3話 オオカミ少女と幻獣の研究者
少女は白衣の男に手を引かれ、導かれるまま森を歩く。
行くな、行くな、そう吠える声も痛みに脳を灼かれた少女には届かない。
ぼたりぼたりと鮮血を垂らし、血生臭い匂いを纏って。
少女は飼い慣らされた犬のように先を歩いた。
歩きながら男は問いかける。
「君は……何なんだい?犬?」
「いいえ」
少女は首を振った。
彼は自分を救ってくれる。それなら正体を言っても構わない。
そもそももう人間でないことは知られてしまっているのだ。
「わたしは、人狼です」
「………っ」
男は瞠目した。
その顔を少女は無表情で見上げる。
「怖いですか」
「…………」
男は驚いたような顔をしていたが、やがて、ゆるゆると首を振る。
「……いや。怖くない。怖いわけないさ」
その眼鏡の奥の目は、少しずつ光を宿している。輝くような、歓喜の光。
「むしろ、最高だ。本当に君に会えてよかったよ。私はとことん、ついている」
どうして、そんなに嬉しそうなのだろう。
「………」
少女は訝しげな目で男を見つめた。
そのまま歩くこと数分。
「到着だ」
男が立ち止まる。
ついたのは、粗末なプレハブであった。
錆びたトタンとコンクリートでできた、無機質な建物。その近くにはコンビニも店も他の家もなく、完全に木々に囲まれ覆われていた。
「ここは私の職場だよ。泊まり込みで仕事をしてるんだ。粗末に見えると思うけど部屋が一つあるから、君にはそこで寝起きしてもらおうか」
「……寝起き」
少女は反芻した。
男は頷いた。
「ああ。心配はいらないよ、ここで働くのは私だけじゃない。みんなで君の世話はしてあげよう」
ただその代わり、少しだけ私たちの仕事に協力してくれるかい?
その言葉と一緒に、優しく頭を撫でられる。
少女の頭は、もう働いていない。問いかけられるまま、ゆっくりと頷いた。
小屋の中に入る。
中には男と同じような白衣を纏った男女が数人、こちらを見つめていた。
彼らの前に置かれた簡素なテーブルの上には、理科室でしか見ないような実験器具の数々が並んでいる。フラスコやガスバーナー、pH試験紙やびっしりと文字が書かれたメモが机の上にばら撒かれていた。
そしてそれを取り囲むように、たくさんの檻が所狭しと並べられている。中に入っているのは、ネズミにネコ、その他たくさんの動物たちだった。
その光景は、まさしく。
(……研究所)
ここが何なのか、頭の辛うじて動く部分が結論を出す。
この無数の実験器具、そして見回すと目に入る動物のケージ。おそらくここは何かの実験及び研究を行う場所だろう。動物たちはきっと実験動物だ。
一体何の研究をしているのかは推測することしかできないが、メモに書かれている文字や壁に貼られるポスターを見るにおそらく魔法生物だ。描かれた図は一角獣やキマイラ、ドラゴンなどの想像上の動物と言われる生き物ばかり。
まさか幻獣専門の研究所なんて。
実験器具は一式揃えられ、実験動物もたくさんいるが。一体それで結果なんて出るのだろうか。
なんて考えていたとき、とんとん、と肩を叩かれた。
「まずはみんなに自己紹介をして、それから手の治療をしようか」
そう言われて、銀のナイフに貫かれた傷の痛みが戻ってくる。そうだ、ぼーっとしてる場合じゃない。
「わかりました」
少女は頷いた。
その日が終わり、深夜に時間も近くなった頃、少女は与えられた部屋に戻った。
見た目は、部屋というより牢獄だ。分厚い鉄でできていて、扉には鉄格子がついている。自分だからいいが、これを客に使わせるつもりだったのか。
しかし中は割とまともで、ベッドと簡素なテーブル、最低限の家具があった。トイレと浴室もあり、とりあえず生きるのに困ることはなさそうである。
「……疲れた」
少女はベッドの上に倒れ込んだ。首につけられた分厚い首輪が重い音を立て、灰色のくすんだ天井が視界いっぱいに映った。
ナイフに貫かれた傷に包帯を巻いてもらったあと、少女はここのひとの証であるらしい首輪をつけられた。お札の貼られた、不思議な首輪だ。がちゃん、と首に重みが加わると、急にぐっと苦しくなる。胸の中でオオカミが苦しげに吠えた。
首にものが触れているから、息苦しいのだろうか。
「あの、これ」
少女は首輪をつけた男を見上げた。男は優しく言った。
「それは、君がここの子だって印だよ。勝手に外さないようにね」
自分より強い男に、少女は逆らえない。静かに頷いた。
それから、少女はついさっきまで研究所のひとたちと一緒に過ごしていた。これからお世話になるのだし、自己紹介や距離を縮めるのも大事かな、と思ったのだ。
