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4 追憶の向こう側

 聞きたいことは山ほどある。

 それこそ、どうしようもないくだらないことから、捜査に関するなにからなにまで。

 顔を合わせるのは二回目だ。

 一度目は二ヶ月前のジョン・スプリングの事件。二回目はあろうことか、優秀でありながら強欲と名高い悪徳弁護士、ボブ・アディントンの事務所でだ。

 肩を怒らせてロンドン警視庁スコットランド・ヤードに乗り込んだストウは、アルフォンス・メイスフィールドの狭苦しい研究室に入るや、目に飛び込んできた光景にぽかんと口を開けてあっけにとられた。

 コーヒーカップを片手にくつろいだ様子で、ファイルと向き合う青年はひどくリラックスしているようにも見えた。

 裏社会の、大物中の大物。アーサー・ノリスの死は、ロンドン警視庁にもすでに伝わっているはずで、当然その捜査線上に商売的な「つきあい」もあるボブ・アディントンが上がっていることも、ロンドン警視庁の関係者でもあるメイスフィールドは知っているはずだ。

 そう勝手に憶測した。

 そんな男と、メイスフィールドは親しげにアディントンに接していた。

 いや。

 彼の他者に対する態度はいつも変わらないのかも知れない。しかし、ストウにはまだ若い心理学者の青年がいったいどういった人物なのか、見極めるには判断材料が少なすぎた。

 判断を下すには、まだオウエン・ストウはメイスフィールドのことをろくに知りはしないのだ。

 だからこそ、彼は心に決めた。アルフォンス・メイスフィールドという男を知らなければならない。

 それは義務感からのものだったのかもしれない。

「……どういうつもりだ」

 挨拶も前置きもなく、つっけんどんな態度でストウが青年に詰め寄った。

「あの男がどれほどろくでもない奴か知っているだろう」

 剣のこもったストウの声に、メイスフィールドは緑の瞳をしばたたく。

「アディントン博士のことですか? それともアディントン博士とアーサー・ノリスとその周辺のことでしょうか?」

 真顔でそう切り返したメイスフィールドに、ストウはうっかり勢いのままつかみかかりそうになって危ういところで自制した。

「落ち着いてください、ストウ刑事」

 優美な仕草で立ち上がった青年は、繊細な印象すら受ける負縛った指先で、狭い室内の真ん中に置かれたソファを指し示す。

「おかけになってください、疑問に思っていらっしゃることには順番に話をさせていただきます」

 そう言われて、オウエン・ストウはハッと我に返った。

 年下の男相手に、あっという間にその支配下に引きずり込まれそうな感覚に陥って、ストウは警戒心を強めた。まがりなりにも刑事という職業にある自分が、相手のペースに巻き込まれることなどあってはならない。

 けれどもそんな思いとは裏腹に、そこはロンドン警視庁の中でありながら、確かに心理学者アルフォンス・メイスフィールドの縄張りだった。

 彼の穏やかな笑顔と、執務机に山のように摘まれたファイルやカルテ。そして壁を覆い尽くす書架。そういったものの全てに圧倒された。学者の先生と比べれば「無学」と言っても差し支えのないことをストウ自身が自覚していたというのもあったのかもしれない。

 ただ、飲み込まれるような空気感に圧倒された。

「アディントン博士がアーサー・ノリスの殺害について重要参考人であることは知っています。博士も、自分は真っ先に疑われるだろうという趣旨のことをおっしゃっていましたので。ですが、わたしは捜査のためにアディントン博士を訪れたわけでもなければ、わたしがロンドン警視庁スコットランド・ヤードに務めているのを知っているアディントン博士が、捜査状況をわたしから聞き出そうとして呼び出したわけでもありません。そもそも刑事さんがアディントン博士の事務所を訪れたときに、全く関係のない世間話をしていたわけですし」

 つらつらと彼は言葉を並べた。

 どこまで信用して良いのかわからない。

 メイスフィールドが、彼自身の言う捜査情報の漏洩などに万が一関わっていたとしたら、重大な責任問題に発展するだろう。

「だが、奴は悪党だ」

 うなり声を上げたストウに、青年は小さく頷いてからかすかに唇の端でほほえんだ。

「知っています」

「だったら、どうして……」

 苦り切ったストウに、メイスフィールドはテーブルの上に置いた黒い手帳を引き寄せる。そうして、ページの間にはさまった一枚の写真を差しだした。

「アディントン博士は確かに悪党ですが、悪いところばかりじゃないんですよ」

 悪人にも善意がある?

