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第17話:『沈香の夢』

宵の刻、春蘭は診療院の奥で、香を焚いていた。白檀に似た甘さの奥に、どこか苦味を含んだそれは、長安から渡ったと伝えられる「沈香じんこう」と呼ばれる香木のひと欠片だった。


「この香りは、“記憶”を呼び起こすらしいわ。夢の底に落ちた断片を、浮かせてくれるとか」


香を焚いているのは、病ではなく、証言のため。


数日前、後宮で倒れた宦官が、口も利けず昏睡状態のまま診療院に運び込まれた。


医術では命は繋いだものの、意識は戻らない。


ただ、その男が倒れる直前に話していたとされるのが「夢を食う女に会った」という、意味不明な一言だった。


夢を食う——つまり、記憶を奪われた。


この手の話は、迷信で済まされがちだ。だが春蘭は違和感を拭えなかった。倒れた宦官・燕昌えんしょうは、過去にも重要な事件の証人として取り調べを受けた経歴を持つ。口は堅いと評判で、慎重に口裏を合わせる癖もある。


その彼が、何も言わずに倒れた?


春蘭は、香を使って眠った彼の脳を刺激し、深層意識に残った“反応”を探るという手段を選んだ。


もっとも、それは医学というより、限りなく「賭け」に近い。


だが春蘭の手元には、もう一つの“手がかり”があった。


燕昌が倒れた直後に脱いでいた靴——その底に、なぜか小さな「硝子片」が挟まっていたのだ。


「硝子なんて、ここでは珍しい。しかも色が……青緑」


その色味は、診療院の薬瓶でも見かけない。けれど、一ヵ所だけ記憶にあった。


後宮西館の、書庫に通じる回廊。その廊下には、“不思議な窓”がある。


「緑硝子の、あの窓——燕昌はそこにいたのね」


だが、あの場所に入るには許可が要る。しかも、鍵は朱静女官が管理しているはず。


なぜ、燕昌がそこに?


春蘭は沈香の香りが満ちた部屋で、彼の手をとった。


「あなたは、何を見たの? 何を、封じようとしたの……」


その瞬間、微かに手が動いた。


春蘭は、慌てず筆と紙を用意し、彼の指先に筆の軸を握らせた。意識は戻らなくても、指は動く。反射のように、繰り返すように。


やがて、うつろな筆跡で書かれたのは、たったひと文字。


——「杯」


杯?


まるで意味が分からない。だがそれは、前話で春蘭が読んだ“詩文帳”に記されていた一文と符合した。


「朝の粥に紫蘇の香り。杯を持つは右手なれど、朱筆は左手にあり」


——杯を右手で持つ者。


つまり、“左利き”。


それだけなら、殿下の特徴だ。だが春蘭の記憶にもう一つ引っかかるものがあった。


「朱静も……筆を左で持っていた」


燕昌は、その現場で「見てしまった」のではないか。


書庫の回廊で、左手に朱筆を持つ女官が、何かの文書を書き換える姿を。


だが、彼はそれを口にする前に、倒れた。いや——倒された。


「夢を食う女」などいない。ただ、“記憶を封じる方法”はある。


沈香の濃香に、酢酸と少量の罌粟を混ぜた“香煙”は、一定量吸うと記憶を混濁させ、短期記憶を消し去る。


そして、それを用いる者は限られる。


「薬物を調合でき、香を扱い、火を自由に使える立場」


春蘭は、ある人物の名を呼んだ。


「御香司——玉露ぎょくろ


玉露は、後宮の香の調合と焚香を一手に担う、老香師だ。春蘭が“香”について教えを受けたこともある、静かで厳しい女性。


だが彼女は、事件当夜、書庫の近くで“香炉の調整”をしていた記録がある。


春蘭は対面を申し込んだ。


「あなたは、“誰かの命令”で、記憶を消したのですか?」


玉露は、しばし黙したあと、わずかに香炉の火を弄った。


「わたしは命じられたのではない。“防いだ”のだよ。燕昌が口にしかけたのは、偽りだった」


「偽り?」


「朱静女官は、殿下の政敵のひとりだ。だがあの夜、殿下が書庫にいたこともまた、確か。燕昌はそれを“殿下に不利に働くよう”歪めて語ろうとしていた。わたしは、過去に殿下を救われた身として、彼の口を封じた。ただ、命までは奪っていない」


春蘭は、沈香の香りに包まれながら、その言葉を受け止めた。


真実は一つではない。語られなかった真実と、語られようとした虚偽。


その間に、沈香のように揺らめく“記憶”がある。


「あなたの手段は、決して許されるものではない。でも——あの方が、記憶を封じられてなお、指で“杯”と記したのは。真実を、残したかったからでしょう」


玉露は、微かに微笑んだ。


「夢の中でさえ、嘘は残る。ならば、真実もまた、香のように」


春蘭は頷き、沈香の残り香を袖で払いながら部屋を後にした。


——香りも、証言も、時に歪む。


だが、読む者がいれば、そこから“真”を拾うことができる。


その覚悟だけが、春蘭の中で静かに灯り続けていた。

完結済みにしておきます。

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