5 違和感のたどり着く先
イングランド――その暗黒街の帝王たるアーサー・ノリスの突然の死は、当然の結果ながら関係各者たちはそれぞれに勝手な思惑を巡らせることになった。そもそも、死んで当たり前であったかどうかはともかくとして、アーサー・ノリスの死はありとあらゆる意味で関係者自身を危険にさらす。
つまるところアーサー・ノリスは殺害されるというくだらない失態を犯したことで警察機関に付け入る隙を与えたと言うことだ。
犯罪に手を染める者というものは、えてしてその抜け道を熟知しているものだ。
後先考えずに罪――この場合、違法行為を指すが――を犯す者は、自分の生命を考慮しない向こう見ずなチンピラか、一般市民による「突発的な」犯罪であることが多い。この世で入念に計画した完全犯罪などを引き起こす人間などごく稀なのだ。大概、人というものは怨恨や愛憎、金品目的など目先の突発的な衝動と欲求に駆られて「事件」を引き起こすものだ。だからこそ、今回のアーサー・ノリスの事件は異様だった。
仮に彼が取り引きをしているような少し頭の回転の速い者であれば、頭の悪い末端の者たちのように、ロンドンのど真ん中でノリスを殺し死体を放置するような真似はしないだろう。
悪党というものは、非常に腹の立つことに自己保身については徹底している。そうした面については良識的な一般庶民が驚くほど頭が回るものだ。こうしたインテリ面の悪党ほど、タチの悪い者はいない。そして多くの警察関係者や、公的権力を持つ者がこれらの「インテリ面の悪党」たちにころりと騙されてきたのである。
つまり何が言いたいのかというと、アーサー・ノリスとつきあいのあったボブ・アディントンという男もそう言った人種であるということだった。
「アーサー・ノリスという男のことはよく知りませんが……」
熱弁を振るっていたオウエン・ストウを心理学者の青年は遮ると、申し訳なさそうに目尻を下げた。
「ストウ刑事のお話をお伺いする限りでは、刑事さんもアーサー・ノリスの死に対して相応の疑いを抱いている、と考えてよろしいですね?」
「……む、うむ」
穏やかに言葉を返されてメイスフィールドの言葉にストウは口ごもる。
そう。
彼の言う通りだ。
疑問はいくつもあった。
ホテルの高級客室ともなればセキュリティは安宿のそれとは比べものにならない。そんなホテル側のセキュリティをかいくぐり、対象を射殺した。では、ここでもうひとつの疑問が生じる。
自分に危害を加えかねない危険な相手を、どうしてアーサー・ノリスが自分の部屋に招き入れたか、である。
彼のような悪党の場合、自分があらゆる方面から恨みを買っていることは熟知しているはずで、当然ながら自身の警備体制についても大金をつぎ込んでいるということも少なくはない。それならば、殺人犯はどうしてノリスの部屋に疑われることもなく侵入することができたのだろう。犯人はこれほど完璧な「仕事」をしていながら、最大の証拠を残したのだ。
死体という「それ」だ。
大の男の死体をホテルから運び出すのは確かに大変な仕事には違いないだろうが、侵入から殺人という行為を完璧にやってのけた犯人であれば決して不可能なことではないはずだ。だというのに自ら最大の証拠となり得る遺体をそのままにして立ち去った。
それはなぜか。
「さすがにわたしはしがない心理学者ですので、殺されたというノリスのことはよく知りませんが、あるいは、アディントン博士であれば突破口をご存じかも知れません」
「悪人の手を借りろというのか?」
「確かにお金にがめつい人ですが、礼儀をわきまえて接すれば門前払いされるようなことはないかと」
それに蛇の道は蛇、と言いますから。
世界には警察のような公的権力の届かない社会も存在している。そして、その社会へ踏み込むためには、後ろ暗いコネクションも必要だ。
まさにアディントンという男はそうした社会と社会のつなぎ役だ。善良な市民たちの暮らす表の社会と、犯罪者たちが跋扈する暗黒街。そして、金と成功を片手にした成金のならず者たちの世界と、さらにその雲の上に形成される押収の貴族社会。
「誰かが関与していると言うことは、紛れもない現実ですが、警察にリストアップされていない者であれば、通常の捜査では手に余るかもしれません」
なんなら連絡くらいいれてさしあげますよ? 相手がわたしであればアディントン博士も警戒しないでしょうし。
悪気はなさそうに続けたメイスフィールドに、ストウはギョッとして立ち上がって、電話に向かおうとする青年心理学者を引き留めた。
「……あ、あぁ、いや、待ってくれ。もう少し考えさせてくれ。博士」
「わかりました。でしたら、いつでも携帯電話のほうに連絡をください。刑事さん」
穏やかにアルフォンス・メイスフィールドはそう笑った。
机に乗ったメモ用紙に携帯電話の番号を走り書きすると、彼はそっとストウに差しだす。そんな彼の仕草を見ていて、オウエン・ストウの感じていた違和感は唐突に形を作った。
「博士はなんというか、その……、余り若者らしくないな」
二十代の若者特有の、はすっぱさを感じない、とでも言えばいいのだろうか? それとも学者特有の上から見下ろすような威圧感がないとでも言えばいいのか。オウエン・ストウが思ったことをそのまま告げればメイスフィールドという若手の心理学者は朗らかに笑った。
