♯5『Jubnile's End.』
額に冷たいものが載せられる感触がした。
続いて、肺に空気が入り込む感触。その次に、四肢に触れる布の感触がした。瞼の向こう側に光を感じるが、どうしてか瞼を開くことができない。体を動かすこともできないまま、少しずつ五感を取り戻していくような感覚が続く。
その最後に、自らの心臓の鼓動を明確に感じた。
ゆっくりと、瞼を開けていく。吊るされたランタンの橙色の光ですら目に突き刺さって、思わず顔をしかめた。どうやらフリッツはベッドに横たわっているようだった。体を起こそうとするが、全く力が入らない。
仕方がないから深く呼吸を繰り返していると、側で誰かがフリッツに話しかけているのが分かった。だが、なんと言っているのかは聞き取れない。その人物はフリッツの顔を覗き込んで、何かを言っている。ぼやける視界の中、必死さだけは伝わってきた。
「――ッツくん! フリッツくん!」
徐々に本来の調子へ戻っていく五感で、その人物がフリッツの名前を呼んでいることが分かった。その輪郭も、はっきりと鮮明になっていく。
「ア……ンジェラ」
掠れた声で、なんとか少女の名前を呼んだ。
アンジェラは涙を浮かべて、フリッツの名前を呼ぶ。今にも飛びついてきそうな勢いだが、フリッツの体を労ってか行き場のない両腕が右往左往していた。
「フリッツくん! 今バッカスさんたちを呼んでくるね!」
言うが早いや、アンジェラは部屋を駆け出していく。そしてバッカスとブレストを連れて、大慌てで戻ってきた。
三人ともフリッツの意識が回復したことで胸をなでおろしているといった様子だ。朝にはブレストの姿が見えなかったから、殺されてしまったのかと思っていたが、彼も無事なようで良かった。
「フリッツ、良くやった」
バッカスがベッドに横たわるフリッツの側に屈んだ。そしてまだ力の入らない手を握る。
ブレストも屈みこんで、アンジェラを抱き寄せながら、フリッツに目線を合わせる。
「フリッツくん……娘を助けてくれて、本当にありがとう。私だけではない、村中のみんなが君に感謝しています」
「奴らは……?」
「ほとんどお前が……お前のお手柄だ。村の中に多少残党がいたが、そいつらはオレとブレストで始末した。だからもう大丈夫だ」
バッカスの言葉を聞いて、起き上がろうとしたフリッツをブレストが止める。シーツを掛け直して、アンジェラに薬を持ってくるようにと指示した。
「まだ傷が塞がっていません。とりあえず今は休んでください」
ブレストに言われ、おとなしく従う。
血の浜辺で、フリッツは死を覚悟していた。いつ斬られたのかも分からないが、腹の傷からたくさんの血が流れ出た。辺りに転がる亡骸と同じものになるのだと思っていた。
それがどういうわけか、こうして生きている。
何か目的があるわけではないが、とにかくジッとしていたくない気分だった。そんな違和感を主張する心を押さえつけて、ベッドの中で体を弛緩させる。
頭の中でぐるぐると回るのは、傷の痛みでも安堵感でもない。
ついに――人を殺してしまった。
罪悪感とも違う、吐きそうなほどの違和感がフリッツの思考を支配する。先ほどバッカスは、フリッツの内心を慮って言葉を選んだ。しかしその優しさが、今はむしろフリッツを苦しめるのだ。
フリッツが殺したのは、殺されて当然の下衆だった。仮にフリッツが直接手を下さなくても、絞首刑に処されて結果は同じだっただろう。
それに状況が状況だった。暢気に手加減などしていたら、フリッツの方が殺されていた。フリッツが殺されていたら、アンジェラを含む多くの村人が殺されていただろう。
だから仕方のないことだった。百人に聞けば、九十九人がフリッツの行いを賞賛するだろう。よもや、フリッツの行いを批判する人間などいるはずもない。
だから、仕方のないことだった。
――本当に?
守るために、仕方なく?
殺さないといけなかったから、仕方なく?
守るためだというのなら何故、アンジェラをひとりで置いていったのだ。仕方なくだというのなら何故、逃げる者を追って殺したのだ。
何も、仕方なくなんてなかった。
フリッツは自らの意志で、自らの怒りで、人を殺めたのだ。それも一人や二人ではなく、何十人もだ。
一度血に染めた手は、どうやっても洗い流すことはできない。それどころか、これから触れるものすべてに血の穢れをなすりつけることになる。
今なら分かる。バッカスが危惧していたのはこれだ。殺人者は、たとえどんな高潔な理由があろうと、この苦しみからは逃れられない。
あの戦い、あの殺戮の中で、フリッツは確かに愉しんでいた。首を刎ねる感触、心臓を潰した手応え、命を奪う快感。
一体自分のどこに、あんなに恐ろしい怪物が潜んでいたのだ。
あの狂気は、いずれフリッツの近しい人にも向けられるのではないか。それはありえないと断ずることはできない。
自ら飼いならすことのできない激情が、いつ溢れるか分からない状態で、たしかにこの胸の中にあるのだ。これほど怖ろしいことはない。
フリッツは、ベッドの中で震え続けた。
その後、フリッツはほとんど誰とも口をきかず。一週間、葛藤の中で過ごした。特にアンジェラは寄せ付けないようにした。彼女の瞳には、血に汚れた自分の姿が映る気がしたからだ。
それに、フリッツは彼女を守ることができなかった。言葉に出して責められることはなくても、失望のこもった目で見られることが恐ろしかった。
肉体の傷は癒えても、心の傷は深まるばかり。
漁村を出発する日も、誰の見送りも受けず、逃げるように出発した。村人の感謝や賞賛が、フリッツにとっては針の筵だ。
――また会いに来てね? じゃないと、こっちから行くから。
出発の前日、アンジェラがフリッツに言った言葉だ。フリッツはその言葉に答えることができなくて、アンジェラは寂しそうに笑ったのだった。
これが僕の、少年期の終りだった。
◆◆◆
――19,Autumn.
