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6 ベルタ

 厄介な相手が死んだ、と、イングランドに暮らす暗黒街に寄り添う人々は誰もがそう思っただろう。その底辺にいる者たち――娼婦や、末端の麻薬の売人など――はアーサー・ノリスの死が自分たちの生活にも影を落とすことになるだろうとは思いもしまい。

 人とは時として、利己的で、自分の周りしか見えないものだ。

 それは賢い者も、愚かな者も変わりはしない。

 誰もが広く周囲のことなど見渡してはいないものなのである。

 オフィスのデスクに頬杖をついてボブ・アディントンは考え込んだ。

「アーサー・ノリス、か」

 つくづく厄介だ。

 へたに動けばロンドン警視庁スコットランド・ヤードに目をつけられる。もちろんやましいところはなかったから、普通に振る舞えば良いだけなのだが、ともすれば彼が十代の頃から面倒を見てきた才能溢れる青年の将来を潰すことになりかねない。それをアディントンは危惧していた。

 自分が善人と呼べる人間ではないことをアディントンにはわかっている。けれども、彼はそうした人生を選び取って、歩いてきたのだ。

「良い歳をしてやんちゃしすぎるものじゃない」

 さてどうしたものだろう。

 ごく自然に内務省の心理学者と接触すべきだろうか? 当然疑われるだろう。アディントン自身も。そして、内務省の警察権力に深く関係を持つ若手である故に、その信頼はまだ薄弱だ。アルフォンス・メイスフィールド博士にとってアディントンとの現在の関係は致命傷になるだろう。

「あなたが入れ込んでる坊やがいるって話は聞こえていてよ。でも、あなた同性愛の傾向だか、両性愛の傾向なんてあったかしら?」

 黒髪の、黒い瞳が印象的なスペイン系の美女は華やかな顔立ちの中にいたずらっぽい微笑をたたえてから唇をつり上げた。

「ゲスの勘ぐりだな、ベルタ」

 彼女はベルタ。

 ベルタと名乗っているが、それが女の本名かどうかは怪しいものがあった。おそらく本名ではないだろうというのがボブ・アディントンの推測だが、彼女の生きる世界では本名など大した意味がないことをアディントンは知っているから、今さら追及もしない。

「あらあら、わたし、あなたのことを心配しているのよ。どこの馬の骨ともわからない少し頭が良いだけの坊やなんて、イングランド全土……、いえ、ヨーロッパ中……――。世界中にはあの子程度の”器量持ち”なんて腐るほどいるわよ? そんなことをわかっているはずのあなたが、そんなに執着するなんて理解できないわね」

 どこの馬の骨、とベルタは言ったが明白な出自があっても彼女のように後ろ暗い生活を送っていれば似たようなものではないか。

「でも、そうね。それなりの報酬があるなら、動きがとれないあなたのために、動いてあげてもいいわよ? セニョール?」

 クスクスと笑っているのが迫力ある華やかな美女だからタチが悪い。

「君には充分見返りを受けるに相応しい助力をしていると思うが? それについてはどうだね?」

「……――あらあら、わたしを脅迫? たかが法律家風情が」

 肩を大きく露出させたドレスを身につけたベルタは冷ややかに見えるほど大胆な笑みをたたえてから、アディントンのデスクにゆったりと歩み寄ると乗り上げるようにして腰掛ける。