 そんな戯れ言は聞き飽きた。

 悪人は悪人だし、彼らの犯した罪は許されない。善良な人々を虐げ、その血肉を食らうような行為があってはならない。そしてそんな彼らを許さないからこそ、オウエン・ストウは刑事という職業に就いているのだ。

「アディントン博士は確かに慈善家とはほど遠いですし、法律を武器にぎりぎりの綱渡りをしていらっしゃいます」

 法律家は慈善事業ではない。

 どんな人間でも、現代社会で生きていくためには金が必要だ。

 金!

 金! 金……!

 地獄の沙汰も金次第、とはよくぞ言ったものだ!

 金さえあれば、悪人たちすらも生きていく事を許される。なんとも皮肉な話で反吐が出る。そんな世間の現実を突きつけられたような気がして、オウエン・ストウはうんざりとして溜め息を吐きだした。

 結局、いつの時代も損をするのは善良な小市民なのだ。

 貧しい者はいかに正しい道を歩んでいても報われない。

 それが過酷な現実だ。

「それで、慈善家ではないアディントンと博士のご関係は?」

 ややこわばったストウの声が一段低くなったが、メイスフィールドは気にした素振りもない。ストウが扉を開けたときとなんら変わりのない表情で、穏やかに彼を見つめ返している。

 余程肝が据わっているのか、それとも世間ずれしているのか、どちらだろう。

 そんなことを思いながら、ストウは差しだされた写真を受け取ると、しげしげと見つめてから鼻の上にしわをよせた。

「これは?」

「お気づきになりませんか?」

「ふむ」

 ひょろりと背の高い金髪の少年と、大柄な背広の男が写った写真だ。

「君と、アディントン博士か?」

「えぇ、わたしが大学に入ったばかりの頃のものです。なにかと学費が必要だったわたしのためにアディントン博士は出資してくださいました」

 メイスフィールドの物言いが少しだけ引っかかった。

「……君のご両親は?」

「わたしは、六人姉妹の真ん中なんですよ。父がわたしが子供の頃に亡くなったので、母が女手ひとつで育ててくれたんです。女性の収入なんてたかが知れてますからね。わたしがたまたま州で一番の成績を取っていたことから、アディントン博士には目をかけていただいて、高校、大学と、高額な授業料を出していただきました。わたしにとって、アディントン博士は父親のような存在なんですよ」

「……――ふん」

 静かに言葉を綴るメイスフィールドに、ストウは不機嫌に眉をひそめると憎々しげなとも感じる視線を写真に突きつける。

「だから恩に感じてるとでも?」

「それもあります、わたしも聖人じゃありませんから恩人に疑いを持ちたくはありません。ですが考えても見てください。わたしがアディントン博士に会っていたのは当日の夕方です。約束はそれよりも二週間前にとりつけていました。仮にアーサー・ノリスが生きていてもわたしとアディントン博士はあそこで話をしていましたし、そうすればあなたがあそこに乗り込んでくることもなかったのではありませんか?」

「それはそうだが……」

「それに彼は法律家です。前時代の野蛮人でもありませんし、人殺しをするリスクは充分理解しています」

「悪党の肩を持つのは関心せんぞ」

「一応、父親代わりでもあるので、アディントン博士には常々、人の道を外していると説得はしているのですが、なかなか博士も頑固な方ですので」

 苦笑したメイスフィールドに、ストウは目の前の中空に視線を彷徨わせた。

「誰のおかげで君は大学を出て、博士号までとれたと思ってるんだ、の一点張りで。それに悪党とは言いますが、彼がお金を巻き上げているのは、主に政治家や悪党からで、一般市民の依頼はほとんど受けていません」

 そこだ。

 ボブ・アディントンのアキレス腱でもあり、強みでもある。

 彼は政財界と強いつながりを持ちながら、裏社会の端にそっと君臨する。

 膨大な資産は、貧乏貴族などを軽く凌いだ。

「アディントン博士が高額の依頼料を取るとを知っていながら、一介の小市民がアディントン博士に相談事など持ちかけることのほうがナンセンスです」

 自分の身の丈に見合った振る舞いをするべきだ。

 それが正しいこととは言えないかも知れないが、現実とはそんなものだ。

 言外に告げたメイスフィールドに、オウエン・ストウが眉尻をつり上げた。

「そんな言動をしていると君は自分自身の首を絞めて、そう言った連中と同じだと思われるぞ」

「意地の悪いことを言わないでください。わたしはしがない公務員です」

 安月給で家庭を支えているのだ。

「就職してからこれまで、アディントン博士に生活費を工面してもらったことなどありませんし、これから妻と一緒に作る家族のためにも、わたしは後ろ暗い選択をするつもりはありません」

 そういえばこの男はなよなよしているようにも見えるが既婚者だった。

 人は見かけによらない。

 オウエン・ストウはメイスフィールドの確信めいた言葉に半ば憮然とした。

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