3.聖金曜日の奇跡(四月)
同級生のアキちゃんに失恋したあと、オレは心の痛手を癒すために、毎晩のようにクラシック音楽を聴いていた。その日はヴァーグナーの『パルジファル』の第三幕で、ちょうど「聖金曜日の奇跡」のところになると涙が出てきた。
最後まで聞き終わり、オレもアンフォルタスと同じように、自分の心の傷が癒されたような気がしてきた。そうだ。元気を出して、また次のターゲットを探そう。失恋の一回や二回、何だというのだ。いや、オレの場合はそれが何十回になるかもしれないのだが……
そういえば、聖金曜日というのはたしか復活祭の前の金曜日で、復活祭というのは春分の日のあとの最初の満月から数えて最初の日曜日とかいう、面倒な決め方になっていたから、毎年移動していたはずだ。
調べてみると、今年は四月十四日が聖金曜日だった。ということは、明日じゃないか。ああ、オレにも何か奇跡のような幸運な出来事が起こりますように。オレは心の中で祈った。すると、聖金曜日の奇跡は起こったのである。
翌日の金曜日、オレはキャンパス内の書店に併設されたCDコーナーでクラシックのCDを見ていると、隣からだれか女性が話しかけてきた。
「モテナイ先輩じゃありませんか?」
振り向くと、それは同じゼミの一年後輩の西田幾子だった。この四月から専門科目も受講するようになり、つい先日、同じ授業でたまたま隣の席に座っていた子だ。
名前からして、有名な哲学者の西田幾多郎の血縁者かと思ったが、訊いてみるとそうではなく、父親がやはり哲学科の出身で西田幾多郎で卒論を書いたのだという。しかし、顔の形は面長で、よく教科書などに載っている西田幾多郎に似ていないこともない。色白で髪は長く、眼鏡をかけていて、ちょっと地味な感じだが、よく見るとけっこうかわいい。胸はあまりないが、全体としてほっそりした少女のような体型だ。
「モテナイ先輩もクラシックをよく聴かれるんですか?」
西田幾子は無邪気な顔で尋ねた。
「うん。とくに今はヴァーグナーをよく聴いてるんだ。今日は聖金曜日だって、知ってたかい?」
「まあ、あの『パルジファル』で有名なところですね。今日がその聖金曜日なんですか。モテナイ先輩って、物知りなんですね。尊敬しちゃいます」
後輩の女の子に褒められて、おれはすっかりいい気になった。
「幾子ちゃんもヴァーグナーはよく聴くの?」
「ええ、最近になって聴き始めたんです。わたし、ニーチェを勉強しようと思ってて、そうなると親交のあったヴァーグナーも聴いておかないといけないでしょ。でも、まだあんまりCD持ってないんです」
「何なら貸してあげようか。ヴァーグナーならCDは三十枚ぐらい、DVDも十枚ぐらい持ってるよ」
これは嘘ではなかった。父親がヴァーグナー好きなので、そのCDやDVDをずいぶん持ってきていたのである。
「本当ですか? うれしいです。一度先輩の家まで見せてもらいに行っていいですか?」
おれは驚いた。まさか女の子からオレのところに来たいと言ってくれるなんて。
「ああ、もちろんかまわないけど。オレ、今は大学の近くのアパートで一人暮らししてるんだ」
「じゃあ、お昼の間におじゃまします。それならいいでしょ? 詳しいことはまた、近いうちにご相談させていただきますね」
幾子はそう言って立ち去っていった。オレはほっそりとした少女のような幾子の後ろ姿を見送りながら、うれしさが込み上げてきた。ああ、聖金曜日の奇跡が起こったのだ。
その翌週、同じ授業で西田幾子はオレの隣の席に座り、話しかけてきた。
「モテナイ先輩、今度のゴールデンウィークですけど、五月五日のこどもの日って家にいらっしゃいますか?」
オレは金もないし友だちも、もちろん彼女もいないので、何もする予定はなかった。
「ああ、こどもの日なら今のところ何も予定ないから、自分のアパートにいると思うけど」
「じゃあ、その日のお昼におじゃましてもいいですか? わたし、お昼ご飯にお弁当作って持って行きますから」
おれはうれしさで天にも舞い上がるような気持ちだった。
「あ、ああ、そりゃうれしいな。幾子ちゃんのお弁当、楽しみにしてるよ」
そのあとの授業は、もうまったく頭に入らなかった。
注:2017年の聖金曜日は4月14日です。