父はいますよ
「お父さんはいらっしゃる?」
そう尋ねられるのが一番困る。
「いますよ」
いつもそう答えることにしてはいる。
「そう? あまりお姿を見ないものだから……」
人は決まってそう言う。
これにも、決まった返しがある。
「うちの父、影が薄いので」
「薄い」というのはちょっと控え目な表現で、本当言えば影が「無い」。
太陽光も蛍光灯の光もすべて父を通過するため、父に影はできないのだ。
だけど、父がいないかと問われれば、答えはやっぱり「いますよ」になる。生物学的に父が存在しないということはありえないし、物理的にも観念的にも文学的にも、たぶん量子力学的にも父はちゃんと存在している。
見えない、だけで。
「お父さーん?」
開いた玄関ドアを体で押さえて戸口に立ったまま家の中に向かって大声で叫ぶと、「何だーい?」と返事があった。声の方向からすると、たぶん書斎にいるのだろう。
家の中を親指で指し示して「ほらね」という顔をすると、目の前のおばさんはようやく納得の表情を見せた。近所に住むうわさ好きの杉山さんは決して嫌な人ではないけど、ちょいちょい詮索してくるのが鬱陶しいと言えば鬱陶しい。
「あの……できれば、町内会の集会に出て欲しくって。これ、渡しておいてもらえるかしら? できるだけ頭数を揃えたいから、ご夫婦でって。休日だから、よかったら志麻ちゃんも来てね」
「わかりました」
A4の紙ペラを受け取ってざっと目を通し、にっこりと笑って見せる。
「両親に伝えます」
「よろしくね」
用事は終わったはずなのに、去り難いオーラを放って家の中をしきりに気にしてくる杉山さん。その視界を丁重に玄関ドアで遮って家に入った。紙をひらひらさせながらドアに鍵を掛け、廊下を進んで正面の書斎のドアをノックした。
「お父さん?」
「はいはい」
「入っていい? いま服着てる?」
たとえ父がフルチンでも、どうせ見えやしないので服の有無は正直どうでもいいんだけど。服を着ていたほうがどこにいるかわかりやすいというくらいのものだ。父が鼻くそをほじってようが口を開けて寝ていようが、何なら口に出せないようなことをしていようが支障はない。ただ、マナー的な配慮から書斎に入るときには一応ノックすることにしていた。
「どうぞどうぞ」
一応の返答を受けて部屋に入ると、どうやら父はフルチンだった。
「どこー?」
「ここ」
コーヒーカップが空中でゆらゆらしていたので、受け取ったばかりの紙をコーヒーカップに向かって差し出す。
「三丁目の杉山さんが、ご夫婦で参加してくださいって」
「なんだ、これ」
「ほら、杉山さんちの裏手くらいの場所に墓地ができるとかで。今町内会で反対運動してんの」
「ああ」
「で、反対集会の頭数にって」
「頭数、ねぇ」
透け透けの奴をつかまえて頭数も何もないだろう、という話だ。
コーヒーカップが傾き、ズズッと音がした。食道を通っている辺りまでは見えるのだけど、胃らしきところに到達して少しすると見えなくなる。食べ物の場合にはもう少し時間がかかるけど、その辺の詳細を描写するとなかなかグロいので省こうと思う。
「で、お父さんどうすんの?」
「どうって……頭数を揃えたい集会に父さんが参加して意味あるのか」
「文字通りの旗振り役とかを引き受ければ意味あるんじゃない? まぁ、ほかの頭数たちが二、三失神して役に立たなくなる可能性はあるけど」
肩をすくめると、父がクスクスと笑う気配があった。墓地建設の反対集会で旗がひとりでに動き出したら、「祟り」だとかで話題になって、墓地の建設は見送られるかもしれない。
「志麻のファンデーションでも借りて行くか」
「貸すのはいいけど、汗かいたら終わりだよ」
「そうだよな」
「無理に行かなくていいんじゃない。墓地ができたってうちには全然関係ないんだし」
「でも、ご近所の付き合いは大切にしないといけないからな」
「杉山さんのことなら、夜道で背後から声かけるくらいの付き合いがちょうどいいと思うよ」
「ははは」
相変わらず、父の声は渋くてなかなかいい。特に笑い声が好きだ。最近は生まれ持った美声と歌の才能を生かしたユーチューブチャンネルを開設し、それなりの閲覧数を誇っている。
空っぽになったコーヒーカップに向かって手を伸ばし、「キッチンに置いといてあげるよ」というと、父は「ありがとう」と答えた。