「足癖が悪いな」

「イギリス人は大胆な女は嫌いなのかしら? てっきりむっつりスケベだと思っていたけど」

 クスクスと笑う彼女はアディントンの手元のファイルに視線を走らせる。

「せっかちな男は嫌われるわ」

「……ベルタ」

 憮然としてボブ・アディントンが声を押し殺すと、ベルタは高い笑い声をあげてから豊かな胸の前で白い両腕を組み合わせてから、足をくみ上げる。

「仕方ないわね、まぁ、あなたには散々助けてもらっていることだし、いいでしょう」

「妙な女だ」

 彼女は娼婦だ。

 ただし、貴族出身の。

 あばずれの売女(ばいた)――。そう言えば手っ取り早いかも知れない。いわゆる知識階層だがその人脈は驚くべきものだ。

「”わたくし”、貴族なんてクソでも食らえって思っているけれど、人間って生まれてくる親と家系は選べないものなのよねぇ……」

 その家系故にやさぐれて、非行に走った子供たちの末路。

 言いながらひらりと携帯電話のストラップを指先で振ってから、彼女はハイヒールを鳴らしてボブ・アディントンのオフィスを出て行った。

「全く、ラテン女は品がない」

 自分が全くの手詰まりな状況に置かれていることを自覚して、アディントンは舌打ちした。

 ラテンの小娘に法律家風情などと揶揄される謂われは全くない。

 ぎらりと瞳に光をまたたかせて、アディントンは電話の受話器を上げた。



  *

「……ご存じ? ”あの悪党の”アーサー・ノリスが死んだんですってよ」

 女は盗聴の危険を知ってか知らずか、特別な感慨も感じさせずに携帯電話に向かって言葉を綴った。

「あら、てっきりイギリスの子分のあなたたちは関心があると勝手に思っていたけれど」

 意地の悪い物言いをしたベルタはちらりと周囲に視線を走らせながら、意味深長な微笑を浮かべて見せた。

「エシュロン? ご存じよ? だったらなんだっておっしゃるの? 連中はわたくしを拘束するなんてことはできはしないし、せいぜいどこぞの国の最高機密機関がそれこそかつての”夜と霧”のようにただ消し去るだけのこと」

 自分自身に対する不穏な気配すら彼女には大した重要な問題ではないとでも言うように突き放すと、電話をつないだままで首をすくめた。

「アーサー・ノリスと繋がっていた悪党は数え切れないわ。あなたたちが追いかけている連中にも関係者はいるんじゃなくって? 四の五の言わないで、たまにはわたくしの取り引きにも応じたらどうなの」

 途中から声のトーンを落としたベルタは、相手の歯切れの悪さに苛立つように艶やかにうねる黒髪を肩から払いのけた。

 そうして言いたいだけ品の良い罵声をたたきつけてから、彼女は一方的に携帯電話での通話を終えた。

 「彼ら」はベルタを若い女だからというだけで甘く見ているのだ。

 それを彼女は知っていたし、時には一方的な偏見を利用しもした。

 貴族社会などクソでも食らえ――。

 それが彼女の心情だった。

 いつまでも過去の栄光にしがみついている愚か者。

 ヨーロッパに栄華の頂点を極めたスペインという国そのものが、過去の栄光にしがみついている。けれども、こと近年では情けないばかりではないか。ベルタはそう思った。

 そんなものにしがみついているだけ無駄なのだ。

 それを思い知ったからこそ、彼女は出自を捨てた。その名前を最悪な形で、貶めるために利用した。

「反吐がでるわ」

 無様にしがみついて身動きがとれなくなる家柄に対する嫌悪感。

「……――わたしは、自由に生きて自由に死ぬのよ」

 カルメンのように。

 背後に足早に歩み寄って来た黒いスーツ姿の男に、美貌の女はじろりと視線を流しやった。

「イギリスにはこんなずぶの素人みたいな尾行しかできない情報官ばっかりなのかしら?」

 挑発するようにベルタは言い放つと、携帯電話をつまみ上げたまま軽く両手を上げた。各国の諜報機関に追われることには慣れてしまっている。けれども、どの国も彼女を逮捕するにはいたらずに今に至っている。

「どうせすぐ釈放してくれるんでしょうから、逮捕するだけ時間の無駄だと思うわ」

 冷ややかにベルタが笑った。

「口を閉じろ」

 若い男に命じられてベルタは唇をかすかにつり上げたまま背中に突きつけられた堅いものの感触に長い睫毛を伏せた。

「身の程をわきまえなさい」

 口の中だけで、彼女は言った。

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