分断と劣化の時代
1 分断について
水族館で魚を見た小さい子が、食卓で目にしてきた形と違う姿を見て驚いたという話を耳にしました。十数年前には魚を肉に置き換えたような話を聞いたことがあります。中国の古い逸話にも、お米は知っているのに稲を知らない王が登場しますから、こんな話はいつでもどこでも聞かれるのでしょう。ただ、これらの逸話を滑稽な他人事にして笑えるのかどうか、迷います。いまや惣菜から駄菓子、あらゆる身の回り品の原材料が明記されてはいても、名と実が繋がるのは二割とありません。わたしたちは、それがなんなのかよく分からず、目にもできないようなものに囲まれて日々を過ごしています。でも、いちいち不安を覚えたりはしません。まったく際限がないのですから。
魚や肉やお米の話は、物には様々な面が連続しており、最初に目にしたり印象強かったり見慣れた段階は基準に位置づけられて、新たな面、前後の面との出会いを準備しているように示唆しています。生物、動植物と捉えられる魚、牛、稲は食べ物というごく身近な面との差違が際だっているので、大きい驚きを生むのでしょう。そしてその驚きに好奇心を強く刺激されたならもっとよく知ろうします。知識は増し、より好むところに深化し、精通してゆくでしょう。自分の記憶と違う魚の姿に衝撃を受けた少年が図鑑に手を伸ばし、ゆくゆくは水棲生物を研究する道を歩むとしても不思議ではありません。
科学の誕生とは概ねこのようなものです。ある疑問を荒唐無稽な言い伝えで誤魔化されて腑に落ちないでいる人が、明確な根拠で説明している理論と出会ったとき、霧が晴れるような思いがしたでしょう。これの最も強烈な例はダーウィンの進化論で、さらに他の多種多様な理論が続き、物事を認識する基準は神性から理性へと徐々に移行してゆきました。この150年の間、一つ分かると三つ分からないことができる、というような悩みと付き合って僅かずつ歩んできましたが、果たしていま以上の進歩はあるのでしょうか。
そう思う理由はいくつかありますが、懸念しているのは科学技術がどんなに進歩しても、新たに生まれる人間は科学が誕生する以前の人間と変わりがないという点です。でないと、魚は食卓で目にする切り身姿のまま泳いでいるというような勘違いはしないでしょう。わたしたちが得る経験は、自然・社会環境の作用が大要としてまずあり、その作用を受けた個人の認知能力の状態によって変換・修正・蓄積されます。魚や肉やお米の話はこの小例と言ってよいでしょう。
しかし、稲とお米の関係を知らなかった王がいた時代と、切り身と魚の関係を知らなかった幼子の時代とでは、あらゆる物に経験を提供する環境そのものを発達させ変化させる力の質と量がまるで違っています。
農耕を主とした時代では収穫量によって伸縮する枠組みの中でしか発展はなく、そしてそれは一年という間隔で循環しています。こうした環境に生まれる人間は、お米や稲の育て方、漁労の技術を生まれ持っているわけではありませんが、自然の順行と共にある社会に属しているのなら、一月に生まれようと八月に生まれようと必ずや知り得ます。時計の針が一時間ごとに同じ場所を通過するように出会うのです。
東洋では道、西洋では神を中心に据えて、自然に循行して象られてきた円状の枠組みは、科学技術を主とした近現代に入ると線状に置き換えられました。循環する円の中にある人間、ときにその外に出てしまう文明を満たしてきた労力は一方向に伸びるように整えられて、それまでにない急激な発展を実現しました。一人の成果の上に次の成果が積み上げられ、様々な分野と繋ぎ合わされて横幅を得、いまや見上げてもどれほど高いのか分からず、見渡しても果てがあるとも分からない偉大な壁のようです。こうした環境の中でも、新たに生まれる人間は、お米、稲の育て方、漁労の技術のほか数学も物理学も経済学も生まれつき知っているのではありませんが、循環型の社会ならば予め準備されていた経験を半ば偶発、半ば自発的に得なければならないようになっています。ここが、循環と直線で象られる二つの社会の大きく異なる点です。
