婚約破棄は承諾いたしますので、契約に従い代償をお選びください
アールストレーム公爵家の令嬢、アストリッドが婚約を破棄されたのは、王家が主催する夜会でのことだった。
「アストリッド! オレはお前との婚約を破棄して、ブリッタとの『真実の愛』に生きる!」
「ごめんなさいアストリッド様! アタシとエイレルト様は愛し合っているんです!」
国王や王妃、王太子たちが入場する前の夜会。
王族の入場を待ちながら、着飾った紳士や淑女たちはそれぞれに談笑をしていた。
が、婚約破棄を叫んだエーゲシュトランド侯爵令息エイレルト、それからそのエイレルトの右腕にしがみついているブリッタという男爵令嬢の声に、皆、静まり返った。
夜会の会場である大広間に流れていた楽団の演奏も、あまりのことに止まる。
しんと静まり返った大広間に、アストリッドの靴音が響く。
コツコツ、コツコツ……と。
エイレルトとブリッタから、ほんの十歩ほど、離れた位置で、アストリッドの靴音が止まる。
大広間に集まっていた貴族たちや給仕の使用人たちなどは、アストリッドがどうするのかと、皆、固唾を呑んで待った。
アストリッドは表情すら動かさずに、淡々と尋ねた。
「婚約破棄を受け入れます。それではエイレルト様……、いえ、エーゲシュトランド侯爵令息。婚約破棄の代償として、エーゲシュトランド侯爵家の皆様は『毒杯』と『返済及び重税』のどちらをお選びになりますか?」
「は?」
「え?」
婚約破棄の代償として、どちらかを選ぶ。
意味が分からず、エイレルトとブリッタは間の抜けた声を出した。
「わたくしとしては、どちらを選んでいただいてもかまいませんわ」
ぽかんとしていたが、エイレルトが慌てたように声を浴びせてくる。
「ま、待て待て! 『毒杯』だの『重税』だの何のことだ⁉」
「何のことと言われましても……。十年前、わたくしとエーゲシュトランド侯爵令息との婚約を結んだときの契約通りですわ」
「契約……だと?」
「ええ、お忘れですか?」
お忘れですかと言われても、エイレルトには何のことだかさっぱり分からない。
「貴族の婚約とは契約ですよ。最低限、契約書の内容程度は覚えておいていただけませんとねえ……」
言いながら、アストリッドは会場内に視線を流す。
少し離れた場所で、エーゲシュトランド侯爵夫妻とエイレルトの弟であるヘルクヴィストとエイレルトの妹のマルティナの四人が硬直しているのが見えた。
「エーゲシュトランド侯爵夫妻でしたら、わたくしたちの婚約における契約内容を覚えておいでですわよね?」
「そ、それは……」
「ラーゲルクヴィスト王国の、その建国のときよりの忠臣であるエーゲシュトランド侯爵家。ですが、十年前の凶作と災害によりエーゲシュトランド侯爵家の経営状態は悪化」
「うっ」
エーゲシュトランド侯爵が呻いた。
アストリッドは気に留めることもなく、続ける。
「税も払えず、食事にも困るほどだった。そこで、国王陛下のご命令により、わたくしとエーゲシュトランド侯爵令息との婚約が結ばれた。婚約により、我がアールストレーム公爵家がエーゲシュトランド侯爵を支える……と」
「そ、それは……、そう、です……」
「婚約を結んで約十年。この間、我がアールストレーム公爵家からの資金援助でエーゲシュトランド侯爵家はなんとか立て直せた……。そうですわよね?」
「は、はい……。その通りで」
「当然、それはエーゲシュトランド侯爵令息もご存じですわね? あなたが着ている服、毎日の食事、あなたの世話をする使用人……、すべて我がアールストレーム公爵家からの資金によるものですわ」
怒りを見せることなく淡々と告げられる言葉に、エーゲシュトランド侯爵たちは下を向くが、エイレルトとブリッタは違った。
