6話 オオカミ少女と魔法の国
◇◇◇
「じゃあまずは、ここから出ようか」
頭を下げ、はっきりと入学することを示した少女に、ラブリュスは言った。
「君ももう、こんなところにはいたくないだろ?」
「そうですね」
冷たい鉄の部屋を見渡して、少女も頷く。
意見が一致したところで、三人はその外へ足を踏み出した。
ずっと気づかなかったが、主に研究や実験に使われていた広い部屋は、全く以ってめちゃくちゃだった。
しわの寄った書きかけのメモや小難しい表の印刷された資料、壁に張られていた写真や新聞記事に、動物たちが入れられていたケージに、無数の実験器具と薬品。そういうものが全部壊され、あるべきところから引き剥がされて、形も残らぬほど破かれ砕かれている。
まるで、吹き荒れる巨大な嵐がここを通ったような。そんな惨状だった。
そして、何より目を引くのは。
一人残らず倒れ伏し、揃って気を失う研究員たちである。
「………」
もう情などないとは言えどやっぱり衝撃的で、少女は思わずぽかんとしてそれを見つめた。
ちらり隣を見やると、何だかラブリュスが不服そうだった。憎々しげな目線を見る限り、どうやら彼が犯人であるらしい。そう言えば少女とラブリュスたちが会う前に、外で乱闘のような物音はしていた気がする。
聞けばそれは、『高貴なる校長の右腕』な自分たちを研究対象と見たことでラブリュスの怒りを買ってしまったらしいここの研究員たちに、彼が制裁を与えた音だったらしかった。
見た目によらずプライド高めのようである。
「全く、僕らみたいな位の高い魔物を研究に使おうなんて!無礼にも程があるんだよ!」
憤慨したように唸り、人間たちを蹴り飛ばして進むラブリュス。流石に複雑である。
「………」
否定も肯定もできず黙る少女をちらりと見て、グラウクスが言った。
「……ラブリュス。あなた、引かれてますよ。かなり」
「ええ!引かないで!」
指摘されて慌てたラブリュスが悲痛な声を上げたが、少女にはどうすることもできなかった。
しかしわかったことが一つ。
ラブリュスを怒らせてはいけないということである。
静まり返ったプレハブを出る。
まさかこの建物から出られる日が来るなんて思ってもみなかった。ここで命果てるまで研究員たちの実験動物であり続けるのだろうと諦めかけていた部分もあったから。
改めて隣のフクロウとオオカミを見る。
彼らは少女の救世主だ。きっといつか、二人にはたくさんお礼をしなくてはならない。
さて、外に出ると、グラウクスは夜の森へ躍り出て森の少し開けたところまで飛んでいった。月に照らされた小さな原っぱに足をつけ、くるんと振り返る。
「じゃあそろそろ、ハルタに行きますよ。ラブリュスとあなたは、私に掴まってください。決してはぐれないように」
「わかりました」
少女は頷いて、グラウクスの大きな翼をそっと噛んだ。
ラブリュスは思いっきり噛み付いてしまい、「これから転移魔法を使おうっていうのに、そんな馬鹿みたいな力で噛むやつがありますか!置いていきますよ!」と怒られていた。
やいやい騒ぎながらも準備を整えたところで、グラウクスはぶつぶつと呪文を呟き始めた。
すると草の地面に、夜に似つかわしくない、眩しく輝く魔法陣が描かれる。
全く圧巻の光景だ。
「ハルタまで行くのはグラウクスさんの役目なんですね。敵を倒したのはラブリュスさんみたいだったけど」
少女は囁いた。ラブリュスはえへへ、と笑う。
「僕は攻撃魔法が得意なんだ。でもそれ以外は苦手でね、こういう気を使うような魔法とか頭を使う説明とかは、全部グラウクスに任せてるんだよ。ここの言語……にほんご、だっけ?それも僕、最近話せるようになったし。僕はあんまり頭はよくないんだ」
