♯2『A man's word is as good as his bond.』
――9,Winter.
「ぐっ!」
弾き飛ばされたフリッツが、冷たい地面に横たわって呻く。
フリッツを弾き飛ばした張本人、バッカスは手に持った木の棒を遠くへ放り投げた。その棒は放物線を描いて、雪の積もった平野に突き刺さる。
「今日は終わりだ。ほら、立てるか」
「……うん」
フリッツはバッカスが伸ばした手に掴まって体を起こす。転がった時にひっついた雪がぱらぱらと落ちた。そのまま、二人で野営の準備をしていた場所まで戻る。
冷えた手を焚き火に当てて暖を取っていると、バッカスがウサギの肉を焼きはじめた。
バッカスと旅を始めてから五年。フリッツも随分と成長した。肉体的にも、精神的にもだ。今は大抵のことは一人で出来るようになったし、バッカスも危険ではないことは任せてくれるようになった。
剣の練習も一年ほど前からはじめた。しかし、バッカスにはまったく敵わない。まだ成長期も迎えていないのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、いつか超えられるという気も起こらないほどに、フリッツにとってバッカスは大きな存在だった。
それが悔しくもあるが、嬉しくも思っていた。父親とは、きっとこういう存在のことを言うのだろうから。
「ほら、焼けたぞ。ウサギ」
「ありがと」
しっかりと火の通った肉にかじりついて、その熱さにハフハフと息を漏らす。
旅を始めた最初の頃は、野生のウサギを捕まえて肉にするバッカスに怒ったりもしていた。どうしてこんなに可愛い動物を殺したりするんだ、と泣きながら抗議するフリッツを見て、バッカスが困惑したのも今となっては良い思い出だ。
今ではウサギを捕まえて絞め殺し、食べれる状態に加工するのもフリッツ一人でやっている。この肉もフリッツが用意したものだ。
「お前、剣の筋は悪くないぞ」
肉をかじりながら、バッカスが突然そんなことを言い出した。
急にどうしたのだと思ったが、バッカスが剣のことで褒めてくれたのは初めてのことなので、純粋に嬉しい。
「だけどな……剣を持つって以上は、いつか誰かの命を奪うことになる。ウサギじゃなくて……人間のな」
バッカスが言いづらそうに言った。いつもズバズバと言いたいことを言うバッカスの珍しい態度に、フリッツも只ならぬものを感じる。
そもそもフリッツが剣を持つようになったのは、バッカスに褒めてもらいたかったからだ。そしていつか、守られるだけの存在ではなく、バッカスと並んで戦いたいと思ったからだ。
――自分が誰かを殺すなんて意識したことはなかった。
「お前は優しい子だから、理由もなく人を殺したりはしないだろうが。相手が誰だろうが。人殺しは人殺しだ。オレは……お前にオレみたいになって欲しくねえ」
「バッカスはすごいよ……? 優しくて強いし。僕はいつかバッカスみたいになりたい」
苦い顔のバッカスが心配になって、上手く表現できなくとも彼をはげますようなことを言った。それを聞いたバッカスは少し嬉しそうにしたが、同じくらい悲しい顔をした。
「オレはお前が思うほどすごい奴じゃねぇよ。それはいつか分かる。ただ、剣を持つ以上はお前にも約束をしてもらいたい」
「約束……?」
「おう、男と男の約束だ」
男と男の約束。ただの約束じゃないのだ。バッカスに一人の男として認められたような気がして、気が引き締まった。
フリッツはぴしっと背筋を伸ばして、バッカスの言葉を待つ。
「絶対に、'"自分のためだけに戦うな"。それさえ守ってりゃあ、オレみたいにならずに済む」
◆◆◆
――14,Summer.
