8.秋分の日の諦念(九月)
山の日に知り合った女性は名前を夏子といい、その後もときどきメールやケータイで連絡を取り合った。失恋の痛手を引きずっていた彼女も次第に心を開いて打ち解けてくれるようになり、オレは彼女のことを「なっちゃん」と呼ぶようになった。
彼女の家はオレの住む街から電車で一時間半ほど離れた地方都市にあるので、そう簡単に会うこともできない。そんなわけでオレはなっちゃんをなかなかデートに誘うこともできず、メールや電話の内容もあたりさわりのないことばかりで、関係はなかなか進展しないでいた。
さすがにこれではいかんと思ったオレは、おずおずと彼女をハイキングに誘ってみることにした。オーケーの返事がもらえたとき、オレは飛び上がるほどうれしかった。
デートの日は九月二十三日土曜日、秋分の日と決まった。オレはわくわくしながら、コースの下見に行ったり計画を練ったりした。もちろん、夕食のレストランからアフターディナー、さらにはその先のことまで含めてである。
ところが、なっちゃんはオレが選んだのとは別の場所を提案した。それは少しハードなコースで、オレは夜のために体力を温存しておきたかったのだが、彼女がその山へ行きたいと言うので同意することにした。
待ちに待った秋分の日、約束した時間ちょうどに、彼女は登山口の駅の改札口から出てきた。
「ごめんなさい、だいぶ待たせちゃったかしら?」
「いや、ほんのちょっと前に着いたばかりだよ」
実はオレは予定より一つ早い列車に乗ったので、三十分以上前に到着し、周辺の下見をしていた。駅前の案内所でパンフレットも入手しておいたのだ。
「じゃあ、行きましょう」
なっちゃんはそう言うと、ずんずんと先へ歩き始めた。オレはあわててあとについて行き、歩きながら訊いた。
「なっちゃん、この山は以前にも来たことがあるのかい?」
「えっ、ええ……別れた彼と来たことがあるの」
彼女はちょっと暗い表情になった。オレも何と答えていいかわからず、黙っていた。
「でも、あんなひどい男のことなんか、どうでもいいのよ。もう吹っ切れたわ」
なっちゃんはそう言って笑ったが、オレにはなんとなく無理をした笑顔のように見えた。
二時間ほど歩くと、山の頂上に到着した。ふだん運動をしないオレにはけっこうこたえたが、なっちゃんは平気な顔をしていた。険しい山ではないので、山頂はわりと広々としていて、見晴らしもよかった。
「ねえ、私、お弁当作ってきたの。あそこの木陰で一緒に食べましょ」
「わあ、うれしいな」
オレは素直に喜んで見せたが、ちょっと複雑な気持ちだった。彼女は別れた彼とここへ来たときも、同じように弁当を作ったのだろう。
「ねえ、おいしい?」
「う、うん、とってもおいしいよ」
「わあ、よかった」
無邪気に笑うなっちゃんの顔を見ると、本当にかわいいと思った。
それから山を下りると、夕方近くになったので、オレは彼女を夕食に誘った。すると彼女は行きたいレストランがあると言った。
そこは駅のすぐ近くにあるおしゃれなイタリアン・レストランだったが、店の前に背の高い若いイケメンの男が立っていた。男はなっちゃんの姿に気がつくと、近づいてきた。
「夏子、おれが悪かった。もう一度やりなおしてくれ。頼む……」
「今さら何よ。私にはもうお付き合いしている方がいるって言ったでしょ。今デートの最中なんだから、じゃましないでちょうだい」
男はオレの顔をじっと見て、ゆっくりと言った。
「本当なんですか。本当に夏子はあなたと付き合っているんですか?」
オレはちょっと戸惑ったが、内心の動揺を隠しながら答えた。
「はい、先月から夏子さんと正式にお付き合いしています」
男はうなだれた。
「さ、行きましょ」
なっちゃんはそう言うと、おれの手を取ってレストランの中へ入った。男は店の入り口の前に呆然と立ちすくんでいた。
案内されたテーブルからは、店の前でうなだれながら立っている男の姿が見えた。
「ここのレストランはピザがとってもおいしいのよ」
なっちゃんはそんな他愛ない話をしながらも、店の外の男の方をときどきちらりと見ていた。オレはしばらく迷ったが、とうとう意を決して言った。
「なっちゃん、行ってあげなよ」
「えっ?」
彼女はちょっと驚いた顔をした。
「なっちゃんも本当はまだ彼のこと、好きなんだろ? 彼も本心で後悔してると思うよ。だから行ってあげなよ」
なっちゃんはしばらく黙ったまま、おれの顔をじっと見ていたが、やがて大きく頷いた。
「うん!」
彼女は椅子から立ち上がり、急いで店の外へ出た。オレもゆっくりと席を立った。
店の外で二人はじっと見つめ合っていた。オレは近寄って、二人の肩をそっと叩いた。
「オレもう帰るから、店の中でゆっくり食事しなよ」
そう言ってオレは駅の方へゆっくりと歩いて行った。
「ありがとうございます!」
後ろからなっちゃんの声が聞こえた。オレは振り返らずに、後ろ向きにバイバイと手を振った。涙を見せたくなかったのだ。
帰りの電車の中で、オレは自分の行動が正しかったのかどうか考えてみた。そして、やはりこれでよかったんだと思った。これまでの失恋のときよりは、少しだけすがすがしい気分だった。