4話 オオカミ少女と救いの手
◇◇◇
ナイフを手に刺された日から、随分と時間が経った。
ここに来て、一体何日経っただろうか。そう考えるようなある日。大きな満月が夜を照らすある日。
少女を救うものが現れた。
満月の日、人狼はオオカミの姿になるという習性を持つ。
今日もようやく「研究」が終わって、その習性に従い小さな黒い獣となった少女は旋風のごとく部屋に逃げ込んだ。
戸棚に隠してある凶暴化を抑える薬(人狼薬、と名付けた)を乱暴に口に流して、ベッドの中に潜り込む。血と涙で汚れた夜色の毛皮が細かく震えた。
全身が刺すように痛む。
見れば家族といたときよりももっと痩せてやつれて、全く見る影もなかった。ふっくらとした肉の代わりに全身を覆うのは、艶のないボロ衣のような毛皮と大小様々な傷跡である。
あの研究員たちは、悪魔だ。
そう毒づいた。
こちらの感情も倫理観も何一つ考えてはいない。考えているのは自分のことだけだ。
そもそも、それを今ようやくではなく、初めてここに入って無数の実験動物のケージを見た時点で気づくべきだったのかもしれない。汚れたケージに入れられ、まともな世話もされず衰弱した哀れな動物たちを。
それに、今日聞いてしまったのだ。
『所長、あそこまで恐怖を植え付けてしまったら、いつかここから逃げられてしまうのでは。あいつは魔物である前にオオカミ。獣ですよ』
そんな部下の問いかけに、
『大丈夫だ。策は立ててあるさ』
所長の野村さん────いや、もう『さん』付けも要らないのかもしれない────が述べた答えを。
『あれが大人になって子どもを産める年齢になれば子どもを作らせればいい。もしあれがここから逃げても弱って死んだとしても、子どもを実験に使えばいい話。あいつが大人になるまで飼うことができれば、それでいいのだ』
そう、平然として言うのを。
あれほどあの人間たちを怖いと思ったことはない。
自分だけならよかった。罪悪感を感じていればよかった。
でもあの人間たちにはそれすらない。
どこまでも、自分を利用し利益を得ることしか眼中にないのだ。
そんな人間たちと一緒にいて、少女は気が狂いそうだった。
ここから逃げなきゃ。
ベッドの中で呪いのようにその言葉が頭の中を回る。
ここから逃げて、どこか遠くに。強く強く思う。口から押し殺した唸り声が漏れた。
どうしようか。思いつかない。
でも、ずっとここにいてはいけない。この先に待ち受ける未来のためにも。
強制的に子どもを作らされるなんて、その子どもはこの悪夢のために生を受けるなんて、洒落にならない。
でも。でも、どうやって逃げよう。思いつかない。
ここに来て一ヶ月経っている。そう一晩考えて閃くようなら、とっくにこんなところ出ているのだ。
過去の自分が恨めしい。
でも、人狼から庇ったことが間違いなのかというとそういうことでもなくて。ああ、わたしは何を間違えた。こうならないためにはどんな『正解』を取ればよかったのか。
ああ。
もう、もう、そんなこと、考えてる場合じゃない。ここから出る方法を。何か、この悪夢から目を覚ます方法を。
考えろ、考えろ、考えろ、考えろ────────…………
そのときだった。
「っうわあああああああああああ!!!!」
悲鳴が轟いて、少女は思わずベッドから跳ね起きた。
何だろう……!?