そこで直線型の社会では様々な経験と出会う場を用意し始めました。それが学校です。循環型の社会にも似たような施設はありましたが、常に不安定、ときに歪つな伸縮を繰り広げる円状の世界で高度専門化される学問は、東アジアの儒学、西アジアの法学、欧州の神学のように、人の行いを局地の自然環境の制約と釣り合わせようとする伝統的な哲学とそれに付随する分野が優先されて、統治を担う階級に属する少数の精鋭を育成する傾向が強く、その他大多数の人々には無縁で、自然の循環の中で得られる経験だけで事足りていました。
直線型社会の学校は循環型社会のものと違い、ほぼすべての人をよりよい統治、よりよい社会に参画できる成員に育てようとしているので、誰もが同じ認識を共有するわけではない哲学ではなく、同じ認識を共有できるように定量化された科学を重視します。さらに、科学技術の進歩は急速でありながら止むことがないので、循環の波に乗るのではなく直線の道を辿って追いつくのは容易ではありません。新たに生まれる子は科学技術の知識を生まれつき備えてもいなければ、能力もほとんど変わらないいわば後発組です。科学技術が進めば進むほど、より多くの労力と資源を費やして教えなくてはなりません。当然それは一から教えている最中にも長大さを増してゆきます。
発達の度合いと速度を増していく科学を前に個人の力はあまりにも小さく、どれか一つの専門を定めて最先端に向かおうとするのですが、そこまでたどり着けるのは極僅かでしかありません。立ち止まる多くの人々は中間を形成し、その彼らが結びついて難解な技術の通訳や紹介や転用や流用が計られて多様な結合が繰り広げられます。科学の世界では哲学の分野で稀に現れる圧倒的天才による飛躍よりも、彼らのような聡明な人々による着実な進展が好まれます。ただ、こうした中間も不動の位置を保っているわけではなく、この層もまた科学技術の進展に従って上部へと移従してゆかざるを得ません。
よって、上層でも中間でもない下層の部分において、人事の及ばない力点が分断を引き起こすように思われます。
日々止むことなく進展する科学技術と、日々新たに産まれる無知な新生児との関係によって、子弟の教育がどれほど大切かは明らかです。実際、日本の義務教育課程は極めてよく作られていて、20~30年前までならばこれを修了すればその当時の科学技術に十分ついて行けて、暮らしに困らず余暇も得られる立派な中間層になれました。しかし、あまりに早い進歩はこの水準さえをも時代遅れのものとして、もはやそれだけではこの社会に身の置き所がありません。かつては際だった学力の持ち主が通った高等学校、大変な才能の持ち主が狭き門をくぐり抜けて励んだ大学の高度な学位が当たり前の持ち物として要求されます。それどころか、いまや自ら積み上げた科学技術に人類自身がついていくために、積み上げてきた以上の費用が伴いはじめたということで、その費用を賄わないような分野の人文系の学部や程度の低い研究が切り捨てられているようなら、大学課程の水準でさえとうに足らないのでしょう。いつしか大卒は代表的な就業資格のひとつと解されて、それだけの人間では取り替えのきく部品でしかなくなっています。
おそらく、過去25年間のかなり早い段階で人間と科学技術との関係が大きく転換したのだと感じます。もはやこれから生まれてくる人間のすべてに現在、そして次世代の科学技術を理解・発明するようには求められず、それは専門家か少数の精鋭に頼んで、圧倒的多数の人々にはただただその成果を使用、操作または消費できる程度の能力が備わればよいという方針に切り替わったのでしょう。コンピューターにOSが標準化されて事務作業の能率がどれほど高まったか。猛烈な速度で進化した携帯電話の契約数は固定電話を上回り、あっと言う間にその多彩な機能に支えられた生活に塗り代えられました。