「そんな! エイレルトの愛をお金で買うようなことをするなんて、アストリッドは酷いです!」
「そ、そうだ、そうだ! ブリッタの言うとおりだ!」
「あら?」
ぎゃあぎゃあ騒ぐエイレルトとブリッタ。
「お前たち黙れ!」とエーゲシュトランド侯爵が制するが、止まらない。
「アストリッド様、酷いですよぉ!」
「愛が一番尊いんだ!」
「黙れ」と繰り返す、エーゲシュトランド侯爵。
青ざめた顔のまま、動きもしないエーゲシュトランド侯爵夫人たち。
アストリッドは冷笑を向けた。
「感情論は不要ですわ。婚約とは契約と申しましたでしょう? エーゲシュトランド侯爵令息の不貞による婚約破棄の場合、支払うべき代償は婚約の契約書に明記してあるのだから」
契約内容を覚えていないエイレルトは顔を顰め。
契約内容を覚えているエーゲシュトランド侯爵夫妻たちは、床に崩れ落ちた。
そこへ、国王、王妃、王太子たちがやってきた。
「何事か!」
国王の声が大広間に響く。
「今宵は王家主催の夜会。だというのに、何を騒いでいるのだ!」
不機嫌な国王の声に、アストリッドが淑女の礼を執った。
「お騒がせして申し訳ございません。ご説明をさせていただいてもよろしゅうございましょうか?」
「ああ……」
「ありがとうございます、陛下。それでは、申し上げます。エーゲシュトランド侯爵令息エイレルト様が、わたくしとの婚約を破棄すると宣言なさいました。理由はそこにいるブリッタという男爵令嬢との『真実の愛』でございます」
「は?」
「故に、婚約時の契約により、わたくしは『毒杯』と『重税』のどちらをお選びになりますかと問いましたが……、しかし」
「しかし、なんだ? どちらも嫌だと言ったのか?」
「いえ。エーゲシュトランド侯爵令息エイレルト様は婚約の契約内容を覚えておらず、呆けておりました」
「は……? 覚えていない……?」
「王命による婚約ですわよ? それもエーゲシュトランド侯爵家を救うために、わざわざ結んだ婚約ですわ? それを覚えていない……?」
国王も王妃も呆れてしまったが、王太子は大声で笑った。
「あっはっは! 馬鹿だ馬鹿だと思っていたけどさあ、ホント馬鹿だよねえエイレルト。お前、それでも侯爵家の令息なのか?」
ムッと顔を顰めたエイレルト。しかし、発言者が王太子であれば、文句も言えない。
「アストリッドをエイレルトに嫁がせるにあたって、そりゃあ、事細かくあれもこれもと何百か条もの契約の取り決めをしたけどさ。最低限、自分の命に関わることくらい、覚えておくものだろう? それもできないなんて、どんだけ阿呆なんだ?」
「……王太子殿下、さすがにお口がお悪うございますわよ」
「嫌だなあ、アストリッド。いつもの通り、私のことは『デニスお兄様』と呼んでもらっていいんだよ?」
「……私的な場であれば『デニスお従兄様』と呼ばせていただきましょう。ですが、ここは公の場ですわ、王太子殿下」
アストリッドはデニスを制する。
十歳も年の離れた従兄は、昔からアストリッドを気に入っていた。それこそ実の妹のように。いや……、もしも年が近ければ、アストリッドを自分の妻にと国王に申し出たかもしれない。
だが、王太子には既に婚姻を結んでいるし、子も二人いる。
今更アストリッドを娶っても無意味どころか醜聞だと判断する理性はある。
「んー、それはそれとして、阿呆が婚約破棄の条項を覚えていないとねえ……。それではエーゲシュトランド侯爵。お前が自分の息子に『不貞による有責の場合』どのような処分が下されるか、改めて教えてやるがいい」
エーゲシュトランド侯爵が、よろよろと立ち上がる。
「……エイレルトが、不貞をし、婚約破棄を叫んだ場合。処分は二つのうちどちらか一つを選べる」
