9.体育の日の接近(十月)
オレは子どもの頃から運動が大の苦手だった。体育の授業はうっとうしかったし、運動会も大嫌いだった。だから体育の日なんてものは祝日というより呪日とでもいうべきものだったのだが、今となっては別に呪う気もなく、ただ休日としてのんびりするというだけだった。
それに昔は体育の日は十月十日だったはずだが、いつの間にか第二月曜日とかになってしまったから、ただの三連休の最終日に過ぎないのだ。
というわけで、今年の体育の日も家でぐうたらして過ごすつもりでいた。ところが昨夜、銭湯で風呂上がりに鏡に映った自分の姿を見て、オレは愕然としてしまった。腹が出て贅肉でたるんでいる。これでは女にモテるはずがないではないか。そう思ったオレは、もっと引き締めた体を作ろうと決意したのだった。
ちょうど近くの市民体育館にちょっとしたアスレチックジムが併設されていて、体育の日にはそこで無料体験ができるというチラシが入っていた。そんなわけで、それに行ってみることにしたのである。
朝一番に近くのスポーツ用品店で安物の室内用運動靴とシャツとジャージを買い、歩いて二十分ほどの市民体育館へ行った。体育の日だけあって、いろんなイベントが開催されているらしく、けっこう人が多かったが、まだ午前中の早い時間だったので、なんとか入ることができた。
アスレチックジムにはいろんな器械が置いてあるが、どれもすでに使用中だった。少し待つと、ランニングマシンが一台空いたので、とりあえずランニングでもしてみることにした。
使い方がよくわからず、適当にパネルを操作していたら、マシンが動き出した。オレはその動きに合わせて走り始めた。けっこう速度が速かったが、速度調整のしかたがよくわからない。しばらく無理をして、オレとしてはほぼ全速力で走っていたら、ものの一分もしないうちに息切れをし始めた。
とうとうマシンの速度について行けなくなり、しかたなく台から飛び降りたら、地面に着いた拍子に前につんのめって倒れてしまった。気まずい思いをしながら、オレは立ち上がろうとした。
するとそのとき、後ろから女性の優しい声が聞こえてきた。
「大丈夫ですか?」
見ると、隣のマシンで走っていた人である。小麦色の健康そうな肌をした美しい女性だ。髪はポニーテールにしていて、年齢も二十歳ぐらいだろうか。
「え、ええ、大丈夫です。どうもありがとうございます。ちょっと器械の操作がわからなかったもので」
オレは無理に笑顔を作りながら答えた。女性はクスリと笑い、丁寧に操作方法を教えてくれた。オレは速歩きぐらいの速度に設定し、マシンの上をゆっくり走り始めた。隣を見ると、さっきの女性はものすごいスピードで見事なフォームで走っている。
その姿をときどきチラリと横目で盗み見していると目が合った。彼女はニコリと微笑み、再び真剣な表情に戻って走り続けた。
三十分ほどでオレは息が切れてしまい、マシンを降りた。隣の女性は速度を少し落としてクールダウンしはじめている。
オレはシャワーを浴びて、ロッカー室で着替えを済ませ、自動販売機でスポーツドリンクを買い、近くのソファーに座って飲みながら、さっきの女性のことを考えた。ああいうスポーティーな女性も健康的で素敵だなと思った。
二十分ほど休むと疲れもとれたので体育館を出ると、偶然にもすぐ前をさっきの女性が歩いているのが見えた。オレは急いで追いかけて、後ろから声をかけた。
「あっ、あのう、さっきはどうもありがとうございました」
女性は驚いたように振り返った。
「あら、もう大丈夫ですか?」
「ええ、おかげさまで。やっぱり普段から運動してないとだめですね。あなたは何かスポーツをされてるんですか?」
「高校までは陸上競技をやってたんですけど、今はただ健康のためにときどき走ってるだけなんですよ」
彼女は途中まで帰る方向が一緒だったので、十分ほど歩きながら話をすることができた。驚いたことに同じ大学の学生だということがわかり、話が弾んだ。オレは今日のお礼に夕食でもごちそうさせてくれと頼み、ケータイ番号とメルアドを聞き出すことに成功した。
途中の交差点で彼女と別れたが、それからオレはとても明るい気持ちで家路についた。こうして体育の日はオレにとってもはや呪日ではなく、特別な祝日に戻ったのである。