科学技術緩やかな頃は人手に委ねられていた仕事が、徐々に半自動化され小型化され、時と場所を選ばない携帯可能なものとなりました。人は主にその機械や機能の操作技術を覚えればよく、動かし方なら幼児でも持つようになった携帯電話やスマートフォンによって知らず知らず訓練されます。そして生まれる前からこうした装置がある新しい子たちは非常に手慣れた操作技術を身につけても、自動化の元になった手動操作の段階で凝らされた工夫には気づかず、探し出そうとも聞こうともしません。それはその子らにとっての切り身と魚のようなもので、きっかけがなければ前段階があるとは思いもしないし、知ったとしても関係のないものなのです。直線型の社会にいる者がかつて踏みならされた道を逆行してまで探求するには、よほど強い経験と熱意を自らに得なければなりません。さもなければ、誉められもせず認められないような行為など誰もしたがらないのが当たり前です。
第一、小さな頃から科学技術の成果を操作する技術を訓練させられている子にはそのような暇などないのです。わたしたちの時代でさえ、通学中には単語帳などを用いて寸暇を費やした勉強をしたものですが、いまどきの子はそれどころではありません。携帯電話の中には無数のアプリがあり、友人知り合いからの連絡は分単位かそれ未満で、即時返信しなければ関係が悪化しかねないとも聞きます。ゲームアプリ事業は矢継ぎ早に新しい催しや商品を提供し、周囲との共通の話題を維持していく為の消費が要求されます。わたしたちの時代にこうした新しい負荷が加わったなら一日を過ごすのに一日ではまず足らないでしょう。そこで選択をすると共に、不足を補うための効率的合理的な思考を身につけなくてはなりません。
実際、彼らはとことんまで切り詰めたほどの高効率合理主義者で、頷くことで肯定を示したのなら「はい」と声に出すまでもない、とさえ考えているような節があります。文字通信やマンガ、ゲームが人付き合いの身近な習慣と見本になっている彼らにとっては、文字による意志疎通が身近で、音声を介しての交流は逆に縁遠いのかもしれません。耳にする会話は、口下手な者がよくする主語を省いたような会話が横行しています。交友関係を作った媒体に関する一定水準の知識で補完しているのでしょうが、知識不足だとその輪の中に入れないか、別の輪を探し出さなくてはなりません。こうなると、それは余暇を潰すものではなく孤立しないための投資なのであって、娯楽とはかけ離れた切実なものを感じさせます。片時とも手元から離せない携帯電話が友人知り合い関係を強力に縛りつけて、もはや独りの時間は一日を過ごすため真っ先に削減される睡眠時間くらいで、物事をじっくりと考えるような習慣は廃れています。自分がいま行っている操作がかつてどのように行われていたかなど、念頭には浮かびません。
まして、彼らの親世代の頃にはもう正体不明の科学技術の成果が多くあり、幼心ながらその仕組みを聞いたとしても霧が晴れるような明確な事実で説明を受けたこともなければ、幼児の段階ではその能力もありませんでした。「なんで?」「どうして?」と聞いても親の方では説明のしようがないので「なんでも」「どうしても」というような言葉で誤魔化され続け、この繰り返しによって聞いても無駄、という失望を何重にも重ねられて、他人に問いかける意義も希薄で、直線型社会の勢いに流されるようになります。そして、そんな彼らの間で一目で分かる優劣とは、なんの役に立つのかも分からないまま記憶作業の一環として覚えた教科内容を紙上に写し代えて得た試験結果か、機械装置の操作技術で得た得点や稀少なカードくらいのものです。頷いたなら返事をするまでもない、という彼らの世代で培われた志向は学校でも現れて、計算なんて電卓を使えばいい、書籍辞書なんかより電子辞書の方が楽、歴史なんて何の役にも立たない、ノートに書き写すのは面倒だから写真を撮ればいいという主張をし、それを禁じる教職員には「なんで?」