「そうそう。エーゲシュトランド侯爵はさすがに覚えていたね。続きを述べたまえよ」
「……一つ目。エイレルトを中心に、三親等までが即座に『毒杯』を賜る」
「そうそう。親子関係を三回たどってつながる親族だからね、エイレルトのいとこたちは免れるよ。エーゲシュトランド侯爵家は三親等に入らない誰かに任すか、爵位を国に返上してね。はい、二つ目もエーゲシュトランド侯爵、説明して」
王太子の声は明るい。
だが、エーゲシュトランド侯爵の声は、恐ろしく低かった。怒り、憎しみ、絶望……。様々な負の感情が含まれているようだった。
「……二つ目。この十年間でアールストレーム公爵家から受けた支援金を即刻返金。更に、婚約期間と同等の期間、エーゲシュトランド侯爵家に課される税は、通常の十倍となる。ただし、エーゲシュトランド侯爵の領民たちから徴収する税は現状のまま」
十年間、侯爵家が体裁を整えられる程度の資金援助。更に、重税。
家財道具、屋敷、土地を売り、爵位を返上したところで、とてもではないが支払いきれない。
いっそ、毒杯を賜ったほうがマシと思える。
エーゲシュトランド侯爵たちは、震えるしかできなかったが、エイレルトは叫んだ。
「そんな不当な契約など!」
「不当? 正当だよ?」
「不当ですよ!」
王太子は嗤った。
「不当というのなら、裁判でもなんでもして訴えればよかっただろう? 婚約を結んでから十年。この長い期間に文句も言わずにいたのに、この期に及んで不当?」
馬鹿かお前はと、王太子はエイレルトを見下す。
「う……」
「それにさあ、エイレルト、王命による婚約なんだよねえ、アストリッドと君の婚約は。王命って、意味、分かる?」
「そ、それは……」
「エーゲシュトランド侯爵家が、建国以来の忠臣だったから、見捨てずに、わざわざアールストレーム公爵家に頼み込んで助けてやったのに。恩を仇で返すってどういうことかなあ」
「う、うう……」
「しかも、処分も二択で選ばせてあげるほどの恩情なんだよねえ。ありがたく思って、選びなよ」
「う、ううう……」
「選べないなら、王命違反ってことで、一族郎党、全員連座で不敬罪。で、死罪でもいいんだけど?」
結局、エイレルトは『毒杯』は選べずに、『重税』を選んだ。
とはいえ、土地や屋敷や爵位まで売ったとしても、十年に渡るアールストレーム公爵家からの支援金には全く及ばない。
エーゲシュトランド侯爵家の者は、遠縁の者に至るまで、平民の身分へと落とされ放逐された。
処分が決まり、すべての手続きが終わった後、王太子はアストリッドを呼びだした。
王城の薔薇園の薔薇は、まだ蕾のものが多かった。
それでも、風に乗り、王太子とアストリッドのいるガゼボまで、その甘い香りを届けていた。
「お誘いありがとうございます、王太子殿下」
「プライベートなんだから、名前で呼びなよ、アストリッド」
「デニスお従兄様……」
「はい、よくできました。まずはお茶をどうぞ……と言いたいところなんだけど……」
「何か?」
アストリッドは首をかしげる。
「うん、あのさ。エーゲシュトランドの家の者たちは、まあ、元々の婚約破棄の規定通りでいいと思うんだよね。馬鹿をやったのはエイレルトだけなんだけどさ。馬鹿を放置しておいた親も悪いし、親族までは……と、ちょっとは思うけど、遠縁のヤツラまでもアールストレーム公爵家の恩恵を受けていたんだから、一蓮托生だよねえ」
アストリッドは頷いた。
「まあ、それは、契約通りですから。文句があれば、十年のうちに言えばよかっただけ。親族の皆様も、元エーゲシュトランド侯爵令息の様子を探り、危ないと思えば、さっさとエーゲシュトランド侯爵家と縁を切っていればよかっただけ。貴族なのに、主家の嫡男がなにをしているのかの情報も把握していないのは、怠慢でしょう」
