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第14話:硝子の犬

お犬様が吠えたのは、三の刻。


その吠え声が妙に耳に残っていたのは、春蘭がその直前に奇妙な夢を見たからだ。


夢の中で、彼女は庭に佇んでいた。月もなく、灯もないのに、足元の砂利だけが白く光っている。そこに、首輪のない犬が現れて、じっとこちらを見ていた。吠えることもせず、ただ静かに。


「……あの犬、どこかで見たような」


目を覚ました春蘭は、寝台の脇にあった水盆に指を差し入れながら、夢の記憶を撫でるように探る。だが、その静寂を破ったのは、扉の外からの小さな足音だった。


「春蘭さま、緊急です」


女官の声は小さいが、張り詰めていた。


「何が起きたの?」


「また、おひとり……獣舎番の老犬使いが亡くなられたと」


春蘭は微かに目を伏せ、盆の水を捨てた。


獣舎——帝の鷹や犬、そして稀に使われる“毒探し猟獣”などが飼われる裏手の小さな屋敷。その管理を担う老犬使いが死んだとなれば、それは事故では済まされない。

二月で三人目の死。しかも、全員が“動物と会話できた”と囁かれた者たち。


春蘭は現場に足を運ぶと、犬たちは不思議なほど静かだった。死んだ老人は、犬舎の中央にうずくまるように倒れていた。


「……争った跡は?」


「ありません。ただ、この犬が、最初に吠えたようで」


玉翠が指差した先には、ひときわ小さな白犬がいた。背中には硝子細工のような装飾をつけた首輪。春蘭は眉根を寄せた。


「この犬、先月まではいなかったはず」


「ええ。……実は、先帝が密かに溺愛していた“幻犬”の末裔だそうで。数年ぶりに戻されたとか」


「幻犬、ね。吠えない、鳴かない。けれど、人の死を見たときだけ鳴くという」


春蘭は視線を落とし、老人の手元に目をやった。右手には握られたままの木札があった。「緑」と刻まれている。


「この部屋に“緑”の札を下げた者が入っていた……?」


「いえ、今朝、獣医見習いが“紅”の札を受け取っていたとか」


「なら、なぜ“緑”が老人の手に?」


春蘭は犬舎の外へ出ると、深く息を吐いた。草の香りに混じって、かすかに感じる“土の下の匂い”。


それは、生き物が死ぬ寸前に残す、最後の“記憶”のにおいだった。


彼女は目を細める。


「これ、犬の死体と取り替えられてる」


「えっ?」


「この犬舎の裏、掘り返されてる跡がある。おそらく、二日前に死んだ犬を“白犬”の姿に見せかけて入れた。……さっきの犬は、幻犬なんかじゃない。首輪の硝子は飾り。正体を偽るための仮面よ」


玉翠は絶句した。


「では、“幻犬”という噂も……」


「作られたもの。噂とは、事実を隠す最良の布だから。——問題は、なぜ犬を偽装したか。なぜその場で吠えたか。そして……なぜ“硝子の音”が、朝の夢に残ったのか」


春蘭は、最初の被害者——一月前に亡くなった若い犬番の日記を調べた。そこには、一文だけ妙な記録があった。


『夜の静けさの中、犬が一頭だけ“笑った”。それは、まるで硝子が擦れるような音だった』


春蘭は、思い出していた。


硝子の擦れる音。それは——笛。

犬の首輪に取り付けられた硝子細工。それは、実際には超高音域の「笛」だった。人の耳には聞こえず、犬だけが反応する波長で作られていた。


「つまり……あの音が鳴らされると、犬は反射的に“吠える”」


「そのタイミングで死体を見せれば、“幻犬が死を吠えた”ように見える……?」


「そう。幻想を使って真実を隠す手口よ。老犬使いは、その仕掛けに気づいた。そして、証拠となる“笛”を手にして、記録を残そうとした。——それが“緑”の札。紅に見せかけた代替品。色の違いは、使者を偽るため」


春蘭は、そっと一つの香を焚いた。嗅覚を鋭敏にする香。


「いたわね。あの犬を、誰よりも遠巻きに見ていた子が」


その夜、春蘭は捕まえた見習いを前に、静かに告げた。


「あなたの作り出した“幻”は、実に美しかったわ。けれど、それはいつか“真実”の足を滑らせるものなの。うつつと夢は、混ぜるべきじゃなかった」


白い香煙の中、春蘭の声だけが静かに響いていた。

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