覚悟
TAXIと書かれた電飾のルーフサインだけが遠くの暗闇に浮かんでいた。
あたしは、夜が好き。何故って? 見たく無いものが見えないからよ。本当は恐くて仕方ないんだけど。だから、まだ地下鉄が動いている時間だけど、こうしてタクシーで行くの。
まだかなり手前を歩いているうちから、タクシーは後部座席のドアを開けて待っていた。この街のタクシーは、どんなに寒い雪の日でも後部ドアを開けて客待ちしている。
「今晩は。どちらまで…… 」
「南七条、西…… 四丁目へお願いします」
あたしはメインストリートでタクシーを降りることにした。
土曜の夜だから、あいつはきっとあの店に居るはず。 早く逢いたい。だけど、路地裏にあるあの店までの、ほんの少しの距離だけでも歩いて行きたかった。まだ覚悟が出来ていなかったからだ。
オレンジ色の街灯しか無かった郊外から、徐々にお店の灯りが連続する場所へと車が進んで行く。窓に流れる景色をぼんやりと眺めながら、あたしは頭の中である考えを反すうしていた。
「本当に逢っていいのだろうか。一度はサヨナラした人だ。やはり逢うべきでは無いのでは……」
あたしは、あたし自身の心に許可を求めていた。
夜の暗闇と同じくらい他人の心の中は何も見えない。だから、今は少し恐い。それなのに、あいつのことを想うと心がときめいてしまう。そんなあたし自身の心が一番恐い。
「雨が降って来ましたね……」
タクシー運転手の声でふと我に帰った。
フロントガラスに浮かぶ街のネオン。雨に滲んで、左右に消え去る。そしてまた幻想的に浮かんでくる。そんな風景の繰返しを眺めていたら、急にあいつに逢いたくなった。
それは遠い過去にあいつの車の中から見た風景と同じだったからかも知れない。あの時に流れていた音楽と、あいつの匂いの記憶がよみがえってきた。逢いたくて、逢いたくて、堪らなくなった。弱いね……、あたしも。
記憶とは、すでに過ぎ去ったもののことではない。むしろ "過ぎ去らなかったもの" のことだ。留まり続け現在の自分の土壌となっているものが記憶なのだ。少なくともあたしの身体の一部は、あいつの記憶で出来あがっている。そう考えると身体が熱くなった。
あの店のガラスの窓越しに、あいつが背中を丸めて座っているのがきっと見えるだろう。最初に何て言うだろう、あいつが振り向いた瞬間。
『あの日から遠ざかる程に、きみが大切な人に思えてきた』そう言ってくれるだろうか。
すべての思い出は燃え尽きてしまった。そんな男と女の間には、せめて友情と呼べるものだけでも残るだろうか。
「こちらでよろしいですか」
タクシーが目的地に到着した。