第12話:花喰い
雨が降っていた。
しとしとと、音を立てるほどでもない。けれど、それはまるで息を潜めた罪のように、庭石の縁を濡らしていた。
春蘭は、廊下に座り込んでいた。彼女の足元には、小さな花籠。
芍薬、蓮、撫子、金盞花。彩りよく活けられた花々の香が、彼女の思考をゆっくり麻痺させていく。
「それ、本当に彼女が選んだ花なのかしら」
春蘭の問いに答えたのは、青磁の茶碗を手にした女官だった。顔には微笑み、声には波紋。
「はい。確かに、今朝の市で、お一人でお選びに」
それが――死者の最後の選択だった。
昨夜、御厨子所の下働きの女がひとり、毒死した。
厩の裏で倒れていたのは、まだ十五にも満たない娘。口には血の花、目は虚空に開いたまま。
毒の痕は、はっきりしていた。しかもそれは、簡単に手に入る類ではない。
芍薬の根――煎じて過ぎれば、血を逆流させる。
だが、それをどうやって――
「花を食べる癖があったと聞きました」
ぽつりと、誰かが言った。
その瞬間、空気が変わる。
春蘭の視線が鋭くなる。撫でるように、籠の中の花々を指で辿る。
「撫子は、少女の潔白を象徴する花……それが籠の真ん中にあるのは、見せたい意図があったということ。
けれど、その周りに――毒花が隠されてる」
指先が止まる。金盞花。その花の芯には、白い粉のようなものがひとつ、まるで涙のように滲んでいた。
「金盞花に見せかけて、絵皮を貼ったのね。中に仕込まれていたのは、芍薬の粉……」
その場にいた女官たちが、どよめきを上げる。
「でも、誰が……?」
春蘭は立ち上がった。
籠をそっと手に取ると、まるでその花が死者の言葉であるかのように、ひとつひとつに意味を与えるように見つめた。
「花を贈るふりをして、毒を仕込んだ者がいる。けれど、彼女はそれを見抜けなかった……なぜか?」
彼女の視線が止まった先には、縁側に座るひとりの女官――梧桐だった。
「……花の知識がある者でなければ、これはできない。しかも、見せかけに騙されるよう計算された構成……あなたね」
「……どうしてそう思うのですか?」
「あなたが昨日、私に言ったわ。『撫子は、少女の墓前に良いわね』って」
春蘭は籠を置いた。
「そんなこと、死者が出る前に言う?」
梧桐の顔から、血の気が引いた。
「撫子は――あなたにとって『嘲笑』だったのね」
その夜、春蘭は文を綴っていた。
香の匂いが、墨の香に溶ける。
「人は、花の美しさに騙される。
その裏に隠された毒を見抜けるのは、毒を知る者だけ」
墨を止めて、そっと筆を置く。
「……そして、心にも毒があると知っている者だけ」
遠くで、雨がまだ降っていた。