と問います。ですが、返ってくる答えはおおむね「それが当たり前だ」というもので、納得はできないでしょう。それらの決まりは彼らが生まれる以前に、いわば勝手に作られたもので、「覚えていれば便利だから」と言われても、既にもっと便利なものを手にしている彼らは貴重な時間を空費するような非行率・非合理の強制を感じて教職員を尊敬できず、やはり質問らしい質問をしません。持っていれば就業資格として有利と認識している大卒を得る第一歩として、大学入試に合格する技術を教え込むのに特化した進学塾での勉強に傾倒し、多様な経験と出会って認識を新たにし、自分の才能に気づくはずの学校は学生生徒同士の交流の場のような有様で、自分の才能に気づいて努力したとしてもその先の大学では志望の学部や研究が、利益を産まず費用も賄わない、という無理のない理由で切り捨てられるのでは、機能不全に陥るのもまた当然でしょう。
彼らは、ある機能範囲の中でしか動かない機械装置の扱いに長け、異なる機構であっても、それまでの訓練を活かして短い間にコツを掴むでしょう。それは若いと飲み込みが早いというのと、知らず知らず身につけていた特技によるものです。機械装置の多くはかつて人間自らの手で行われていた動作を模倣したもので、熟練された動き一つ一つに含まれる意味を知らなくても同じような結果を得られるようになっています。それはつまり、新たに生まれる子がもはや追いつけないほど進展した直線型社会に追いつき、次へと牽引するために、0からではなく途中から開始できるように仕組まれているのでしょう。ただしその反面、分断はここからひどく顕著になってゆきます。0からいくつかまでの領域が自動化されると、かつて手動の頃に凝らされた工夫や発見を追体験できなくなり、重要な基礎理論や定理は解説されても、それを実際に役立てる機会に恵まれず、やがて不要なものとして半ば忘れられてしまい、学ぼうとしても利益はおろか費用を賄わない無益で酔狂な趣味や娯楽に数えられてしまいます。一人一人の認識と志向は酷似したものとなり、無気力に流される精神に独自の思考は育たず、創意は消え失せてなくなり、工夫は知られず、発見とも縁がありません。個性も才能もいらない出来合いの機械装置を操作するぐらいしか能のない、目前のことに何の疑問も抱かない人間の出来上がりです。
かつての循環型かその頃の習慣を根強く残す初期の直線型社会なら、生産者であり消費者でもある大衆がそのように愚かであれば都合はよいでしょう。直線が伸びると共に彼らも徐々に学び、より多く広く学べばその社会に必要とされます。しかし、科学技術が高度に進展し、従来あり得ないほどの人口を維持できるようになり、このままの勢いで自動化が進んで、人手を省いていくならどうなるでしょうか。無知で、そして社会に不要な人間が多くなりはしないでしょうか。しょせん装置を操作して生産に携わる人間は少数でよく、科学技術の中核に入れる専門家や精鋭になれるのはさらに少ないのです。自動化に向かない創造的な分野こそ個性と才能が不可欠で、誰にでも備わるものではありませんし、そのような分野は無益という理由で削減の対象となっています。人々の多くは社会に何ら資するところなく、寄る辺もありません。いま西アジアから北アフリカ、欧州を騒がす方々もこのような苦悩につけ込まれたのではないでしょうか。彼らはよく言われるような無知で愚かだったのかもしれません。でも、そのように育んだのは何だったでしょう。無知を晴らしてくれるのも、愚かさを正そうとしてくれるのも、そしてついに自分を必要としてくれたのが社会ではなく、そうした組織だったというだけのことではないでしょうか。
