5.聖ヨハネの日の僥倖(六月)
幾子ちゃんにフラれてから、オレは失意の日々を送っていた。同じ授業でも彼女は離れた席に座り、何か話しかけようとしても、無視されてしまった。それでもなかなか未練は断ち切りがたく、その後もヴァーグナーのCDを聴いては、物思いに耽っていた。
その日は六月二十四日で聖ヨハネの日だったので、朝から『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を聴いた。落ちぶれた騎士のヴァルターが町の教会で金細工師の親方の娘エーファを見初めて恋をし、有名なマイスタージンガーであるハンス・ザックスの指導を受けて最高の歌を作り、聖ヨハネの日の歌合戦で見事な歌を披露して勝利し、エーファを手に入れるという内容のオペラだ。ヴァーグナーの楽劇では珍しくハッピーエンドのもので、聴いていて少し元気が出てきた。
そんなわけで、オレも部屋に引きこもってばかりいないで、午後からは街へ出てみることにした。ちょうど来月上旬にゼミで発表が当たっているので、大きい本屋へ行って資料を探そうと思ったのである。
書店の中は混雑していたが、哲学書のコーナーはさすがに人も少なかった。するとそこで、見覚えのある美しい女性が本を探していた。同じゼミの四年生の先輩、三木清香さんだった。彼女はゼミの女王様のような存在で、みんなの憧れの的だった。成績も超優秀で、大学院に進学して研究者を目指すとの噂だった。その三木さんがオレに気づいて、声をかけてくれた。
「あら、モテナイくんじゃない。何か参考文献でも探してるの?」
オレは憧れの美人の先輩に名前を覚えていてもらえたことに感激し、どぎまぎしながら答えた。
「は、はい。実は再来週、ゼミの発表が当たってるので、その資料を探しに来たんです」
「あら、そうだったわね。何のテーマで発表するんだったかしら?」
「はいっ、カントの『判断力批判』における自然美と芸術美についてです。『純粋理性批判』や『実践理性批判』はわりと参考文献も多いですけど、『判断力批判』はなかなかいいのがないですね」
実際のところ、オレはテーマの選択を後悔し、すなおに『純粋理性批判』のアンチノミー論あたりにしておけばよかったと思っていたのである。すると三木さんは思いがけないことを言った。
「あら、『判断力批判』なら参考文献はけっこう持ってるわよ。よかったらちょっとうちに寄っていかない? この近くのマンションに住んでるんだけど」
「えっ、い、いいんですか?」
オレは驚いて念を押した。たしか三木さんは一人暮らしだったはずだ。オレみたいな男が一人で行っていいのだろうか。
「かまわないわよ。近くにお気に入りのケーキ屋さんがあるから、ケーキでも買って、うちで一緒にお茶でもしましょう」
ああ、まるで夢のようだ。なんという僥倖だ。オレは信じられない思いで、三木さんのマンションへついていった。途中で買ったケーキの代金は強引にオレが払った。
一人暮らしの女性の部屋に入るのは初めてだったので、どきどきした。部屋は1LDKで広く、オレの六畳一間のおんぼろアパートとは大違いだ。家賃は十万は下らないだろう。寝室は別になっていて、LDKにはものすごい量の本が棚に整然と並んでいる。テーブルの上には花が飾ってあり、甘い香りが漂っていた。壁には油絵の風景画が掛かっている。
「お茶をいれるから、ちょっと待っててね」
三木さんはそう言うと、台所へ行ってお湯を沸かし、紅茶の道具を持ってきた。ちゃんとしたティーポットなどの一式だ。オレがときどき飲むティーバッグとは違う。茶葉の入った缶にはウェッジウッドと書かれている。ポットとカップもウェッジウッドだ。なんだか別世界へ来たような気がした。オレは出された紅茶を緊張しながら飲んだ。
「いやあ、やっぱり本格的な紅茶は味や香りが違いますね」
本当はティーバッグのものとの違いはよくわからなかったが、そう言っておいた。
「そうでしょう。これはダージリンだけど、プリンス・オブ・ウェールズもいいわね」
「そうですよね。でも、このダージリン、とってもおいしいです。ニットーとかリプトンとかも好きですよ」
オレには紅茶の名前もよくわからなかったので、飲んだことのある銘柄を言ったら、三木さんはちょっと変な顔をしたように見えた。
紅茶を飲み、ケーキを食べ終わると、三木さんは『判断力批判』の参考文献を持ってきて、丁寧に説明してくれた。単行本の概説書や研究書の他に、雑誌論文のコピーもあった。英語やドイツ語の文献まであるのには驚いた。
三木さんの説明を聞いている時に顔が近づくと、微かな香水の甘い匂いがして、オレは恍惚とした気分になり、ほとんど上の空だった。この瞬間が永遠に続いてくれればいいと思った。
もしかして、このまま夕食までごちそうになり、ワインか何かを一緒に飲んで、隣の寝室で一夜を共に……などとよからぬ妄想に耽っていると、三木さんの声が聞こえた。
「まあ、だいたいこんなところかしら。資料はどれでも貸してあげるわよ」
オレは我に返った。結局、日本語の文献をいくつか適当に選んで借りることにした。
「じゃあモテナイくん、再来週の発表、がんばってね。たしか七夕の日だったわよね」
三木さんはそう言って励ましてくれた。そしてオレが礼を言って帰ろうとすると、思いついたように付け加えた。
「そうだわ、せっかくの七夕だし、モテナイくんの発表が終わったら、夕食をつくってあげる。二人で打ち上げしましょう。ワインもいいのを用意しとくわ」
オレは信じられなかった。これは本当に夢ではないだろうか。オレは自分の頬をおもいきり抓ってみたくなった。夢ならどうか覚めないでくれ。オレはそう祈りながら、文字通り夢見心地で電車に乗り、自分の薄汚いおんぼろアパートへ帰ったのだった。