激しく降りしきる雨が、押しつぶすように地面を叩く。ぬかるみに足をとられないように気をつけながら、前へ前へと足を運ぶ。
少し先を歩くバッカスがフリッツを気遣うように振り向くが、気づかないフリをした。
子供っぽい反応だということは分かる。それでも、意地を張らなければならないのだ。バッカスに早く一人前だと認めてもらうためにも、雨なんかに負けてはいられない。
「フリッツ、着いたぞ。しばらくはここに泊まる」
足元から顔を上げると、寂れた門が雨に打たれていた。字は掠れてほとんど読めないが、歓迎の旨が書かれている。その横には魚を象った紋章があり、この村の特産品を示していた。
土臭い雨に混じって、微かに潮の香りがする。穏やかな湾に面したこの村では、漁業が主な産業なのだろう。今は誰の人影も見当たらないが、晴れた日にはきっと賑やかなはずだ。
バッカスが宿屋の扉を開き、中に入っていく。フリッツも軽く水を払ってから後に続く。
「らっしゃい……って、バッカスさん!?」
カウンターを拭きながら気怠そうにしていた主人が、バッカスの姿を見るなり表情を変えて立ち上がる。ふくよかな体は健康的そうで、浮かべる笑みも優しいものだ。
「よう、ブレスト。久しぶりだな」
ブレストと言う名の主人とバッカスは旧知の仲のようで、服が濡れるのも構わずに抱擁を交わす。
「こいつはブレスト。こいつが昔、傭兵やってたときにつるんでたんだ」
バッカスがブレストを紹介した。バッカスは「つるんでいた」と言うが、ブレストの反応を見る限り、面倒を見ていたのではないだろうか。バッカスはかなり面倒見が良いようで、あちこちにこういった友人がいるのだ。
フリッツはブレストにぺこっと頭を下げる。ブレストはフリッツにニッコリと微笑んだ。
「バッカスさん。こちらは?」
「こいつはフリッツ。十年前に拾って、それからずっと一緒だ」
「十年前というと……邪龍ですか」
「はい。孤児だった僕を拾ってくれたんです」
痛ましい表情をしたブレストに、フリッツから答える。
仕方ないことだとは分かっているが、フリッツは周りの大人が向ける哀れみの視線が嫌いだった。自分はバッカスとの生活に満足しているのに、それを否定されたような気分になるからだ。
十年前の邪龍戦争。三英雄が邪龍を討つまでの間に、多くの被害が出た。そのせいで、フリッツのような孤児も珍しくない。むしろフリッツの境遇はかなりマシな方で、飢え死にしたり、奴隷商に攫われてしまった子供も多いと聞く。そんな子供達に比べれば、フリッツの苦労などなんでもない。
「はぁ、世知辛いですねぇ……それにしても、お二人はこんな田舎までどうしたんですか?」
「仕事だよ。この村の村長から頼まれたんだ。赤熊の討伐」
赤熊といえば、この辺りではメジャーな魔物だ。繁殖期でもない限り、こちらかは手を出さなければ無害な獣だが、稀に気の触れたヤツが出てくるのだ。そういうヤツらは村の狩人程度では手に負えない。
「あ〜、たしかに村中で騒ぎになってますね。十年に一度の大物だとか。あと五年若ければ私が出向いたんですがねぇ」
「その腹じゃ無理だろ」
バッカスがブレストの腹を指して言った。たしかに、たぷたぷの腹では赤熊の餌になってしまう可能性の方が高そうだ。
違いないですねぇ、とブレストが相好を崩す。その時、カウンターの奥からフリッツと同じ年頃の子がひょこっと顔をのぞかせた。茶色のくせ毛と真っ赤な頬が可愛らしい女の子だ。
「お父さーん、お客さん?」
「おお、アンジェラ! こちらはバッカスさんとフリッツくん。お父さんの旧い友達だよ」
ブレストに手招きされて、アンジェラがカウンターから出てくる。白いエプロンからして、この店の給仕をしているのだろうか。
「はじめまして、アンジェラです」
そう言って、アンジェラがバッカスに手を差し出す。バッカスはその手を取って、彼女の容貌をじーっと眺めた。
「ほー、お母さん似だな。ブレストに似なくて良かった」
「ふふっ、よく言われます!」
「ブレスト本人がこの場にいるんですよ〜?」
ブレストが非難の声を上げるが、皆に無視される。うなだれたブレストが少し可哀想だが、年頃の娘をもった父親はどこもこんなものだろう。
「あなたも、よろしくね」
「う、うん」
アンジェラがフリッツにも手を差し出す。
各地を放浪しているフリッツは学校にも通っていないので、同じ年頃の女の子というものにまったく慣れていない。差し出された手を握って、おずおずと握手を交わしたのだった。
「何照れてんだお前」
「て、照れてない!」
しどろもどろの対応を見せたフリッツに、バッカスがツッコミを入れる。必死で否定する様は、むしろ肯定しているようなものなのだが、まだまだ子供であるフリッツはそのことに気づいていない。
ただブレストがフリッツを見る視線に、父親ゆえの敵意のようなものが混じったのだけは肌で感じていた。




