第16話:『青絹の手紙』
春蘭の手の中にあるのは、一枚の薄青い紙だった。
油紙よりも薄く、蝋引きのように滑らかで、光にかざすとわずかに透ける。だが、最も異質なのはその“香り”である。
「これは……酢酸の香り? まさか、酢で染めた紙なんてことあるかしら」
それは、玲珠殿下の侍女が、庭先の焚き火にくべようとしていたものだった。偶然その場を通りかかった春蘭が、紙の匂いに引っかかり、止めた。
「これはどこから?」
「昨日、殿下の文机から落ちておりました。書状の下敷きかと思って……でも、文字はなく、捨てろとの仰せでしたので」
その紙には、何も書かれていなかった。いや、少なくとも「目には」そう映った。
春蘭は紙を持ち帰り、灰汁で濡らした筆でそっと撫でた。
すると、ほんのりと文字が浮かんだ。
——「明け方の帳が下りるとき、緋衣は落ちる」
謎かけのような一文だった。意味は分からない。だが、“この書き方”に、春蘭は既視感を覚えていた。
「これは、暗号ではなく……詩の形式。殿下は、誰かと詩をやり取りしていた?」
それだけではない。問題は、“酢で染めた紙”を用いていた点だ。
なぜ、そんな手間のかかる手段を?
そこで春蘭は逆の発想を取った。「誰にも読まれたくない文」は、そもそも書かなければよい。では書く理由があったのだとすれば、それは“証拠を残すため”だ。
——焼いても消えないような。
「酢で染めた紙は、炭化しにくい。つまり、火にくべられても“文字の痕”が炭の中に残る。これは、読むための手紙ではなく、“残すための手紙”だったのね」
それを焚き火に捨てさせたのは、誰?
春蘭は、殿下の書状を管理する筆頭女官・朱静に面会を求めた。
朱静は老練で、礼節正しく、だが一切の余白を許さぬような冷たい目をしていた。
「私が処分を命じたのは、内容のない紙だったからです。殿下の名を穢すものではありません」
「それが“本当に内容がない”と、どうして言い切れたのでしょうか?」
「筆跡もなく、印もありません。子どもが遊びで紙を染めたのでしょう」
「ならばなぜ、侍女に“今すぐ焼け”とまで急がせたのですか? それは“残されては困る”という証では?」
朱静はわずかに目を伏せた。
「……わたくしは、あの詩を、殿下がかつて交わしていたお方との記録だと思っております。だからこそ、宮中に残すべきではなかったのです」
「“緋衣が落ちる”と詠まれた内容が、記録というなら——それは、事件の予告かもしれないのよ」
春蘭は、三日前に起きた“舞姫の失踪”を思い出していた。
彼女は緋色の衣を纏い、夜半の稽古のあと忽然と姿を消した。身元も曖昧なまま宮廷に入り、身寄りもないと言われたその舞姫こそが、“緋衣”だったのではないか。
「舞姫の名は?」
「……花鈴と申しました」
「彼女が誰かの身代わりだったとすれば、名前も衣も“借り物”のはず。彼女が残したものは?」
「一冊の詩文帳が、部屋にありました。内容は……恋詩ばかりで」
春蘭はその帳面を見せてもらった。すると、最後の一節だけに妙な違和感があった。
それだけが、詩ではなく“記録”だった。
——「朝の粥に紫蘇の香り。杯を持つは右手なれど、朱筆は左手にあり」
「……これ、詩じゃない。“人物描写”だわ」
つまり、花鈴は“詩のふりをして”、誰かの特徴を書き残していた。粥に紫蘇を入れる癖、杯を右手で持つが左利きであること——。
「これは、詩を通して身元を知らせようとしたのでは?」
では、誰に向けて?
春蘭は、思い至った。“詩を読む習慣がある人物”で、舞姫の行方を密かに気にしていた者がいる。
——玲珠殿下だ。
春蘭は再び殿下に謁見し、問いかけた。
「殿下、あなたは花鈴と文を交わしていたのではありませんか?」
「……まさか、紙を……残していたの?」
「焼かれる前に、拾いました。けれど、それ以上に——あの子は、詩文帳に“あなたの姿”を書いていたのです。紫蘇を好むこと。左利きであること。……それを、遺して」
玲珠殿下は、瞳を伏せた。だが、次に顔を上げたとき、その瞳には痛みと決意が浮かんでいた。
「花鈴は……わたくしの姉でした。名も身分も隠し、舞姫として戻ってきたのです」
「姉?」
「先帝の妾腹の娘です。追放された身でしたが、先日、匿名で詩が届いたのです。“会いたい”と。わたくしは気付きました。“緋衣”という言葉に。だから、あの子を迎える支度を——」
「ですが、会う前に姿を消した」
「ええ……。そして、誰もその話を口にしてはならぬと」
春蘭は、小さくうなずいた。
「ならば、残された詩は——“殺された”のではなく、“隠された”のかもしれません」
花鈴は“証言”を詩に仕込み、殿下に届けようとした。失踪も、あるいは隠された自衛か。
すべては、あの“青絹の紙”から始まった。
火にくべられる寸前に、なお真実を残そうとした、詩人の手紙。
——沈黙の中にも、声はある。
春蘭は、青い紙を胸にしまい、呟いた。
「言葉は、焼かれても……読む者がいれば、再び浮かぶ」