第1話:雨が降る前に薬草を干さねばならない理由
雨の匂いがした。
干した薬草が湿る前に取り込まねばならない――それが唯一の気がかりだった。
「……まったく、どうしてこう、世の中というのは勝手なものでしょうね」
ぽつりと呟きながら、女は背に担がされた大きな木箱を揺らしつつ、馬車の車輪に足を踏まれるまいと身をよじった。
名は 春蘭。齢十四。
山深い辺境の村で診療所を営む“女医”である。
医といっても、官に認められた正式な医官ではない。彼女が持つのは書生時代に師匠から受け継いだ手記と、山で拾った薬草の知識、そして異様なまでの観察眼と論理の組み立て能力だけだった。
その春蘭が、いま帝都に連れて来られている。
本人の意思ではない。
(……三日前、あの役人風情どもが、いきなり診療所に踏み込んで)
(“皇都よりの召命である、ただちに同行されたし”って、冗談ではないわ)
ろくに説明もされぬまま、春蘭は“医官候補”という名目で帝都の馬車に押し込まれた。
そして、いま目の前にそびえ立つのは、金の鱗を模した屋根瓦を持つ、皇宮の外郭門。
(……まあ、逆らっても無駄だったけれど)
春蘭は小さくため息をついた。
――そして気配を読むように、空を見上げる。
まだ降らない。けれど、時間はない。
“どうして皇宮が辺境の女医など呼ぶのか”
頭の奥で囲碁の盤を広げるように、彼女はひとつずつ石を置いていく。
“女医”を名乗る者は帝都にもいる。
だが、その中からではなく、わざわざ辺境にいる自分に白羽の矢が立った。
――その理由が、「医術」そのものにはないとしたら?
――むしろ、「辺境にいた」ことそのものが選ばれた理由ではないか?
静かに、石が盤面に響いた気がした。
(つまり、“関わりのなさ”が必要だった……?)
思考の流れにひたりながらも、春蘭は与えられた部屋へと案内されていく。
その途中で聞こえたのは、女たちのすすり泣き。
華やかな帳の奥に隠された、乳児の遺体を包む白布。
それが、彼女の“最初の症例”だった。
「……お前が、あの“辺境の女医”か」
金色の印のついた衣をまとう若い宦官が、鋭く春蘭を見下ろす。
「これより、第四后・玉環の寝宮へ。乳児の死の件、お前の目で診ろと仰せだ」
春蘭は一歩踏み出した。
視線の奥には冷静な火が灯っている。
香の匂いにも呪術にも、目を惑わされはしない。
彼女が見るのは――筋と因果。
そこに、人を殺す“病”があるならば。
それを診て、見抜いて、暴く。
それが、彼女の“医”だった。