気が動転するも冷静にオオカミの耳をそば立てると、鮮明に音が鼓膜に流れ込んでくる。
研究員の悲鳴。
フラスコが割れる音。
薬品が飛び散る音。
犬のような吠える声。
荒々しい羽ばたき。
外国人の言葉。
所長の怒号。
瓶を並べた棚が倒れる音。
まるで乱闘が起こっているような、激しい音が絶え間なく鼓膜を揺さぶる。
少女は怖くなった。
あの研究員でさえ尻尾を巻くような、もっと怖いひとが現れたのか。
どうしよう。隠れなきゃ。咄嗟に薬の瓶を咥えて毛布の中に潜り込む。前足で抱え込んだ瓶が冷たくて、じわじわと体温を奪っていく。
見つかったら殺されちゃうのかな。
ああ、でも犬を連れてるみたい。動物を飼うひとは優しいひとが多いと聞く。命乞いしたら許してくれるだろうか。
でも、外国人なのか。何人なんだろう。言葉が通じなかったらどうしたらいいのかな。英語しか喋れないよ、わたし。
怖いよ。
まだ、死を恐れないでいられるほど、わたし、大人じゃない。
ああ、まだ死にたくない。
でもここにいるくらいなら死にたい。
でもやっぱり、わたしはまだ生きたい。
そんな埒の明かない言葉がぐるぐると頭の中を回って、どうにもならなくなる。しかし、今はただ、毛布の中で息を潜めるしかなかった。
それしかできることが思いつかなかった。
少しずつ物音がなくなっていって、やがて静かになった。
襲撃者は、去ったのだろうか。
そう思って顔を上げる。
しかし、その考えは間違っていた。
まだ聞こえる音がある。
足音、羽ばたき、外国語。研究員のものではない音たち。
襲撃者が勝利したのだ。
それに気づき、また恐怖がぶり返す。
毛布に固くくるまって、なす術もなく震えた。
と。
たっ、と軽い音を立てて、足音が扉の前に止まった。
羽ばたきもなくなる。
息が詰まった。
すぐ前に、襲撃者はいる。扉を開ければすぐそこに。
それが理解できたから。
少女は前足で頭を抱えて丸まった。
怖い。
何も見たくない。お願いだから、どこかに行って。
そう祈る。
しかし襲撃者は、無情にもこちらへ声を投げかけた。
「……ねえ、そこにいるんでしょう。いるなら、返事してくださいな」
震える耳に飛び込んできた声は────
「私たち、あなたをお助けしに来たのです。ここの扉を開けていいかしら?」
がなるような荒々しい声でも、恐ろしい犬の吠える声でも、聞き覚えのない外国語でもない。
どこまでも優しい響きの、流暢な日本語だった。
少女は黙り込む。
入れていいのか、わからない。助けに来た、なんて、いくらでも口では言える。信じられない。
しかし、相手が返答を待つことはなかった。
ガチャリ、と錠前が外れる音がし、重い音を立てて、扉がゆっくりと開く。
そこには、二人の人物がいた。
「初めまして、オオカミの小さなお嬢さん」
「やっほ!よろしくねっ!」
大人らしく落ち着いた滑らかな声と、場違いなほどに明るく拙い声。
「…………」
少女は黙ったまま辟易した。
その声と、それから、その襲撃者────いや、訪問者の姿にも。
その二人は人間の言語を操りながら、人間とは程遠い姿をしていた。
落ち着いた声の持ち主は、鳥の姿をしていた。
丸い体と顔をして、全身を銀色の柔らかな羽毛で覆った猛禽の鳥。くりくりと丸い瞳はサファイアのような深い青色をしている。
そう、彼女は、フクロウの姿をしていた。
一方の元気な声の持ち主は、獣の姿。
凛と精悍な顔立ちの大きな獣。しなやかで美しい体を金色の毛皮で包み、足には爪、口には牙が生えそろう。ルビーのような赤い瞳は肉食獣の光を宿していた。
そう、彼は、オオカミの姿をしていた。
それが、喋っている。日本語で。
(…………?)
久しぶりに感じる、恐怖以外の感情だった。
動物が喋っている。
鍵も持っていないはずなのに鉄の扉を開けて、そして、自分を助けに来たと語っている。
どこをどう見ても意味がわからなくて、少女は首を傾げた。
するとオオカミが無邪気な声で言った。ひょい、と前足を上げる。
「ほらグラちゃん、あの子びっくりしてるよ。かわいそうだよ」
と、フクロウがくわ、と嘴を開けて威嚇した。
「私をそうやって呼ばないで!……でも、本当、びっくりさせてしまったようですね。ごめんなさい。自己紹介もまだでしたね」
すぐに落ち着きを取り戻したフクロウがバサバサ、と羽を羽ばたかせると、オオカミもきちんとお座りをする。フクロウが胸を張った。
「まず名乗りましょうか。私の名前はグラウクス、それからこのオオカミはラブリュス」
少女は頷いて、先を促した。こちらの名前を問おうとすることなく、フクロウは続ける。
「私たちは、ハルタ王国というところにある学校『アテナ魔法学校』の校長に遣わされて、ここにやってきました」
少女はその静かな声に、黙ったまま相槌を打つ。
ハルタ王国。
義務教育を終え地理の授業もそれなりに受けてきた少女だが、聞いたことのない国名だ。少なくとも地図帳で目にしたことはきっとない。
そしてこのフクロウが口にした、『魔法学校』の言葉。
と、いうことは、まさか…………
「ふふ、貴女、聡いですね。私、頭の切れる子は嫌いじゃないですよ」
息を呑む少女を前に、フクロウは上品に翼を嘴に当てて微笑んだ。
「そう、私たちの家である『アテナ』、そして生まれた国である『ハルタ王国』。これは、魔法の世界にあるのです」
魔法の世界。
その言葉に、少女は静かに瞠目した。