また、社会の成員一人一人が生産と消費を兼ねることで科学技術の進展と共に発展していた経済の均衡が崩れ、少数の生産者と多数の消費者という関係になります。この過渡期では消費者の購買力は糧を得るにも不足するほど低下しますが、それでは経済破綻の危機と科学技術の停滞が避けられません。おそらく、雇用ではなく消費を維持する意義での給付が始まるでしょう。受給者は、機械装置の操作法を覚えて生産者となるようには期待されていない、直線型社会から脱落した存在と見なされ、いわば消費を生業とする奇怪な、そして貯蓄も許されないような格別に弱々しい身分に陥るように思われます。これではまるで消費者を消費する経済です。その雛形は欧州に流入する難民に見いだせます。難民救済という美談めいた動機であれば、自国民への給付より支出は容易、表沙汰にしにくいお金を紛れ込ませても追求はされにくいでしょう。難民を用いた資金洗浄を経て、やがて同様の制度が自国民に適用されると、もはや分断は決定的です。
循環型の社会であれば世代を別にする数人が寄り集まったとしても、変化乏しい生活様式のどこかしらで共通する物事や歳時が分断を防いでいました。しかし、生まれる前からインターネットがある世代から、生まれたときには電卓さえなかった世代までが混在する現代では、それぞれに育った社会環境に数え切れないほど多くの差異があり、それが習慣や思考、経験の認知能力に反映されて気軽な世間話さえ難しくしています。いま、高齢の人が川魚を素手で捕まえて食べた思い出話をしたとしても、小さな子供が頭に思い浮かべられる川は鮎の泳ぐ清流ではなく、土手や橋の上から見下ろす大きくて深そうな、きれいとも言えない河川で、そもそもその魚は今すぐでも食卓に並べられるような切り身姿なのです。拾い食いの話とも受け取られかねません。こうした不一致ならば問題視するまでもありません。勘違いや聞違いに類するこの手の出来事は同世代の間でも頻発していて、笑い話として供される愉快な日常の一コマです。
直線型の社会において、緩やかな進歩と歩調を合わせたように育った世代と、非常な進歩をした後に生まれる世代との経験の不一致は、決して理解し合えない分断という関係と化します。
そして、分断のもっとも恐ろしい事態は、自動化された装置を動かす原動力が消費に次ぐ消費によって失われたり、限りが見えて選択しなくてはならなくなった場合です。そのとき、わたしたちは既に自動化していた動作を手動化し直さなくてはなりません。ですが、そのときの人々はとうに愚かで、身につけているのは機械装置の操作法どころか消費行為ばかりで、なんの仕組みも知りません。魚どころか火の熾し方も知らないのにそれまで馴染んでいた魚料理を作らなくてはならないようなものです。世代間の分断と、仕組みを解する少数の専門家と精鋭と圧倒的多数の操作法もよく知らない大衆の間の分断が加わった中で、手動化を成し遂げなくてはならないのです。縦横に分断された結束にできるものではありません。
2 劣化について
一年ほど前、ある植物工場フォーラムで話を聞いたことがあります。聴衆の投資家のような方に向けて、この事業は利益を出せる有望なものですと強く訴えていたように覚えています。投資には疎い門外漢ですが、話の半ばまで聞かない内に、
「ああ、これは経営が成り立たない」
という確信を得たのですから、投資家の人たちはよっぽど強く思ったのではないでしょうか。
実際、そのフォーラムを主導していた大手企業は数ヶ月後に民事再生法を申請してしまいました。植物工場で主流の葉物野菜に留まらず、穀物生産の実験途中だったそうですが、それが完成したところで、経営が成り立つかどうかはやはり疑わしくあります。
フォーラムには某大手家電企業も参加していて、水耕栽培装置を内蔵した家具を発表していました。ここに、植物工場が事業として成り立ちそうもない素因があるように思えます。
