まさに歩く要塞である。
この村にやって来た頃は腰布を巻いただけの格好だったはずだが、今は質素ながら、きちんとした着物姿だ。村人達が鬼に合う着物をこしらえたのだろう。今ではすっかり村の景色に溶け込んでいる。
「……ふん」
桃太郎がその場を立ち去ろうとしたときだった。
「桃太郎!! 馬鹿息子が!!」
「げ……」
遠くにはひとりの老人。
「鬼さんに対して、なんだその態度は!!」
桃太郎の父は、老体を感じさせない勢いで走ってくると、桃太郎の頭を思い切り殴りつけた。
「じじい……!! 何すんだ!!」
「失礼だろうが!! まったく……そんなだからお前は友達がいないのだ」
「う、うるせーよ!!」
桃太郎は気まずそうにおじいさんから視線を逸らした。
そんな二人を見ていた鬼が口を開く。
「おじいさん、友達ならいますよ」
「なんだと?」
怪訝な顔をするおじいさんに、鬼は自信満々に言い放った。
「ぼくはもっと桃太郎さんと仲良くしたいです」
……まさか、こんなにも恥ずかしいことを口にする奴がいるとは……。
桃太郎は言葉を失って、鬼を見つめた。
おじいさんは目に涙を浮かべて、鬼の手を握る。
「ありがとう……! あんたは素晴らしい人……いや、鬼だよ……。桃太郎と仲良くしてやってくれ……!」
「そんな……それはぼくの台詞ですよ」
鬼はそう言って柔らかい微笑みを浮かべた。
「待てええええええええええ!!」
すっかり存在を忘れ去られた桃太郎が、二人の間に割って入った。
「茶番はそこまでだ……!! じーさん! 騙されるな!」
「は、はあ?」
「これがこいつのやり方なんだよ! 油断させといて、俺達を食べるつもりなんだ……!」
「えっ? ぼく、肉は食べないので――」
「あのな、桃太郎。ちょっと落ち着け」
「なあ……!? すでに洗脳されているだと……!? くそッ……! すでに遅かったか……! だが、俺はひとりでもやるからな……」
三人の間を、冷たい風が通り抜ける。
桃太郎は鋭い眼光で、鬼を睨んだ。
そして、ひとり心の中で決意する。
桃太郎の孤独な『鬼退治』は始まった。
夜の闇が、まだ色を濃く残している時間。
このときばかりは、普段迷惑しているおじいさんのいびきに感謝した。
物音をたてないよう、桃太郎は布団を抜け出す。
「桃太郎」
突然背後から聞こえた声に、桃太郎は跳び上がった。
「ばーさん! びっくりさせんじゃねーよ……!」
こっそり桃太郎の後を追いかけてきたらしい。おばあさんは声を潜めて、笑った。
「桃太郎は相変わらず怖がりだねぇ」
桃太郎は気まずそうに視線を泳がせる。小さな頃はお化けを怖がり、一緒の布団で眠ったものだ。
「夕飯のとき、何か思い詰めた表情だったからね。どこかに行くのかい?」
おばあさんはとがめるわけでもなく、優しい声音で桃太郎に問うた。
「……ああ」
桃太郎の横顔に固い決意を感じ取ったのか、おばあさんは何も言わなかった。こういうときの桃太郎には、何を言っても無駄なのだ。
桃太郎が戸に手を掛ける。
「――桃太郎、これを持っておいき」
「……きびだんご……?」
おばあさんが桃太郎に握らせた包み。
中身は、きびだんごだった。
「好きでしょう? お友達と一緒に食べなさい」
「……」
桃太郎には、友達はおろか、知り合いと呼べる人間すらいない。おばあさんもそれは知っているはずだ。
「あなたは優しい子だからね」
「な……」
どいつもこいつも、恥ずかしいことを平然と言う。
今が、昼間でなくて良かった。
赤くなった頬に気付かれていないことを願いつつ、桃太郎は戸口に立った。
その腰にはきびだんご。
おばあさんは何も言わずに、その背中を見送った。
鬼の住処は古来から『鬼ヶ島』と決まっている。
しかしあの鬼は鬼ヶ島には住んでいない。鬼ヶ島は、村に通うには遠すぎるのだ。そのため、鬼は村と鬼ヶ島の中間地点に家をつくり、そこで生活していた。
悲しいことに、村人達は、桃太郎より鬼の味方である。
村の中に味方がいない以上、鬼がまだ家にいる昼前を狙う必要があった。
「……腹減ったな」
すでに周囲は明るくなっている。
お腹が鳴ったことで、朝ご飯を食べていないことに気が付き、桃太郎は木漏れ日に、腰を下ろした。
きびだんごをひとつ取り出したところで――
「……誰か……誰かぁ……助けてください……ワン……」
か細い声が、どこからか聞こえた。
桃太郎の視界の端には、白い物体。
「……犬……?」
一匹の犬が倒れていた。
「おい……? どうした?」
桃太郎が声を掛けると、犬は尾を振って応えた。
「お腹がすいて……死にそうなんですワン。どうか、助けてください……ワン……」
尾がぱたりと地面に落ちる。
もう動く元気もないのか、犬は倒れたまま、その丸い瞳で桃太郎を見つめた。
桃太郎は小さく舌打ちをすると、腰の包みに手を掛ける。
「……感謝しろよ」
犬の鼻先にきびだんごを近付けた。
ぱくり、と桃太郎の手ごと、犬がきびだんごにかじりつく。
「いだああああああああ!! 俺の手まで喰うな!!」
「もぐもぐ」
犬は時間を掛け、ゆっくりときびだんごを咀嚼していた。
そして、
「……おいしかったです、ワン……。ありがとう、あなたは命の恩人ですワン」
「……あ、そ……」
桃太郎はそっぽを向いて、一言そう呟いた。
その一瞬の隙が、桃太郎の運命を動かした。
「って、あれ?」
ふと、腰の重みがなくなったことに気が付いたのだ。
「ワン」
きびだんごを食べるのにも苦労するほどぼろぼろだった犬が、元気に立ち上がっていた。
「これはもらっていきますね、ワン」
口には、きびだんごの包みがくわえられている。
「え……」
桃太郎は何が起こったのかわからず、呆然と犬を見つめ返した。
「ワン!」
犬はその場から走り去った。
「……」
そういえば、村でこんな話を聞いたことがある。
この辺りには盗賊が出没する、と。
目をこらせば、走り去る犬の背中がまだ視界に捉えられる。
「あんの犬……!!」
桃太郎は、猛然と走り出した。
【後篇】に続く。