確かにグラウクスの流暢な言葉に比べ、ラブリュスの喋る日本語は少し拙いかもしれない。いつ自分の存在を知ったか知らないが、少女とこの二人が会話できるのは『ハルタ』なる国の公用語が日本語な訳では当然なく、事前に練習していたからに過ぎないのだろう。英語のリーディングやライティングはともかくとしてスピーキングは苦手だった少女からしたら、ラブリュスも十分すぎるほどすごいのだが。
とにかく、この二人はそれぞれ得意分野が異なるらしい。
グラウクスは頭脳派で、ラブリュスは肉体派。口論を交わすようで仲良くなさげに見せながらも、きっと二人はお互いに支え合って立っているのだろう。なんと素敵な関係だろうか。
さて、そんな雑談を交わすうち、呪文も終わりに近づいてきたようだ。魔法陣の光が強くなり、視界が光に遮られる。眩しくて目を瞑った。
「私から離れてはいけませんよ!」
そんな声が隣から聞こえた。
ふわり、と襲う浮遊感。
しかしすぐに消えて、足が地面につく。
「もう大丈夫ですよ。ぜひ目を開けて、ハルタの街並みをご覧になってくださいな」
そう促され、少女は目を開けた。
途端、童話的で幻想的な景色が目に飛び込んできた。
そこはまだ白い雪の残る、西洋風の街であった。街灯の光と銀の月にぼんやりと照らされた夜闇の中に、小さくかわいらしいレンガ作りの家々が並ぶ。夜になったばかりなのか夕ご飯の温かい香りが鼻腔をかすめ、煙突の煙が夜空にたなびいていた。
そして、その中で飛び交うフクロウや路地に消える猫、道の端に積み上げられた薬の鍋や立てかけられた箒たちが、ここが魔法の街であることをそっと示している。普通の街だと猫はともかくフクロウなんて滅多に見られないし、箒はあんなに装飾品で飾られていないし、鍋があちこちで見受けられることもないからだ。
そこはまさしく、魔法の国の、魔法の街であった。
「すごい……綺麗なところですね」
少女は呟いた。
「そうでしょう。ハルタはとっても素敵なところなんです」
グラウクスが胸を張った。
ここで改めて、ハルタの説明をしよう。
ハルタ王国。二千万人足らずの魔法族のひとびとが暮らす、魔法使いの国。魔法を使わない非魔法族と呼ばれる人間たちの住む世界とは明確に隔離されており、どこを探しても見つけられないような魔法がかけられている。
首都は王城のあるウルフィード、公用語は独特の言語であるハルタ語。しっかりとした四季がある温帯に似た気候で、冬は特に冷え込み辺りは雪景色と化す。あまり工業が発展している国でなく(そもそも魔法でものを作れてしまう魔法の国に工業という考え方はあまりないのだが)、麦畑や森が国土の半分を占める田舎国であるらしい。
そして、そんな長閑なハルタであるわけだが、何より誇れるものが一つ。
それが、グラウクスやラブリュスの家であり職場であり、そして今から少女が入学する『アテナ魔法学校』である。
アテナ魔法学校といえば、魔法族の間では赤子も知っていると言われる超名門校。世界的に見ても最高水準の魔法の敎育を施す、屈指のエリート校である。
そのため受験シーズン(ちょうど今頃の時期であるらしい)には国内外から数多くの入学希望者が集まり受験をする。しかし、いかんせんその入試問題の難易度から殆どの受験者が落ちてしまって、最終的に一学年に数人しかいないという異常事態が起こるのだとか。まあ毎回のことらしいので、アテナのひとたちからすれば異常でもなんでもない訳であるが。
そんな学校に、魔法初心者の少女は入学しようという訳である。
「イヤ……やっぱ無理……落ちこぼれる未来しか見えない……」
正直想像以上にアテナがすごい学校だったことを知り、今更絶望する少女。
確かに少女は、頭は悪くない。小中学校では終始優秀な成績を修めて卒業し、高校に行く間も決して落ちこぼれはしなかった。
それでも、それでもである。
