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1 地獄へ続く道

 大都市ロンドンは眠らない。

 世界中においても、眠らない都市は珍しくない。大都市、と呼ばれる街はすべてそうだ。別にロンドンが特別なわけではない。

「殺しだ!」

 叫ぶような声を、オウエン・ストウは受話器を上げた瞬間に聞いた。時計を確認すればまだ明け方だ。昨夜は、遅くまで同僚につきあわされて、捜査資料をあたっていた。自分の仕事ではなかったから気楽なものだが、そんなこんなで帰宅したのは夜半を軽く過ぎていた。

 気楽な独身男、というところは否定しないが、とはいえこき使いすぎだ。

 電話の呼び出し音にたたき起こされて、薄くなりつつある灰色の髪を不機嫌そうにかき回した。犯罪者が警察関係者たちのために時と場合を選んでくれるわけでもないのだが、時には愚痴のひとつも飛び出しそうになる。

「殺しですって?」

 寝起きでかすれた声を上げたストウはベッドから足をおろした。

 花の独身生活だから、特に気遣う相手もいないのは何より幸いだったかもしれない。

「それで、被害者の身元は?」

 電話越しに問いかけながら、青年刑事は表情を改めた。

 寝起きの腫れぼったいさえない独身男の顔に厳しさが戻ってくる。

 刑事の顔だ。

 水色の瞳にスッと冷静な光をともして、オウエン・ストウは大股に足を踏み出してクローゼットに歩み寄った。

 灰色の無難なシングルのスーツを身につけて、平凡なネクタイをしめた彼は車のキーを取りあげた。

「だいたいこんな朝っぱらからどこのどいつだ」

 オックスフォード・ストリートの脇道を十分ほど入ったところにあるホテルの一室で「それ」は発見された。

 現在、イギリス連邦警察総出で大規模な捜査を繰り広げる麻薬王。

 その死体が発見されたのだ。

 ――アーサー・ノリス。

「こいつは……」

 麻薬王とも呼ばれた裏社会に君臨するボスのひとり。その唐突な死の訪れに。ストウは一瞬、言葉を失った。

 顎を手のひらで軽くなでつけてから小首を傾げる。

 確かに。裏社会に君臨するボスともなれば、恨みを持っている人物はひとりやふたりでは済まないだろう。事実、アーサー・ノリスには敵が多く存在した。

 それは取引相手であり、同業者である。

 または外国のマフィアなど。

 ありとあらゆる敵が、彼にはいた。

 現場に足を踏み入れたとき、そのスイートルームだったから、余程の大物か、資産家だろうとは思ったが、死体の正体は想像を超えていた。

 鑑識官と制服警官が忙しなく行き来するホテルの室内で、オウエン・ストウは死体を凝視したままで動きを止めると眉をひそめた。

 アーサー・ノリスこそ、昨晩遅くまでオウエン・ストウが捜査資料と格闘をしていた捜査対象なのだ。

「イングランド総出で追ってる悪党じゃないですか」

 アーサー・ノリスが死んだとなれば、裏社会の勢力図はほぼ確実に塗り替えられることになるだろう。もっとも、悪党だから殺されてもいいというわけではない。別の人間がアーサー・ノリスに変わって世界を牛耳ろうとしてくるだろうことが大きな問題だ。

「まぁ、この男は誰にも恨みを買ってるかもわからんような奴だからな。オウエン」

 隣で肩をすくめたのはストウの同期のハリー・ジョンストン巡査部長だ。要領は余り良くないが性格は文句のつけようのない人格者で、彼を笑わせるよりも、怒らせるほうが難しいだろうとささやかれる。

 先に昇進したストウに羨望の眼差しを向けてくるわけでもなく、良き友人であり、良き同僚としてのつきあいが続いていた。

「アーサー・ノリスの資金の流れを追いかけている連中の中に俺たちの友達がいたはずだ。ノリスの奴の人間関係を徹底的に洗ってもらうとしよう」

「……あいつか」

「キャスィアン・ダンフォード」

 顔を見合わせたストウと、その友人の巡査部長はその場におおよそ似つかわしくない笑い声を上げた。

 やはりふたりの同期の刑事で、アーサー・ノリスとその周辺の資金の流れと、組織全体の摘発のために捜査をすすめていた。

 イングランド全土に広がる麻薬の取り引き網を摘発するのは困難を極める。小売の末端売人から、仲卸まで様々だ。その捜査陣のひとりとして名前を連ねるキャスィアン・ダンフォードは野心的だが、緻密に捜査をすすめることには人一倍長けている。