水耕栽培で作れる作物はどれも再現性が高すぎるのです。工場で作っても家庭で作っても大きな違いはありません。すると法人税、消費税、人件費、施設建設費、維持費、運送費等の回収に加えて利益分が販売価格に転嫁される工場製品を選ぶ理由とはどんなものでしょうか。また、家庭内に栽培装置が常備されなくとも、工業製品は大量生産が前提ですから、工場作物の価値は下落の傾向が宿されています。こうした場合に事業を継続させる方法は、二〇世紀初頭の自動車や、現在の飛行機のように当初一部のお金持ちしか手に入らないものを多数の人にも手が届くようにして、さらに多くの利益を得ようとする裾野広げですが、元から安価な必需品なら効果は望めません。
常に自然の影響に曝される露地栽培は好適環境で年1、2回しか行われず、天候次第で質も量も変わりやすく、整った形状にこだわる消費者の要求、行政組織の補助、生産調整、余剰分の廃棄も許されて、その価値は一定の保証が授けられています。一方、一月で収穫できる品種もある工場作物の質は生育状況の他ほとんど変わらず、量の面では他の工場製品、加工品と同様に作れば作るほど、生産性を上げれば上げるほど価値を下落させてしまいます。価値を保証してくれるものはほぼなく、栽培できる品種も少ないため、競争しづらいのに競合が起こりやすく、費用の回収さえ難しく思われます。
価格とは元来<作るのにこれだけかかりましたから、これだけいただきます>という文脈で費用を、<さらに今後とも作り続けるためにこれほどいただきます>という文脈で利益を得ようとする意思表示に他なりません。しかし、上記のような有様では、植物工場は工場建設の膨大な初期投資や生産費用の回収で精一杯、事業運営は補助金に頼らざるを得ません。そして、補助金を当てにした経営は健全とは呼べません。
そこで、下落する価格に歯止めをかける付加価値に焦点が当てられます。有名なのは低カリウムレタスで、腎臓を患う方向けに作られたのだそうです。他にも薬用向けの甘草の苗生産・露地栽培技術確立が発表されたように、植物工場は特殊な高機能食品や多様な加工用途を持つ原材料の生産を主として運営されていくように感じられます。
よって、タンパク質を含む穀物類の工場生産ができるようになって乾燥地、礫地、極地の国でも穀物を得られるとしても飢餓の根絶には繋がらず、利益も微々たるものでしょう。むしろその不健全な事業を継続させるために投入される補助金が諸物価を引き上げかねません。穀物需給の均衡への刺激は、現在の経済構造にとって大きな脅威に思われます。思うに穀物類の工場生産は技術面ではとうに実現可能なのでしょうが、影響の及ぶ分野を合わせて考えると、今はまだやらない方がよいと判断されて先送りになっているのではないでしょうか。すると、その時が来るまで増産される工場穀物は牛豚鳥用と思われます。恐らく、バイオ・ゲノムテクノロジーで生み出された高機能飼料であり、工場は異質なそれを自然界へ漏出させないような仕組みになるでしょう。そしてその技術の蓄積と消費者の馴化を待って人間用への転化が図られるように思われます。
自然物は人が手を入れなくとも育ちます。実らせるだけなら種をまいて土をかぶせるだけでもよいのです。けれども、より大きくより多くを、そして安定して得ようと思えば間引き、除草殺虫、施肥といった世話が必要になります。植物工場ではそれらのほとんどが省力化されています。半導体工場を再利用する植物工場は微生物さえ除去された無菌室ですし、水耕栽培用の合成肥料は機械装置によって常時循環されています。人力が用いられるとしたら品質検査と採取ぐらいで、いずれはそれも自動化され得ます。工業製品なら人の手や経験に頼まなくてはならない職人技と呼ばれるような個人技が今も残るでしょうが、植物工場ではそんなものはありません。技術や技能は専門家や精鋭の手による新たな機能性品種の研究、生産性向上の機械装置開発の段階ですでに出尽くされて、大多数の人は自動化しない方が安上がりという理由で残される細々とした雑務をこなすしかないでしょう。