頭の良さと魔法の出来不出来には、なんの関係性だってないのである。
そんな今日魔法の存在を知りました、魔法学校何それ美味しいのみたいな少女がアテナみたいな名門校に入ったらどうなるか。サル以上の頭があればわかるだろう。
弱音を吐く少女の頭を、グラウクスは翼でよしよしと撫でた。
「まあまあ。尻込みするのはわかりますが、元気を出してください。私たちはあなたに才能があると確信した上で、あなたをスカウトしたのですよ」
そう言われて、「無理ですよ、わたし魔法のこと何も知らない……」とぼやいたところで、あれ、と思う。顔を上げて、こてんと首を傾げた。
「そういえば……さっき、アテナには受験して受かったひとが入学するって言ってましたよね?」
「言いましたね」
「わたしの受験日はいつなんですか?」
「受験?あなたにはありませんが?」
「は?」
「ん?」
飄々と答えるグラウクスと、きょとんとする少女。
二人で見つめ合う奇妙な時間が流れた。
「君はスカウトなの!スカウトは受験がいらないんだよ!」
黙ってしまった二人に、ラブリュスが口を挟む。
その言葉に驚き、少女は目を瞠ってラブリュスを見上げた。
「えっ、どういうことですか?」
思わず聞き返すと、ラブリュスは自慢げに教えてくれた。
「スカウトはね、僕ら学校側が『うちに来てください』っていうものなんだ。こっちが君の才能を見込んでやるものだから受験がなくても入学できるし、ついでにお願いしてるんだからお金もいらないんだよ」
「そ、そうなんですね……」
少女はおっかなびっくり頷いた。
そんなに都合がいいことってあるのだろうか。もちろん受験をしたところで魔法に関する情報は皆無なので落ちるのは目に見えているし、現在進行形で天涯孤独の孤児であるので助かるのだが。
本当にそんなこと許されていいのかな……としばし考えたところで。
(まあ、ラブリュスさんがいいって言ってるんだからいっか)
思考を放棄する。
そもそも今は予想外なことだらけで、そんなに頭が回っていないのだ。本人がいいと言うなら、こっちにとったって都合はいいのだからわざわざ否定する必要性もない。
そう自己解決したところで、グラウクスが少女の頭の上にとまった。
「まあ、外でのおしゃべりはこの辺りにして、近くにお宿があるのでそこに行きましょうか」
翼で街の一角を指差す。その先に少し大きめのレンガの家があった。あれがお宿だろうか。
「あなたも疲れているでしょうし、夜になるとお店も閉まってしまうので入学のための買い物もできないんですよね」
その言葉に少女も頷く。
「そっか。文房具とか買わないといけないですよね。……あの、言いにくいんですけどお金を持ってないので、出世払いでいいですか……?」
「出世払いなんて。私たちが出しますよ。入学の餞とでも思ってくださいな」
少女が恐る恐る言うと、グラウクスはぱたぱたと翼を振ってそう言ってくれた。太っ腹である。
お宿について部屋をとると(グラウクスとラブリュスの存在は相当有名らしく、お宿の管理人さんたちはものすごく動揺していた)、三人で食事を囲み入浴をした。
久しぶりにお腹を満たし、体も清潔になったところで、寝る前に少し雑談でもしようとベッドの上で向かい合う。
グラウクスとラブリュスは、ハルタやアテナのことをたくさん教えてくれた。学食のパイやケーキがとっても美味しいこと、アテナの制服は学校ができた300年以上前から何も変わっていないこと、ペットとしてはフクロウや猫、コウモリが人気なこと。銀の呪いのことも教えてもらった。
少女もまた、日本のことをたくさん話した。まだ自分の家族のことや研究所のことは、トラウマが大き過ぎて話すことができなかったけれど。
「そういえば君、まだ名前を聞いてなかったね」