「あいつ、なにかと規律規律って言うからな。捜査情報を寄越せと言って素直に聞き入れるかどうか問題だな」

 どこのドイツ人だ、と皮肉を言いたくなるほどキャスィアン・ダンフォードは頭が堅い。

「なに、そのときは取り引きを持ちかければいいだけだ」

 肩をすくめたストウに、ジョンストンは短く笑っただけで言及は避けた。

「きっと前世があるなら、あいつはドイツ人だろう」

 ストウの冗談に、ハリー・ジョンストンは息を長く吐きだしてから、ちろりと足元に転がる麻薬王の死体を眺めた。

 死体を見ても取り乱さないだけの度胸は、これまでの刑事人生の中でふたりとも身につけてきた。それがはたして人間らしいことなのか、そうでないのかはふたりには理解しがたい。

「女のくせに、あんなにぴりぴりしてるから結婚のひとつもできないんだ。きっと男が寄ってこないんだろう」

 ストウのキャスィアン・ダンフォードに対する嫌みは今に始まったことではないが、実のところストウのそんなダンフォードに対する態度を見ていると、彼女に気があるのではないのかとも思うジョンストンだった。

「結婚できないのは俺たちだって同じだろう」

 右の肘で、ストウを軽く小突いてからジョンストンが笑う。

「それに、キャシーはあれでロンドン市警察の連中にはそれなりに人気があるんだぞ」

「アレが?」

 ジョンストンに、ストウが目を丸くすると「そうそう」と相づちを打ちながら巡査部長は笑って見せる。

「あれで悪かったわね」

 カッとハイヒールの音が鳴った。

「げっ」

 女の声と、靴音にギョッとしたのはオウエン・ストウだ。

「聞いたわよ。朝っぱらから電話があったからなにかと思えば、アーサー・ノリスが死んだそうじゃない」

 両腕を胸の前で組み合わせ、胸をはって顎を上げた金色の巻き毛の女がそこに立っていた。薄い褐色の瞳が印象的な知的美人だ。欠点を言うならば、顎がやや逞しいのが難点だが、それはそれでチャームポイントにも思えるから人間の感情というのは不思議なものだ。

「それでなに? なにかあんたたちの悪巧みが聞こえたけど。捜査情報を流せって言うんじゃないでしょうね」

 つんと顎を引き上げて言ったブロンドの女に、オウエン・ストウは額に手を当てると大きな溜め息をついた。

「”人がひとり死んだんだぞ。こっちだって、おまえの持っている情報を寄越してもらえなければ困るんだ”」

「……――」

 高圧的なストウの言葉に、ぴくりとダンフォードは眉毛をつり上げると、長い片腕を伸ばしてストウの胸ぐらを掴んで引き寄せる。

「あんたって本当に腹立つわね。素直にアーサー・ノリスが死んだから情報を流せって言えばいいじゃないよ」

 睨み付けてくるキャスィアン・ダンフォードの瞳はまるで、SMプレイに興じる女王様のようだ。すらりと長く伸びた足はアスリートのように美しい。

「別にわたしは情報を独占つもりなんてさらさらないわよ。自分の感情に流されてまともな判断ができなくなるような連中と一緒にしないで」

 フンと鼻を鳴らした彼女は、そう吐き捨てるとオウエン・ストウを突き放すように掴み締める指を離した。

 独善的で、ひとりよがりな権力欲にまみれた連中と同様の人種であると見られることを、キャスィアン・ダンフォードはひどく嫌悪していた。特に警察と言う男性社会で生きるというのはそういうことなのだ。

 女は良くも悪くも目立てば嫌悪感を持たれるものだ。

 だから結局、キャスィアン・ダンフォードは自らの生き方を、自らの意志で選択した。どんなに疎まれる羽目になったとしても、決して後ろを振り返ったりはしないし、決して後悔もしない。

 そう堅く心に決めた。

「目の下に隈ができてるから美容に気を遣ってでもいるんじゃないかとでも思ったが、相変わらず元気そうじゃないか。キャシー」

「あんたもね、オウエン」

 にやりと笑ったダンフォードは、荒れた肌をものともせずに自信に満ちた笑顔を浮かべると、拳で軽くストウの胸を叩いてから踵を返した。

「ここのところ、ノリスの周辺がごたごたしていたから、たたけば埃のひとつも出てくるんじゃないかと思って、捜査情報には注意していたんだけど、まさか当の本人が殺されるなんてね。まぁ、いいわ、これからわたしのオフィスに来る?」

「そうしよう」

 優秀な女性巡査部長に続いてホテルの部屋を出たストウとジョンストンは、靴音を鳴らして階段を駆け下りた。

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