こうした内実の社会は様々な時空で見られてきました。ほとんどの文明が疲弊し劣化するとこのような様相に陥り、その悪循環から抜け出す術はほぼないと言っていいでしょう。人々の多くは自由から遠く離れた隷属状態に留まり、専門家と精鋭を兼ねた権威者が最善を積み重ねながらも儚く滅んだ近世までの時代と酷似しています。
理性の礼賛、そして科学技術が謳った自由とは、このような劣化した循環との対比でした。循環型から直線型へと社会原理を転換すれば人々は苦悩から解放され、より人間らしく生きられると言われ続け今に至ります。しかし、循環型社会には持病であったそれが直線型社会にも及んできたようです。元来が循環状だったそれを直線へと圧延し続けてきた力がもはや限界に近いのでしょう。理論だけはほぼ無制限の発達があるのかもしれませんが、実現できないのであれば机上の空論にすぎません。科学技術とは、人間の理性によって見出された自然の法則を制約している障害を除いた空間で再現することにより、それまで以上の効果を得るものですが、ある水準を越えると実現には手間と費用がかかりすぎる上に利益率も高くないという頭打ちの状態になります。ところが、人間はもう自己の生存と発達を満たすためこれまで以上の収益が欠かせなくなりました。自然格の人間はもとより、法人格を有する国家や企業といった事業体が特にそうなのです。それでいて理性の発達は進展し、新たに生まれる子にとってそこは0地点であり、片時も休まらず費用を求めます。これもまた疲弊と劣化による悪循環の形でしょう。
直線型社会とって初となる症状は、過去どのような文明が陥ったものより遙かに広範で深刻なものとなります。循環型社会はその形象のように一定の地域で閉じられるのが常であり、別の循環社会との接触は交易や外交などのひどく限られたものでした。一つの社会の崩壊が別の社会の崩壊に直結するような事態は珍しかったのです。ところが、直線型社会はやはりその形象のように果てしなく延伸する傾向があります。それは蓄積や発達という上下方向だけでなく、さらなる発展を遂げようと別の協力者を求める左右の方向、まったく同じ分野内での競争という前後の方向が一体となっており、それらの三つの軸は人間であれば等しく備わっている理性を素地にして描かれているので、この素地の上に築かれる限りは理性そのものが招く悪影響が共有されることになります。すでに一国の問題が一国で済まされないほどに緊密に繋がり合う現代社会の有様が示唆している危機の源泉は、社会の内実や国体、政治体制の対立でもなければ世界中を結んでいる経済ですらなく、それらすべてを生み出した人間の理性そのものとしか思われません。
近世までの権威者は、その専門家と精鋭が独占利用していた哲学が、理性を有する生物であれば同じ認識を共有できる科学に代わられたことで淘汰され、新たな流れを作り出しました。これと同じ公式を適用するには、人々が共通する認識を会得できる特性に加えて簡便に利用できる理性に代わる発明が欠かせません。人間が新たにそれを見出すにはまだまだ長い時間がかかるでしょう。
人文系と理数系、系を異にする二つの学問の役割を思い起こさなくてはなりません。宗教や哲学の人文系は広がれば広がるほど深まれば深まるほど主観による個人差を引き起こしやすくなりますが、あらゆる思想の素朴な様相は公正と倫理と社会正義を唱えているにすぎません。それは循環型社会では人々を温かく包み込もうとするものでした。人間の理性に基づく理数は人々を包み込む枠内を埋めるものでした。産業革命を境に、神や英知、正義の名で呼ばれた外枠は膨張する内実に打ち破られ、果てしのない直線型社会を形作ったのです。
新たな外枠に包み込まれて憩うのか、果てのない線の途上で力尽き休むのか、それは分かりません。もはや人類が夢を見ていられた時代は過ぎ去り、分断と劣化という崩壊の兆しがあちこちから感じられるだけです。分断と劣化の二つを癒せるなら良いのですが、できなければどちらか一つを選ばなくてはなりません。その二つが同時に蔓延する社会はあまりにも恐ろしいのです。