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7.山の日の遭遇(八月)

 八月十一日は山の日という祝日だ。その時期は大学はもう夏休みなので、祝日という実感はない。しかしせっかくなので、おれも気分転換に山にでも行ってみようかという気になった。

 実はアパートのおれの部屋にはエアコンがなく、暑い夏も扇風機でなんとか凌いでいる。だから山の方がちょっとは涼しいだろうと思ったのだ。かといって本格的な登山をする体力はないので、家族向けのハイキングコースを探してみることにした。ネットで調べると、電車で一時間ほど行ったところに、よさそうな感じの山がある。若い女性にも人気のあるところらしい。よし、ここにしよう。

 というわけで、おれはすぐに準備をして、出発した。


 目的地へ行く電車は家族連れで満員だった。若い女性もそこそこ乗っている。新しい出会いへの期待に、おれの胸は高鳴った。

 電車を降りると、風も吹いてけっこう涼しい。周りの人たちはそれでも暑そうにしているが、おれは普段からエアコンなしの生活で鍛えているのだ。

 駅前から登山口に続く歩道には土産品店や食堂が立ち並んでいる。若い女性が好みそうな、おしゃれな感じのショップもある。これなら人気があるのもわかる気がする。だがそれにしても、とにかく人が多いし、家族連れの声もうるさい。おれはうんさりして、なるべく静かなところを探すことにした。


 登山道をしばらく歩くと、山頂コースから外れて森に入る分かれ道があり、そちらは人が少なそうだったので、おれは森の散歩道コースの方へ入っていった。森の中は静かで涼しい。

 しばらく歩くと、谷に架かる橋が見えてきた。すると、その橋の上に若い女性が、なぜかたった一人でたたずんでいる。あたりにはほかにだれもいない。女性はおれの姿に気づくと、驚いたようにびくっと身動きした。おれは変質者だと思われないように、明るく挨拶をした。

「こんにちは」

「こ、こんにちは」

女性は小声で返事をした。おれはなんとなく気になり、もう少し何か話そうかとも思ったが、相手に恐怖心を抱かれてはいけないと思い、そのまま通り過ぎることにした。橋の下の谷底はかなり深かった。


 しばらく歩くと行き止まりになっていたので、しかたなく引き返すと、さっきの女性はまだ橋の上に立っている。橋の欄干にもたれかかり、深刻そうな顔をして深い谷底を見ている。よく考えると、こんなところに女性が一人でいるのも、ちょっと不自然だ。まさか飛び降りるつもりじゃないだろうな。おれは思い切って声をかけることにした。

「どうかなさいましたか?」

女性はまたびくっとして、驚いたように振り向いた。そしてしばらくおれの顔をじっと見ていたが、やがて放心したように、その場にしゃがみ込んだ。

「ど、どうなさいました?」

おれは慌てて女性のところに駆け寄った。女性は泣き崩れた。

「大丈夫ですか?」

そういって、おれは女性の肩に手を置いた。女性はそれを拒みもせず、しばらく泣き続けていた。おれは事情がわからず混乱したが、その一方で、こんなところで若い女性と二人っきりでいることに、ちょっとした胸のときめきを感じていた。


 五分ほど経って、女性はようやく立ち上がった。

「ごめんなさい。もう大丈夫です」

「とにかく、いっしょに山を下りましょう」

おれはそう言って女性に付き添い、山を下りて駅の方へ向かった。

駅近くまで行くと、おしゃれな甘味処が目についた。

「ちょっと休んでいきませんか」

そう誘うと、女性は小声で「はい」とだけ返事をした。


 店の中に入り、おれは宇治金時を、彼女はあんみつを注文した。しばらく黙ったまま、それぞれ宇治金時とあんみつを食べていたが、おれの方から思い切って訊いてみることにした。

「何か深い事情がおありのようですね。もしよかったら、話してみませんか?」

「は、はい」

 女性はしばらく黙っていたが、やがて少しずつ話を始めた。

「わたし、あの橋の上から飛び降りて、死のうと思ってたんです……」

「やはりそうだったんですか」

 思っていたとおりだった。女性は話を続けた。

「ちょうど一年前、あの橋の上で彼から付き合ってくれと言われて、初めてキスをしたんです。でもつい先日、ほかに好きな人ができたから、別れてくれって言われちゃって……」

「ひどい男ですね。あなたみたいな素敵な人と別れるなんて」

 おれがそう言うと、女性は顔を少し赤らめた。

「そうですよね。そんなひどい男のために、わたしが死ぬことなんかないですよね」

「そうですとも。もっとあなたにふさわしい、あなたのことを誠実に愛する人がきっといますよ」

「ありがとうございます。なんだか、生きる勇気が沸いてきました」

 女性はおれの顔をじっと見つめた。ちょっといい雰囲気になってきたので、おれは思い切って言ってみた。

「よかったら、また近いうちに一緒にハイキングでもしませんか?」

「はい、ぜひお願いします」

 思いもよらずあっさりと承諾してくれたので、おれは飛び上がるほどうれしかった。さっそくケータイの番号とメルアドを交換した。


 店を出て駅へ行き、一緒に電車に乗った。彼女は途中の駅で降りた。

「ありがとうございました。じゃあ、またお会いしましょう」

 彼女はそう言うと、手を振って改札の方へ歩いて行った。おれは胸の中に言いようのない喜びを感じながら、その後ろ姿を見送ったのだった。


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