「うん。だから、元エーゲシュトランド侯爵の関係者は自業自得でそのままでいいんだけど……」
「何か?」
「ブリッタという男爵令嬢と男爵家に、何の咎めもなしっていうのは、アストリッドとしては、問題はないのかい?」
ブリッタという男爵令嬢と男爵家には、処罰は一切していない。
アストリッドは、薫り高い紅茶を一口飲んだ後、くすりと笑った。
「ブリッタ嬢の男爵家とは、何の取り決めもしておりませんし、実害はありませんでしたし。そのまま何もしなくてよろしいですわ」
「だけどさあ、暴言は吐かれたでしょう? 処分とか、本当にしなくていいのかい?」
婚約破棄の場で、アストリッドはブリッタから告げられた。
『ごめんなさいアストリッド様! アタシとエイレルト様は愛し合っているんです!』
『そんな! エイレルトの愛をお金で買うようなことをするなんて、アストリッドは酷いです!』
「婚約破棄のときに、ブリッタ嬢から言われた言葉など、小鳥のさえずりに過ぎませんわ。アールストレーム公爵家は、もちろんわたくしも、ブリッタ嬢にも男爵家にも、咎めることなど一切致しません」
涼やかな顔のままのアストリッドに、王太子は不満を見せた。
「だけどさあ。公爵令嬢の、この私の愛する従妹の体面を傷つけたんだよ。爵位取り上げくらいは……」
不満げにぶつぶつ言う王太子に、アストリッドはピシリと言った。
「彼女に何かしたら、しばらく口を利いてあげませんよ、王太子殿下」
王太子は、口をへの字に曲げる。
「え、えええええー! どうして⁉ なんであんな女を庇うんだよ!」
「あら。庇ってなどおりませんわ。きちんと罰しております」
「……どういうこと?」
アストリッドは「ふふふ」と笑う。
「片方を盛大に処分し、もう片方を何もせずに放置する。さて、不満を持つのは誰かしら?」
王太子は少し考えた後「まさか……」と零した。
「ええ。そのまさか。爵位を取り上げられ、平民に落とされた元エーゲシュトランド侯爵家の者たちの恨みは誰に向かいます?」
「もちろんエイレルトへ……」
「では、エイレルトの恨みは誰へ? 平民に身を落としたエイレルトの恨みはわたくしには届きませんのよ? 護衛や侍女に阻まれて、わたくしの姿を見ることすら叶わないのだから」
「だったら……、あの女に向かう……?」
よくできましたとばかりにアストリッドは笑った。
「ブリッタ嬢も、男爵家も、一切のお咎めなし。さあ、エイレルトや元エーゲシュトランド侯爵家の者たちはどう動きますでしょうか?」
もしも。
平民となり、食うに困ったエイレルトや元エーゲシュトランド侯爵家の者たちが、ブリッタと男爵家を襲ったら。
もしも、そのようなことが起こっても、貴族たちは誰もブリッタたちを助けない。
アストリッドはくすくすと笑う。笑い続ける。
「とりあえず、エイレルトとやらは、働くこともできずにブリッタ嬢の屋敷に転がり込んだようですよ」
「へ?」
「こんな目に遭ったのは、お前のせいだとか言って、責任を取れと迫ったらしいです」
「お、おい……」
「クズ男を鬱陶しがって、ブリッタ嬢はどう動くかしら。平民男と男爵令嬢。平民男を男爵令嬢が処分したところで咎める法律もないですし」
「おいおいおいおい、アストリッド……」
かわいい従妹と思っていたアストリッドが……。
大勢の前で、盛大に婚約破棄などされて。
それでも、公爵令嬢としての矜持があり、平然とした姿を見せていた……と思っていたのだが。
王太子は背中に汗を掻いた。
「ねえ、デニスお従兄様。この後彼らはどうなるのか。楽しみでございますわね?」
終わり