「集会のことは、少し考えてみるよ。父さんはともかくとして、母さんが白い目で見られるのはよくないから」
「お父さんを白い目では見れないからね」
「あらゆる意味でね」
開きっぱなしだったノートパソコンがひとりでにパタンと閉じた。傍目に「ひとりでに」に見えるだけで、本当は父が閉じただけだけど。
「夫婦仲が悪いと思われるのも癪だし」
「たしかにね」
結婚して二十年近く経つというのに両親の仲はすこぶるよく、今でもときどき家の中でイチャイチャしている。娘として微妙な気持ちにならなくもないけど、母のイチャイチャの相手が見えないおかげで目に毒というほどではない。
真っ裸の父を残して書斎を出、キッチンにコーヒーカップを置きに行く。
シンクには思ったよりもたくさん食器がたまっていたから、ついでに全部洗うことにした。
母がフルタイムで働いているため、家事はゆるやかな分担制だ。トイレ風呂の掃除は父、ゴミ出しは私、洗濯は父、干すのは私、料理は父、買い物は私、皿洗いはテキトーに。すでにお気付きかと思うが、家の外に出る必要のあるものは基本的に私の担当だ。洗濯物が宙に浮いてひとりでに吊るされるところや、ネギの飛び出したスーパーのビニール袋が空中をさまようところを見たい人はそう多くないだろうから、そういう役割は父ではなく私が担う。
斯く言う私も、実はそれほどノーマルなわけではないけど。
なぜって、父の娘だからだ。
スポンジを泡立てて皿を洗っていると、手に塗ったファンデーションが落ちて段々と手が透けてくる。
洗い終わる頃には、もうすっかり普段の手になってしまった。
いや、普段の手、という表現が正しいのかはわからない。
ファンデーションを塗って過ごす時間の方が長いので、どっちが普段の姿かと問われると微妙なところだ。だからまぁ、「生まれっぱなしの姿」とでも言っておこうか。生み落とされて数秒後に助産師さんを気絶させた逸話を持つ、私の真の姿。持って回った言い方をしたけど、平たく言えば「半透明」。透明人間の父と不透明人間の母を持つ、立派な半透明人間である。
「志麻」
「わっ」
突然後ろから声を掛けられて思わず飛び上がった。
「ははは」
いい声で笑った父は、普段からこうして真っ裸で家をウロウロしている。誰にも視覚的に迷惑はかけないから別にいいんだけど、ときどき気付かずにぶつかってしまう。一度など、階段でぶつかった拍子に私の膝が父の急所に入ってしまい、悶絶する透明人間に階段を塞がれて非常に難儀したこともある。
「お父さん、忍び寄るのやめてよ」
「あれ、たしかついさっき、杉山さんとの付き合い方について志麻からアドバイスをもらったところだった気がしたけどな」
「何も家族にその技使わなくてもいいでしょうに。水音のせいで全然足音聞こえなかったし」
「忍び足は父さんの特技だからね」
「ほんとそうだよね。その辺はおじいちゃんの才能を受け継いだのかな」
透明なのは父だけではない。父の一族はみな透明である。それぞれ透け感を生かした仕事について、それなりに成功している。父の父、つまり祖父は姿なき諜報員として世界を股にかけた大活躍をして巨万の富を築き、四人いる父の兄弟姉妹たちも毎日忙しく働いている。ホテルのロビーで自動演奏と見せかけてピアノを弾いているのが一番上の姉で、その下の兄はポンコツ手品師と組んで種と仕掛けのありまくる舞台に立っている。もちろん、伯母はスッポンポン、伯父はフルチンで。二男である父はすでに説明したとおりユーチューバ―として小銭を稼ぎ、母のヒモと化すのをすんでのところでこらえている。父のすぐ下の叔父はどこかの国の特殊部隊にいるらしく、ほとんど連絡をとっていない。一番下の叔母は超有名な某お化け屋敷にて客の後をヒタヒタと歩き回るだけの簡単なお仕事をしている。
私が生まれる前にすでに亡くなっていた祖母のことはよく知らないけど、父が純粋な透明人間であるところからすれば、おそらく祖母も透明人間だったのだろう。つまり、父の一族以外にも透明人間はいるのだ。見えないから数えられないし、全容の把握はなかなか難しそうだけど。
「ちなみに、父さんはこの特技のおかげで今日面白いものを見たよ」
洗い終わった食器を拭く作業を手伝いながら、父が言った。
