第19話:灰と銀のトランク
午前中の陽射しが控えめに廊の木格子を撫でていた。
開け放った戸口から差し込む風は湿気を含んで重く、乾いた紙の匂いと薄く焦げた炭の香りが溶けあっていた。
私が小さな診療棚を整理していると、表戸の向こうでひどく遠慮がちに、けれど明確な調子で戸を叩く音がした。
「……失礼します。あの、診立てていただきたい者がいまして」
振り返ると、やや痩せた若い女が、蒸れた銀鼠の帯をきちんと締め、しかしその表情だけが不自然なほど無表情だった。
「こちらへ」
私が促すと、彼女の背後から、布で包まれた何かが、二人がかりで運び込まれた。
長さはちょうど、旅用の衣装トランクほど。けれど音が、重たすぎる。
「ご病人、ではなく……?」
「いいえ」
女は静かに頭を下げた。
「亡くなっています」
言葉の温度が、一瞬、部屋の空気を凍らせた。
私はゆっくりと膝をつき、布を取る。現れたのは、二十代半ばと見られる男の死体だった。
肌は煤けており、鼻腔の奥には黒い粉がこびりついている。
「焼死……? いえ、表面だけ、ね……」
「お詳しいですね」
女の声に、わずかに棘がある。
あらぬ誤魔化しをせぬよう、私はすぐに頷いた。
「体表が黒くなっているのは、おそらく灰を大量に吸い込んだため。でも、肺の膨らみが偏っている。火事場ではなく、密閉された場所で……」
「炭焼き小屋、です」
女が、うつむいた。
「この者は、わたしの兄です。三日前、山の小屋で炭を焼いている間に、倒れたと……最初は事故だと思われました。でも、納得がいかなくて」
私は死体の首筋に指を当てる。うっすら、掻き傷。指先の爪が深く、内出血している。
「誰かと争った痕……?」
「兄が、そんなふうに抵抗するとは思えないのです」
彼女の目が、細く絞られる。
「兄は、自分の死を……予期していたように思えます。少し前から、妙なことを言っていました。“炭が、銀に変わる”と。意味はわかりません」
炭が、銀に。
言葉だけでは、ただの夢物語。けれど、私は妙な違和感に喉の奥をかきまわされたような気がしていた。
「お兄さまは、何か職人仕事を?」
「ええ。もともとは銀細工師でした。でも……鉱山が枯れて、焼き炭の手間賃で糊口をしのいでいて」
銀。炭。死。
ならばこれは——。
「お兄さまの荷物、どこかに残っていませんか?」
「……はい。こちらに」
差し出された革の袋の中に、小さな試験管が二本、革の手帳、そして、折りたたみ式の小さなるつぼ。
私は、るつぼの内側を覗いた。微かな粉。灰にしては、重たい。
「……この粉は、銀です。恐らく」
「えっ……? でも、炭焼き場に、銀が……?」
私は小さく息を吸う。
「お兄さまは……炭を、還元剤に使って、銀鉱を精錬しようとしていたのかもしれません」
彼女の顔が、蒼褪める。
「そんな……。でも、山には、もう鉱脈なんて……」
「普通には、ね。でも……」
私は、死体の耳元へ、そっと小声で囁くように考えを巡らせた。
「例えば——“炭の灰の中に銀がある”のではなく、“炭が燃えることで銀が姿を現す”としたら。彼は、鉱滓……つまり、昔の採掘くずに残った微量の銀を、炭を使って抽出しようとした。そう考えれば、つじつまが合います」
彼女は、口元を押さえた。
「兄は……“埋もれた山が、かつて自分の銀を忘れたわけではない”と言っていたんです。あれは、比喩じゃなかった……」
「ええ。そして、その技術は……もしかしたら、誰かに狙われた」
私は、遺体の手帳を開いた。中には、温度変化、通風条件、木炭の種類……細かい記録が綴られている。そして最後のページにだけ、朱のようなもので描かれた、不可解な円。
「これ……なんですか?」
「それだけは、私にも……」
しばし沈黙が流れた。
私はそっと、窓を見やる。空はすでに鈍色になっていた。
「このままでは、“事故”で終わってしまうでしょう。でも——」
「……隠された銀を、明らかにできれば」
「ええ。そうすれば、殺意の動機が浮かび上がる」
私は立ち上がり、るつぼを丁寧に包み、引き出しの鍵をかけた。
「——夜になれば、星が照らしてくれるかもしれません。灰の中の銀を、ね」