「そんなことはありません、買いかぶりです。刑事さん」
違う、そうじゃない。
ストウは言いかけて押し黙った。
そうではないのだ。今までストウは職業柄、ありとあらゆる階層の、そしてありとあらゆる職種の人間と接してきた。それこそ高級官僚や貴族、街娼からルンペンまで様々だ。そんなオウエン・ストウがメイスフィールドから感じ取ったのはごく自然に身についている品の良さだ。もちろん、最近の若者らしく、わざとらしく煙草を吸って見せたり、あるいは「乱暴な」物言いもして悪振って見せる。しかし、本質とはそこではない。
人は育てられた環境を。
過去を消し去ることなどできはしない。
アルフォンス・メイスフィールドの言動の端々に現れる気品の昭代にストウは気がついた。
「……君の、お父さんは?」
唐突に、ストウが核心に触れた。
「しがない公務員です。祖父までは学者の家系です。祖父がボンボンでしたから、父は随分と苦労したらしいですよ。おかげで過労が原因で早死にして、母は女手ひとつで六人の子供を育てなければなりませんでしたから」
淡々と、冷静に。メイスフィールドは穏やかに告げて、唇の端でほほえんだ。
おそらくメイスフィールドの所作の全ては、彼の父親のしつけの賜物だったのだろう。
「貧乏だから下品である、というのは理由にならないと父はよく言っていました」
貧乏人というものは、大概、どの国家にあっても品がないものだ。それは食事を含む、日常生活のマナーであったり、物言いであったり、もしくは社会への接し方に現れる。
「てっきり、良いところの坊ちゃんかと思っていた」
「よく言われます。でも、言ったでしょう? 貧乏な母子家庭です」
母も、姉妹も苦労しましたから。
良い家柄に生まれ、良い高校と大学を優秀な成績で出れば誰でもこうなるのかもしれない、とストウはメイスフィールドに対する第一印象で勝手に決めつけていた。
自分の偏見になんとも言えない居心地の悪さを感じて、オウエン・ストウは小さく頭を下げると、メイスフィールドの携帯電話の番号の書かれたメモ用紙を背広のポケットに押し込むと彼の研究室を後にした。
「……それにしても、ボブ・アディントンか」
目の前の中空を睨み付けて、ストウはぽつりとつぶやいた。
悪党に頭を下げるというのも今ひとつ気が乗らない。とりあえず、とストウは背広のポケットに突っ込んだメイスフィールドのメモに指先で触れてから溜め息をついた。
ストウが個人的に面白かろうが、面白くなかろうが、時間は待ってくれるわけでもなければ、事態も改善などしないのだ。そんなわけでオウエン・ストウは灰色の髪をかき回してから意識を切り替えた。
むしゃくしゃしつつもロンドン警視庁を出ようとしたストウは、灰色のタイトスカートにジャケット、白い変哲のないブラウスのボタンを一番上まできっちりと首元までしめた女の姿を認めて足を止めた。
「おまえか」
「おまえはないでしょ、仲間じゃない」
そんなことを言う割りに、キャスィアン・ダンフォードはストウを「あんた」と呼ぶのだから、ストウの二人称も五十歩百歩といったところだ。
ブロンドの印象的な彼女は知性的な瞳を閃かせてさざめくように笑う。
「あの新米心理学者も引っかかるようなところがあるみたいだから、せいぜいあんたも引っかかっているんでしょう?」
奇妙な殺人事件。
一言で言うならそれに尽きる。
殺しになれた連中が、アーサー・ノリスの死に関与していることは間違いないはずだが、殺害後の行動になにかが引っかかった。しかし、その姿が今のストウには見えてこない。用意周到に段取りをしておきながら、ノリスの死体を現場に「置き去り」にしたのはなぜだ。それだけ危険を冒しているというのは、もしくは「そのもの」が犯人にとってなんらかのメッセージであるとも考えられた。
「現場に戻る」
「了解」
思考の袋小路にはまりかけて、ストウはそこで我に返って憮然とした。
「あぁ、それと、キャシー」
「わかってるわよ。新しい情報が入ったらすぐにウッド・ストリート警察署まで回してあげるわ」
少し疲れた表情だったが、キャスィアン・ダンフォードはそう言ってから、彼女は組んでいた腕をほどくと右の裏拳で軽くストウの胸を軽くたたくとにやりと笑ってみせた。
大都市ロンドンが眠らないように、その警察にも休みなどありはしないのだ。
それからオウエン・ストウが車を飛ばしてオックスフォード・ストリートの殺害現場のホテルに戻ると、そこにはやはり腑に落ちない表情をたたえた巡査部長が顎に片手を当てて立ち尽くしていた。
「あぁ、オウエンか」
ちらりと知己の友人が片目をあげた。思慮深い同僚の眼差しにストウは手帳に挟み込んだ写真と現場とを見比べながら黙り込む。
――やはり、拭えないのは違和感だ。徹底的に自分の痕跡を消し去りながら、犯罪行為における最大の証拠をそのまま放置したというところに何かしらの意図を感じてならない。犯人がなぜ証拠とも呼べる遺体に何の手も加えずに放置したのだろうか? そこに犯人に繋がる鍵がある。
オウエン・ストウはそう確信した。