皿と布巾がふわふわしている光景はすでに見慣れている。
「面白いもの?」
拭き終ったお皿を父から受け取って食器棚にしまう。
「ちょっと散歩にでかけたら、学校帰りの志麻がね」
「げっ」
声を上げて、見えもしない父を振り返る。
「一緒にいた男の子は誰かな?」
生まれてこの方父の表情を見たことはないので想像すらつかないけど、たぶん普通の人間で言うところのブラックスマイルを浮かべているに違いなかった。
「ああ……ええと……彼氏」
「ふぅん、彼氏ができたってのは聞いてなかったな」
色々と普通じゃない部分はあれど、娘の彼氏に対して多少「面白くない」という感情を抱くあたりは、この人も普通の父であるらしい。
「あの……お父さん?」
「何だい」
「その……どこから、どこまでを……」
「二人でプリクラを撮って、手をつないで歩いて、人目を盗んでキ……」
「うわぁぁぁぁぁぁあああああっ!」
最悪、最悪だ。
父がいるであろう場所に向かってバシバシと手を振ると、肩らしき部分にぶつかった感触があった。
「いて」
「ちょっとお父さん! そんなところ見ないでよ!」
「見ようと思ったわけじゃないよ。ちょうど前に志麻とその彼がいただけで。本当はこっそり志麻だけに声をかけようと思ったんだけど、志麻はすっかり隣の彼に夢中って感じで全然……」
「うわぁぁぁぁぁあああああっ」
すでに説明したか、まだだったか。混乱のあまり分からなくなったが、私はこれでもうら若き乙女である。花の女子高生。半透明ではあるものの、全身に塗ったくったファンデーションと染髪によりまぁまぁ普通の生活を送れている。周囲には「色素欠乏症」と説明していて、ファンデーションが多少落ちても不審な目を向けられることはほとんどない。
「今度家に連れておいでよ」
「えっ?」
パリン、手から滑り落ちたお皿が割れた。
「あ、お父さん、動かないで」
体液まで透明である父が怪我をすると相当厄介だ。
手当をしようにも傷口も血も見えず、かといって病院にかつぎこもうものなら、私が隔離病棟にかつぎこまれる羽目になるのは目に見えている。
床に落ちたお皿を拾って片付け、細かな破片を慎重に取り除く。
「いたっ」
小さな破片が悪さをして、指の先っちょにほんの小さな傷がついた。
すりガラスみたいな半透明の肌に、薄い桃色の血がにじむ。
「志麻、大丈夫か」
「全然大丈夫。お父さんももう動いていいよ」
絆創膏を貼るほどですらなかったから、指はそのままにしておいた。
「さっきの話だけどね」
父はまだ、忘れていなかったらしい。
「家に連れておいでよ。お父さんも志麻の彼氏と話してみたいし」
「いやいやいやいや」
「嫌なの?」
「当たり前でしょ? 彼氏を気の毒なハートアタックの犠牲者にはしたくないよ」
「杉山さんはいいのに?」
「あれは単なる冗談で。杉山さんにそんな大層な恨みはないよ。大体、町内会の集会にも行けないお父さんをどうやって彼氏に会わせるの?」
「さっき、いいことを思いついたんだ。町内会には行けないけど彼氏には会えるよ」
「いいこと……?」
嫌な予感しかしない。
「内緒。でも、保証するよ。絶対大丈夫だから、再来週の土曜日に連れておいで」
「……再来週の土曜?」
随分具体的だな、とは思ったけど。
私だって、「父に彼氏を会わせる」というシュチュエーションに対する人並みの憧れはあったものだから、ついつい逆らえなかった。
幸い彼氏も予定が空いていると言うので、父の指定した日に彼を連れて家に行った。
私たちを出迎えた父の第一声は、やはりイイ声だった。
「Trick or treat!」
スパイダーマンの全身タイツに身を包んだ父らしき人型が、玄関口で嬉しそうに手を差し出した。
彼氏は死ぬほど驚いたに違いないけど、手土産に持参していた菓子折りをそっと父の手に握らせてくれていた。
Happy Halloween。
透けてる人も、透けない人も。
実はその日、私の初めての彼氏を一目見ようと馳せ参じた父の一族が皆素っ裸で家に潜んでいたことを知るのは、もう少し後のこと。すっかり父と意気投合した彼が「面白いお父さんだね!」というコメントを残して去って行った直後だった。
半透明なわたしの受難の日々は、まだ始まったばかりである。
ハロウィン小話をね、書こうと思ったんですよ……