「最後のひとつは――"どんなに辛くて、苦しいことがあっても、戦い続けること"。約束できる?」
「分かった! 絶対約束する!」
コレットが目を輝かせて力強く頷く。
どうやら傭兵団に入れることがよっぽど嬉しいらしい。無邪気に笑うこの少年が、いずれフリッツと同じ苦しみを味わうことになるのだと思うと胸が痛いが、それはコレットが向き合うべき問題だ。
「よーし! じゃあ早速剣の修行だ! オレに付いて来いガキ!」
バッカスが大声をあげながら、修練場の方に走って行く。道行く人が振り向くが、騒がしいのはいつものことなのでさして気にする様子はない。
「了解であります、タイチョー!」
コレットも、バッカスを追って走り去ってしまった。なんとも慌ただしい二人だ。あれはあれで相性は良いのかもしれない。守衛の団員も、呆れた表情で走り去る二人を眺めている。
これでまた団が賑やかになるなと思いつつ、溜まった仕事を思い出して立ち上がった時だった。
「団長さん。三つの約束は守るから、私も傭兵団に入れてくれないかな?」
張りのある女性の声で、そう話しかけられた。
今日は朝から入団希望者が多いな、と思いながら振り向くと、美しい声から想像した通りの女性が立っていた。
スラリと伸びた手足に、女性らしさを主張する体つき、そして茶色の癖っ毛。
二つの大きな瞳が、フリッツを見つめていた。
話しかけられたのにも関わらず、フリッツは言葉を失う。女性の美しさに見惚れているわけではない。それも多少はあるかもしれないが……そうではなく。
「お久しぶり、フリッツくん」
女性がにこやかに笑いかける。その笑顔は、フリッツが最後に見たそれとまったく変わっていなかった。
「どうして……ここに」
「言ったでしょ? 会いに来ないと、こっちから行くよって。それとも、会いたくなかった?」
会いたくなかったはずかない。合わせる顔がなかっただけだ。
「――アンジェラ。僕は……君を守ることができなくて」
フリッツが拳を握り締める。目を伏せ、固く引きむすんだ口元には悔恨が浮かぶ。
まだ彼女の顔を見れないんじゃ、五年前と何も変わっていないじゃないか。
「へ? フリッツくんはちゃんと私を守ってくれたでしょ?」
「違うんだ、アンジェラ……僕がもっと早く君を助け出せていたら」
命は救っても、救えなかったものがある。フリッツとってそれがどれだけ重く、どれだけ辛いことかは計り知れないが、きっと死にたくなるほどの苦しみだろう。
叱られるのを待つ子供のように神妙な表情を浮かべ、唇を噛みしめるフリッツの様子を見て、アンジェラがフリッツの謝罪の意図を察したのだろう、パチンと手のひらを合わせる。
そして辺りをキョロキョロと見回してから、フリッツの耳元に口を寄せて囁いた。
「――大丈夫だよ。私、まだ処女だから」
「…………」
ウィンクするアンジェラを見て、フリッツは言葉を失った。かなり長い沈黙の後、フリッツが絶叫する。
「ああああ!! 苦しみ続けた僕の五年間はなんだったんだああああ!!」
フリッツは頭を抱えて、服が汚れるのも構わず地面を転がる。多少の騒ぎには慣れっこの隣人も、今度ばかりは何事かと集まりだす。突き刺さる視線も気にせず、フリッツは打ち上げられた魚のように悶えた。
そんなフリッツを見て、アンジェラが大きな声で笑う。
「だって、フリッツくん全然口きいてくれなかったんだもん! 当時は私も気恥ずかしかったし、わざわざ言わなかったんだけど、そんなに気にしてたなんて……はははは!」
アンジェラにトドメをさされ、フリッツは地面に横たわったまま微動だにしない。邪龍の尾よりも重い一撃をもらったフリッツは死に体だ。
あの日、アンジェラは男達に跨られていた。それはつまり、そういうことをされたのだろうと、フリッツは解釈していたのだ。それ故に、アンジェラに合わせる顔がなかった。
人を殺めた苦しみなど、一ヶ月ほどで消化した。何かを守ろうとすることは、それ以外を壊してしまうことなのだと納得することにしたのだ。
まさか、フリッツ少年にとっての最大のトラウマがただの勘違いだったなんて。あの一件のせいで、年頃の女の子に接するのがかなりの苦痛になっていたというのに。
虚ろな目で動かなくなったフリッツを心配して、本部にいた団員がぞろぞろと集まる。その輪の中心で、アンジェラの高らかな笑い声が響き渡ったのだった。