喪失
私には色恋に関しての学習能力が無い。
嫌というほどそれを自覚しているつもりではある。
だが、理性よりも感情や本能が勝ってしまった時、それはご同輩にも有りがちなことだとは思うが、私は途端に過去の苦い記憶が飛んでしまうのであった。
そして判断力を失い馬鹿なことを再び繰り返し、何度も後悔にさいなまれる日々を過ごすこととなる。
あの日もそうだ。
もう少しでまた、過ちを犯すところであった。
店のピンク電話が珍しく鳴った。
その受信時の呼び出し音は、普通の黒い固定電話となんら変わらない。
ママが電話を取った。
「キリちゃん、電話よ。女の人から」
女の人という言い方に少しトゲが感じられたのは気のせいか。
私あてに電話が掛かって来るなんて、いったい誰なんだろう。心当たりが無かった。
こんな素人に毛が生えただけの中年の雇われマスターに電話してくる奴などそうはいない。
たぶん、何か高額商品でも売り付けるキャッチセールスか何かだろう。
そんなふうに思いながら受話器を手にした。
「お電話代わりました。霧島ですが」
「……お久し振りです。 T です」
T ? 初めて聞く名前だ。
だが、その声はちょっと懐かしくてホッコリする響きを感じる。頭の中では遠い記憶の断片を探し始めていた。
「あっ、旧姓 U です」
U …… 。七年前に別れた女の姓である。
頭の中では、しばらく忘れていた名前だった。
しかし私の身体は彼女を明確に覚えている。
私の性癖までもを変えてしまった女だ。
忘れたいと思ったことは一度も無い。
ある日、女は私の前から風のように消え去って行く。その後には諦めに似た感情しか残らない、そんな自然消滅のような一つの愛の形があった。
もう少しだけ、優しく抱きしめてあげるべきであった、という悔いはある。
「なんか声が聴きたくなって…… 」
「懐かしいな。結婚したんだね…… 。でも、驚いたよ。この電話番号をよく分かったね」
「ごめんね。色々聞いて回ったりしたかも…… 」
「いや、全然。嬉しいよ、声が聴けて。元気だった? 」
「うん」
店の奥では、ママが聞き耳を立てていることが気配で分かった。
電話とは言え、思いがけず再会した昔の女である。話したいことは色々あった。それに、わざわざ連絡先を探し当てて逢いに来てくれたのだ。
きっと相談したいこととか、何らかの事情があったに違いない。
だか、私は第三者が側にいるという理由だけで、慎重に言葉を選び過ぎていたかも知れない。
会話が少し途切れた。
その時、受話器の向こうから赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
「子供がいるんだね…… 」
「うん…… 。その後、霧島さんのほうは? 」
「俺? 結婚したよ」
嘘だった。
瞬間、色々な考えが頭の中を駆け巡った。
子供の泣き声、そして〈霧島さん〉という私の呼び方。七年という大きな歳月の隔たりがそこにあった。
彼女からの電話だと分かった瞬間「もう一度、よりを戻してもいいかも知れない」という考えが頭の中に張り付いた。
しかし、受話器の向こうから泣き声が聞こえてきた時、その考えは見事に吹き飛んだ。
お互い別々の人生を歩きだしている。もう、過去には戻れない。ここは大人として対応しよう。
電話の向こうでは泣き声が止まない。
「泣いているよ、赤ちゃん…… 」
「うん…… 」
彼女が子供を気にしていることが電話口を通して伝わって来る。
「じゃあ、元気でね。今日はありがとう」
どちらからともなくそんな感じの会話をして受話器を置いた。
言葉は少なかったが気持ちは通じ合っていたと思う。
彼女に逢いたい。
もし、ママが側で聞き耳を立てていなかったなら、そして彼女が500kmほど離れた場所に今住んで居るのではなかったなら、私は今晩彼女を飲みに誘っていたに違いない。
今になって、連絡先すら聞かなかったことが悔やまれた。
だが、これで良かったのだ。
私が誘えば、恐らく彼女は少し無理をしてでも来たかも知れない。
逢えば多分、再び一つの愛を手にしていたに違いない。しかしその一方で、七年の歳月で得たはずの別の何かを、きっと失っていただろう。
中年の男というものは、屈強そうに見えるがその実、内面では色々なところの錆びつきが進行している。内側からもろくも崩れてしまう弱さをたくさん抱えているものだ。
当人はそれに薄々気付いてはいるが、その事実を認めたくなくて、つい無理を重ねてしまう。
その先に見えるものは〈喪失感〉だけかも知れない。
ふと我に帰った。
何か夢を見ていたあとの目覚めのようだった。
店の奥にいたママと目が合った。
ママは観音菩薩のような慈愛に満ちた顔でこちらを見ていた。