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第13話:香の記憶

香炉の火が落ちる音を聞いた気がした。


春蘭は目を閉じたまま、そっと鼻を動かす。

甘く、まろやかな伽羅の香りが、まだ部屋に漂っている。けれど、混ざっている。何かが。


——鉄、のような。


「それにしても妙ね」


春蘭は寝台から身を起こすと、ゆっくりと指先を胸元に添えた。昨夜、帳の向こうで亡くなったのは、第三侍女・琥珀。春蘭と同じ「香を扱う者」として、後宮ではそれなりに知られた存在だった。けれど、彼女が「香死こうし」したと聞いたとき、春蘭はすぐには信じられなかった。


香で死ぬなどというのは、毒殺の一種だ。しかも、香を知る者にとってそれを使って命を奪うなど、まるで詩を血で染めるようなものだ。あまりに、侮辱的すぎる。


「……これが仕掛けだったとしたら、随分と雑ね」


琥珀の死の直前、彼女は自室で焚いていた香を記録していた。だがその香の名——「青辰せいしん」——は春蘭の知る限り、鎮静作用こそあれ、命を奪うようなものではない。


春蘭は、彼女の香炉に残された炭と灰の中に、ごくわずかに赤みがかった粒子を見つけていた。それが、彼女を死に至らしめた鍵だと睨んでいた。


ただ、問題はそこではない。なぜ琥珀が、それに気づかなかったのか——だ。


「彼女は、自分の香に細心の注意を払っていた。にもかかわらず」


春蘭は記録帳をめくり、琥珀の筆跡を辿る。細く、繊細な筆跡。だが、その日だけ、香の名の文字が僅かに歪んでいた。


まるで、手が震えていたかのように。


「……最初から気づいていたのかもしれない」


香を焚き、香炉の中に忍ばせる毒粉は、それを使った本人がもっとも影響を受ける。琥珀は、おそらく気づいていた。だが、それでも香を焚いた。なぜか。


春蘭は目を細める。


「彼女の意図は……香ではなく、香にまつわる“記録”だったのかも」


そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてくる。規則正しい、やや重めの靴音。

春蘭は扉の方へ目をやると、すでに来訪者の名を思い浮かべていた。


「早いわね、玉翠様」


「貴女こそ、昨夜のうちに動いていたのでしょう?」


戸を開けて現れたのは、衣の襟をきちりと留めた女官長・玉翠だった。彼女の指先には、ひとつの封蝋がぶら下がっている。


「これが琥珀の遺香いこうです。香壺ごと、封じられていました」


春蘭はそれを受け取ると、そっと鼻を近づける。


「この香……“青辰”じゃない」


「ええ?」


「これは、“双鷹そうよう”。確かに見た目は似てるけれど、あちらは精製の際に、黄丹おうにという染料を用いるの。焚けば微かに赤い煙が上がる……けど、この香炉、琥珀は“青辰”と記録してた」


「つまり、記録と実際に焚かれた香に食い違いが?」


「ええ。でも、単なる書き間違いじゃない。“双鷹”は、過剰に吸えば中毒を起こす。……そして、この香には、さらにもう一つ、混ぜられている」


春蘭は指先を壺の縁に滑らせ、底から小さな紙片を取り出した。油紙に包まれたその中には、赤銅色の粉末が入っていた。


「——“丹礬華たんばんか”。古い毒薬。炭に混ぜて焚けば、香の熱で気化する。無臭、無色。ただし……」


「気づかれる可能性がある?」


「逆。香に詳しい者ほど、意図的に見逃す。匂いに混ざらないよう、仕組まれているから」


玉翠の目が鋭くなる。


「それなら……犯人は、琥珀がそれを“気づかない”と読んでいた?」


「ちがう。“気づくことを、選ぶ”と読んでた」


春蘭は遺香を再び封じながら、ゆっくりと息を吐く。


「つまり琥珀は、最後に“記録”というかたちで、自らの死因を残したのよ。……犯人は、そこまで計算したつもりだった。でもね」


春蘭の唇に、微かに笑みが浮かぶ。


「“香”っていうのはね、人の記憶の中でいちばん深く残るものなのよ。……私の鼻は、忘れたりしない」


その夜。

春蘭は、静かにひとつの部屋を訪れた。そこで焚かれていた香は、“双鷹”。

記録には“青辰”と書かれていた。筆跡は、琥珀のものと酷似している。


「まさか——あなたが、琥珀に香を教えた“師”だったなんてね」


室内にいたのは、淡く微笑む中級女官。琥珀の先輩にあたる人物だった。


「“弟子”が、“師”に気づいた。それだけの話ですわ」


「なら、“香死”は、あなたにとって最後の“儀式”だった?」


女官は頷いた。香の煙が、静かに揺れる。春蘭は目を閉じ、ひとつだけ祈った。


香の記憶は、決して消えない。

その甘くも残酷な記録を胸に、春蘭は部屋を後にした。

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