第2話:乳児はなぜ死んだか
春蘭が寝宮へと案内されたのは、午後の陽が傾き始めたころだった。
花を模した窓格子の奥には、上品に設えられた寝台と、淡く焚かれた香の香りが漂っている。
その寝台のすぐ脇、静かに置かれた白布。
それは、乳児の亡骸だった。
「これで三人目です」
隣に立つ侍女が、かすれた声で言った。
「第四后さまが……昨年懐妊なさって以来、お生まれになったお子様は、三人とも……」
春蘭は無言で頷くと、膝をつき、白布の端をそっとめくった。
(……死後硬直はすでに緩んでいる。死亡から半日以上は経過か)
小さな胸には呼吸の痕跡もなく、唇は淡く紫がかっていた。
だが、不自然に口が開いていたわけではない。窒息ではないと見ていい。
肌に目立った発疹もなし。
爪の色も淡く、内出血の痕跡も見られない。
呼吸器疾患? いや、肺に異常は……ない。
春蘭は、静かに石を一つ、盤面に置いたような思考の音を鳴らす。
(では、死因は――)
「……乳は、どなたが与えていたのですか?」
侍女が一瞬驚いたように目を見張った。
「……え? あの、はい。侍女たちが交代で……。后さまのお体が弱く、直接は……」
「その乳母の名簿をください。あと、亡くなった三人の乳児全員の」
そう言って立ち上がった春蘭は、床の下に敷かれた織物の端をそっとめくる。
そこに――小さな虫の死骸が、五つ並んでいた。
「……カノンカ。熱に寄る小虫ですね」
「そんなものが、どうかしたのですか?」
春蘭は、静かに小さく微笑んだ。
「いえ、ただ、部屋の空気の流れが悪いというだけです」
この部屋は美しく飾られているが、風通しが極端に悪い。
そのせいか、香の匂いが濃く籠っていた。
(――香か。いや、違う。香が原因なら、母体にも影響が出る)
(では、共通項はどこに?)
視線を落とし、春蘭は寝台の横の器を見つめる。
それは、薄く甘い香りのする、母乳用の乳器だった。
――そのとき、思考の盤面に光が差した。
一手、核心に近づいた音が響いた。
(もし、これが“乳”の問題であったとしたら?)
春蘭は、乳母たちの名前と経歴を調べさせた。
すると、意外な事実が浮かび上がった。
――全員が、同じ村の出身だったのだ。しかも、春蘭の診療院に程近い辺境の村。
「あの村……確か、青緑石が出る鉱山の近くですね」
春蘭はぽつりと呟いた。
青緑石――翠銅とも呼ばれる鉱石。
それを粉砕して採る作業に長く従事すると、ごく微量ながら、体内に重金属が蓄積する。
成人には影響が薄いが、乳に混じれば、赤子の神経を麻痺させる毒になり得る。
「……赤子は、毒の強さに耐えられなかった」
そう結論づけたとき、春蘭は盤面に最後の一石を置いた。
死因は呪いではない。
見えない毒が、母乳を通して赤子を殺したのだ。
香も、病も、装飾も、すべては目を逸らすための帳。
真相は、見えない“鉱毒”だった。
「なぜそれを、わたくしが呼ばれたのだと思われますか」
宦官が眉をひそめる。
春蘭は淡く微笑む。
「だって、この鉱毒のことを知っているのは、帝都の医官より、辺境で生きている私たちのほうなのですもの」
そしてもう一つ、春蘭は知っていた。
この事件が、ただの偶発ではないことを。
乳母の人選に関わった者の中に、“わざと”この村の出身者を選んだ者がいる。
その目的が、果たして后の失脚なのか――あるいは、皇統そのものへの介入なのか。
盤上に、新たな局面が現れようとしていた。
一度完結済みにして、続きは明日以降執筆が終わり次第、更新します。