あまりにも今更に、ラブリュスが言った。君の名前はなあに、と首を傾げる。
「………」
少女は口を開けた。これまで何度も名乗ってきた名前。きっと言えるはず。たった数文字だもの。
でも。
口から漏れるのは、空気ばかりだった。
声にしようとする度、銀の刃に貫かれた傷が、胸に刻みつけられた爪痕が、激しく痛むのだ。蔑むようなその瞳が、ぶつけられた屈辱の言葉が、脳に染み付いて離れない。
何回か名前を言おうと試みて、少女はやがて「……すみません」と頭を下げた。
「名前は、トラウマが大きくて言えなくて」
「そうなんですね」
グラウクスが頷いた。
「それなら、いいんですよ。新しく名前を決めてしまえばいいだけです」
「えっ」
まさかの返答に驚くが、二人は至って真面目なようである。グラウクスが首を傾げて考えた。
「それほど珍しくもなく、かつあなたらしさのある苗字は………そうですね。『ウルフ』なんてどうでしょう」
「『ウルフ』」
少女は反芻する。
グラウクスは翼をはためかせた。
「ええ。狼はあなたに関する言葉ですし。それにオオカミは、ハルタでは『高貴で頭のよい、神聖な生き物』と言われているのですよ」
少女は初めて知る情報に目を丸くする。
どうでしょう?と首を傾げるグラウクスに、
「すごくいいです。ありがとうございます」
少女はこくこく頷いた。
オオカミは好きだし、響きも心地いい。それに、そんないい意味があったなんて知らなかった。英和辞典を引いたときは『ずる賢いひと』とか『狡猾』とか書いてあったのに。ちょっと嬉しい。
気に入ったらしい少女に満足げな声を漏らし、グラウクスは「あとは下の名前ですね」と呟いた。
何かアイデアがないかと思ったのか、片翼を振って空中から分厚い本を取り出して器用に足で捲る。小難しい、明らかに英語ではない言語の文字でびっしりと埋め尽くされたその本は、恐らくハルタ語で書かれているのだろう。
何だかひとにやらせて自分はただ待っているのが申し訳なかったけれど、もともとの名前も忘れている訳ではないだけに自分の新しい名前なんて思いつかない。少女は静かに待っているしかなかった。
やがて黙ってページを繰っていたグラウクスが、いいものを見つけたのか顔を上げた。
「これなんかどうでしょう」
窓から見える月を見上げ、そっと呟く。
「アルテミス」
凛と響く鈴のような、軽やかな響き。
少女は思わず息を止めた。
アルテミス。
聞き覚えはないはずなのに懐かしいような、不思議な気持ちがした。
「アルテミスは月の女神です。美しい見た目を持ち、勇敢で、どんな獣でも従える獣の王であったとか。あなたの思い描く未来と合致しているところもあるのではないですか?」
少女は頷く。
ページに目を落とせば、月の下を弓矢片手に軽やかに駆ける少女が描かれていた。この少女が、きっと月の女神アルテミスなのだろう。
その瞳に宿すのは、まっすぐとした勇気。
少女の何より欲しいものだ。
少女はゆっくりと、新しい名前を噛み締めた。
聞けば聞くほどいい響きで、欠けていたパズルのピースがはまる時のようにしっくりくる感じがする。
「……素敵です。とっても、素敵」
少女は躊躇う余地もなく口にする。
「わたしは、アルテミスだ」
しっかりとした口調で、少女は名乗った。
もう名乗れなくなることはない。少女は今、哀れな人間の少女から希望を抱く魔法使いのたまごへと変わったのだ。
「アルテミス!いいじゃん!」
「気に入っていただけたようで何よりです」
ラブリュスとグラウクスもそう言って微笑む。
「こんなにいい名前をくださって、本当にありがとうございます」
少女────アルテミス・ウルフも、にこり、と美しく笑った。
月の下、勇気と優しさを持って空を駆ける軽やかな女神。
いつかそんなひとになれればと。
アルテミスは夢見る。