第11話:香の影、病の檻
柔らかな灯が、白磁の器を透かして揺れていた。
春蘭は背筋を伸ばし、香炉の煙を眺めていた。
歓迎された香と、病の匂いを見分けられるのは、長年の診察と薬研の経験があるからこそだった。
夜、宮内で香が強く焚かれる――それだけで、春蘭の神経は微妙にざわめいた。
「香の調合を変えてほしい」と申し出たのは、妃付きの女官だった。
香が濃すぎて呼吸が苦しいという。
翌朝、女官の一人が発熱し、手の震え、呼吸促拍で診断を受けた。
その症状を聞いた春蘭は、すぐに香との関連を考えた。
(香の成分が強化されていたとすれば、それは“鎮静香”ではなく“痙攣香”かもしれない)
私の思考は囲碁のようにひろがる。
香が病を起こす可能性を捨てずに、しかし毒とは限らず、機能性操作を組み合わせて考える。
石1:女官は香にしか接触せず、食事や薬には異状なし。
石2:香の成分が通常配合から逸脱している。
石3:焚く香炉の銅製受け皿に微量の薬剤が混入された可能性。
石4:誰が香を調合し、焚いているかが鍵となる。
この4石を盤に並べたとき、思考回路が動き出した。
調香室に赴くと、春蘭はすぐに異変を察した。
調合棚の並びが微妙に乱れており、ある瓶だけ底に黒い沈殿が確認された。
「これは……鎮静香の前調合の残りかしら」
鼻に近づけると、甘美な匂いの奥に、ほのかな苦味。
まぎれもなく、強力なチネン誘導体が含まれている香だ。
女官たちは口をつぐみ、誰も責任を認めようとしない。
そのうち、一人の見習い女官が震え声で打ち明けた。
「若き頃に習ったのです。香は“香りを調え、人を操る道具”として使える、と。……妃がそれを望まれたと聞きました」
調香の許可を持つのは、妃自身と縁香だけ。
縁香は鉛汚染事件のあと謹慎中だが、香の原料管理は依然、彼女の影響が残っていた。
春蘭は縁香の居室を訪れ、ひそかに香包を確認した。
その中には、通常の成分に加えて、小瓶に入ったチネン誘導体の粉末。
(これは、一種の催眠香。強制的な安堵感と同時に、筋肉を弛緩させる――)
香に浸された身体は、一時的に“調和”を与えられるが、過度ならば呼吸が抑制され、発作を誘発する。
春蘭は庭で妃と対峙した。
「私は香を焚くだけの医ではありません。香によって人を操る術とも、対峙します」
妃は微笑を零す。
「あなたは勁い医師ね。でも、誰が香を変えたかは、わたくし自身でしたわ。ただ、人々を“眠らせた”かっただけ――。」
妃は、後宮内での緊張を緩めるため、女官たちに“鎮静香”を焚かせた。しかし、量の調整は誤りだった。
その結果、一部の女官が過度に筋肉弛緩を起こし、呼吸不全寸前に陥った。
妃は責任を取ることもなく、香炉を閉じた。
その夜、春蘭は廊下で静かに呟いた。
「誰かを癒そうとする行為が、人を蝕むこともある。そして、最も危ういのは“善意”のゆらぎです」
月明かりが、廊の石畳を淡く照らした。
春蘭は深呼吸し、次の一手を思い描いた。