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第15話:百香の金魚

金魚は、毒を喰うとき、泡を吐く。


そう教えられたのは、春蘭がまだ都の外れ、砂色の地で診療院を手伝っていた頃だった。

貧しい村では薬よりも水のほうが貴重で、井戸に金魚を浮かべるのが唯一の毒見だった。


「金魚が口を開けず、静かに水底に沈むとき、それが毒の印。泡を吐くのは、まだ命がある証よ」


春蘭は、そのときのことをふいに思い出していた。目の前の金魚鉢のなか、水底に沈んだ真紅の尾をもつ金魚が、まったく動かないまま沈黙している。


「これは……ただの死、ではないわね」


金魚は、寵妃・琅花ろうか妃が飼っていたものだった。


昨夜、宴のさなか。妃は誰に見られることもなく、静かに体調を崩した。

言葉もなく、苦しみも見せず。ただひと匙の粥を口にした直後、手が震え、しずかに倒れた。


御典医は「心気の滞り」と診立てたが、春蘭は彼女の侍女からこう聞いていた。


「妃さまは……朝から、お粥しか召し上がっておりません。お膳はすべて下げておりましたのに……」


「それで、その粥は誰が?」


「厨房の者が作り、尚食局の女官が運び……けれど、妃さまは、最後に“百香露”をかけておられました」


「百香露?」


「あの……この時期、宮廷に献上される香料です。ほら、お口直しに香り水をひと垂らしするのが妃さまのお癖で」


春蘭は眉をひそめた。


百香露とは、十種以上の香草を煮詰めて作る、いわば“香りの蜜”。皇族に献上される品であり、甘露とも呼ばれる。それが毒に使われたとなれば、警護の手が内側に向かうということだ。


だが、決定的な証拠がない。


唯一不審なのは、妃が倒れたとき、床に金魚鉢を落として割ってしまったこと。

金魚は一匹だけ救い上げられたが、それが今——春蘭の前で沈んでいる。


「泡を……吐いていない。ならばこれは、毒性が“金魚の代謝に影響を与えない類”ということ」


春蘭は静かに、金魚を取り出し、鱗の内側を確認した。


「……褪せているわね。鱗の縁がほんのり青白く。これは、精緻に精製された“鉛丹”かも」


鉛丹は、香料の艶出しにごく微量使われることもある。が、それが体内に蓄積すると、無症状のまま突然、神経系に作用する。


「では問題は——誰が、百香露に鉛丹を混ぜたか」


春蘭は、厨房ではなく「器」に目を向けた。


粥をよそう器は、妃専用の漆細工の碗。美しく磨かれていたが、ふちにほんの僅かな灰色の“擦れ”があった。


「この碗、焼き直された形跡がある。内側が不自然に新しい。まさか——碗の内側に鉛を塗り込み、百香露と反応するよう仕込んだ?」


それは、“香料そのものに毒はない”ことを利用した逆トリック。


「香に疑いが向くように見せかけて、真の毒は器だった。香をかけたときに反応し、鉛が溶け出すよう仕組まれていたのね」


だとすれば、毒を仕込んだ者は、香をかける“癖”まで知っていたということ。


春蘭は、そっと紙を広げた。そこには、宮中で妃付きの品を管理していた尚衣局の記録。

その中に一名、器に対して異様に細かな管理をしていた者がいた。


——「温手おんしゅ


妃の手元を守る係であり、器の出し入れと手洗いに関与する者。

名前は“碧羅”。かつては妃付きの筆係だったが、筆の誤字を責められて降格された女官だった。


春蘭は対面を申し入れ、茶の場に彼女を招いた。


「妃さまの器、たいそう丁寧に磨かれていましたわね」


「ええ、それが私の勤めですから」


「そう。でも、不思議なことに、器の“裏”だけが何度も焼き直されていた。漆の中に鉛を仕込むなら、火入れの段階でなければできないわ」


碧羅の手が、わずかに震えた。


「あなた、筆を取っていた頃から……妃の癖、細かく記録していたでしょう?」


「それが……何か」


「妃の癖を、知っていた者だけが、あの“香と毒”を結びつけられる。あなたは、誰よりも妃に忠実だった。けれど、その忠誠が、憎しみに変わった」


春蘭は金魚鉢の破片を差し出した。


「毒を使ったなら、いずれ器にも、香にも、あなたの手にも染みつく。それが証拠よ。金魚だけが、最後まであなたの“細工”に黙っていなかったの」


その夜、碧羅は静かに自首した。


春蘭は、水面に泡を浮かべた金魚の姿を思い出しながら呟く。


「毒は沈む。でも——真実は、泡のように浮かび上がる」

一度完結済みにしておきます。

明日以降執筆が終わり次第、再開します。

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