幻影
汚れた都会にもきちんと朝は来る。
ブラインドからは眩しい光が漏れていた。
おもむろに私はベッドから起き上がり、上半身裸のままブラインドの羽だけを指で押し下げて外の気配を伺った。
「天気が急変すると聞いていたが……」
私はまだ寝ぼけた頭で今日のスケジュールを思い出そうとしていた。
急に雨が降るかもしれないという事前情報のほか、今日の予定は……
何も無かった。
世間では、次から次へと様々な事件が起こる。よくもまあ、懲りずに犯罪や争い事がああも続くものだ。それだけ人の感情が掻き乱されているということなのか。
それと同じ数だけ、それらを捜査したり解決させたりする人も、また存在する。
このうち一つでも私のところに調査依頼があれば、喜んでそれを引き受けるだろう。
私の名前は霧島という。
下の名前? そんなものは男には要らない。
仕事は、私立探偵……
に憧れているただの酒場従業員、しがない雇われマスターである。
店のママには〈キリちゃん〉と呼ばれ可愛がってもらっている。
ただ、店はいつ潰れてもおかしくない場末の酒場だ。突然失業しても対応出来るようにはしておきたい。
遠くで雷鳴が轟いている。天気予報通りだった。
「雨が降って来る前に店に行ってしまおう」
まだ、かなり早い時間だったが、私は出勤することにした。
歩き出して間もなく、一粒の雨が私の行く手に落ちる。
「これは……」
私は傘を持つのが嫌いだ。ハードボイルドに傘は似合わない。
男なんざぁ、少し濡れているくらいがちょうどいい。私はそう考えていた。
風が出てきた。気温が急降下するのが肌でわかる。
すると大粒の雨が一斉に私を攻撃してくる。走るしか無かった。
何者かが私をおとしいれようとしている。
〈これはワナだ〉そう直感した。
容赦ない雨に打たれ、少し濡れるどころではなかった。
白いシャツが濡れて肌に貼り付く。
よく見たら乳首が透けて見えているではないか。なりふり構わず私は走った。
ようやく近くの建物に身を寄せる。
心臓が爆発しそうに苦しい。
吐く息は荒く、鼓動が激しく胸を叩く。
何かが起こるのではないかという予感がする。
しかし、それは事件の前触れでも何でも無かった。
世間では、それを〈動悸・息切れ〉という。
激しい雨が降り続く。
道路脇の排水溝を目掛け、怒涛のように雨水が流れて行く。
……もっと激しく降るがよい。
この汚れた街に漂う暴言、虚言、吐き出された体液、腐りかけた虚栄心……
すべて綺麗さっぱり洗い流してくれ。
雷鳴が響き渡る。
世の中をなめきった人間どもに対する神の怒りが、ついに爆発した。
〈おまえら、ざけんなよ! 〉
私にはそう聴こえた。
寒冷前線は足早に通過したようだ。
ビルの軒先で雨宿りしたおかげで呼吸は元に戻った。
雨はだいぶ小降りになっている。
筋向かいでは、一人の老人と少女が同じように雨宿りしていた。
私はこれ以上、ここに居る訳にはいかない。路地裏にある店を目指して小雨の中を私は駆け出して行った。
ようやく、店に到着した。
私は、濡れてしまった自分の服装を、壁際の鏡に写して点検する。濡れたシャツの下で、乳首が立っているのがわかった。
その時、ふと何か視線のようなものを感じた。
入口方向を振り返ると、薄いローズピンクの塊が見える。
「女…… ? 」
いつからそこに座っていたのだろう。
思えば、以前からそうだった。
突然その存在を表す、全身ピンクのドレスに身を包んだ謎の女。
何も語らない。身動き一つしない。
いつもそこにじっと座っている。
一度だけ、客の男と親しげにしている姿を目撃したことがある。
お互いの耳をくっ付けあい、口を寄せ合っていた。客がしきりに何かささやいていたが、ピンクの女はじっとしていた。
時間にして、三分ほどでその行為は終わった。
私はそのピンクの女の正体が知りたくなり、側に近付く。
おもむろに体に触れようと手を伸ばす。
その時だった。
ガラガラ…… 。
店の玄関の戸を誰かが開けた。
……店のママだった。
「キリちゃん、あんた、ピンク電話の前で何してんのさ…… 」
ピンク電話。
正式名称を「特殊簡易公衆電話」という。
今やほとんど見なくなった昭和の忘れ物である。