研究所のひとたちはみんな優しかった。田村さんに浜崎さん、下川さんに松岡さんに、エトセトラエトセトラ。さっき助けに来てくれた眼鏡の男性は野村さんと言うらしい。
みんな自分が幼い見た目をしているからかとてもよくしてもらったし、少女も少し話をしたが、名前だけは名乗れなかった。あの、自分のことを「化け物」と呼んだ目を思い出してしまうから。どうしても口が動いてくれないのだ。
それでさっき、「もう寝た方がいいよ。おやすみ」と言われここに戻ってきたわけだが。
あれだけ優しくしてもらったのに、自分の中に住むオオカミは囁いているのだ。
ここは危険だ、逃げろ、と。
(そんなこと言ったって……ここがどこかも分からないのに、逃げるあてなんてないよ)
このオオカミは、自分の味方だ。それでも、その言葉に頷けないときもある。そもそもこのオオカミの幻想の言葉に、根拠など何もない。
ああ、疲れた。
少女は息を吐いて、考えるのをやめた。毛布にくるまり目を閉じる。
手の痛みは、いくらかましになっている気がした。
◇◇◇
数日が経った。
少女はここのひとが優しいなんてことは、全くの嘘だったと早々に知った。
悪夢が始まったのは、あの夜の次の日。
朝ごはんを食べて服を着替えた時、背の高い女性が扉を開けてやってきた。名前は確か、村田さんだったはずだ。
村田さんは言った。
「今日からちょっと、私たちの研究に協力してもらうから。あとで部屋に行くから、そこで待ってて」
「わかりました」
少女は頷いた。
そう言えばここは、キマイラなどの幻獣の研究をしているのだったな、と思う。そんな研究所に幻獣の一種である人狼が転がり込んできたのなら、研究に使わない手はないだろう。こちらだって面倒を見てもらっている身、協力するのが道理に違いない。
まあ痛いのは嫌だな、と臆病な少女は思ったけれど。
しかし女性は言った。
「大丈夫よ。今日は、痛くしないわ」
含みのある言い方だった。
それから程なくして、ぞろぞろと研究員がやってきた。みんなでやってきて、暇なのだろうか。
首を傾げたところで一人の男性────確か、田村さんだったはず────が近寄ってきた。
取り出したのは、ロープ。
徐に取り出したそれで、田村さんは少女の手首を縛った。
(え…………)
すっ、と恐怖で背筋が冷えていく感覚がした。
怖い。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
怖い。
上目遣いに田村さんを見上げた。
「……何、するんですか」
田村さんは表情を変えなかった。
「何って、研究だよ」
怖い。
研究って、何するんだろう。
「まあどちらかと言えば、今日は観察かもしれないけれど」
観察って、なんだろう。
怖い。
少女は後ずさった。自分の近くであのオオカミが唸っている気がした。
「やめて……来ないで」
震える声で訴え後ずさるも、背中に当たる冷たい壁。
行き止まり。
どうしよう。逃げられない。縄抜けの方法なんて知らない。
怖い。
来ないで。
「大丈夫だって。痛くしないと言ったろう?」
田村さん────いや、田村さんだけじゃない、みんな、笑みを浮かべていた。
獲物を追い詰めた虎みたいな笑みだ。
その骨張った手が服を掴んだ。引っ張って、脱がそうとする。
観察、がどういうことか理解できぬほど、少女は頭も悪くない。無垢でもない。
恐怖が頭を支配した。
何も考えられない。
やめて!
怖い!
来ないで!
お願い!
来ないで────────
こんなのは、まだ序の口だった。
次の日は、椅子に座らされ電気を流された。
電気椅子だった。コードを繋がれ火花に打たれるのは、苦痛でしかなかった。
やめて!
お願い!
吠えても相手は、笑うだけ。
次の日は、注射で薬剤を打たれた。
劇薬だった。頭の中がぐるぐるになって気持ち悪くて、何度もえずいた。
ごめんなさい!
許して!
吠えても相手は、笑うだけ。
その次の日も、その次も、その次も────
少女はただ苦痛に喘ぎ悶え苦しんだ。
涙を流して抵抗しても、小さな子オオカミの姿となって部屋の隅に隠れても、その魔の手から逃れられる日は一度としてなかった。
脳が灼けつくような苦しみに苛まれる度、少女は叫んだ。
どうして。わたし、悪いことなんてしてない。
どうして。誰も助けに来てくれないの。
どうして。そんな酷いことするの。
いくら問うても答えが返ってくることはない。
あの部屋から出るのが、ベッドに入って朝を待つのが、怖くて仕方なかった。
まさしく、悪夢の日々。
生きているのか死んでいるのかわからないほど苦しいのに、きちんと心臓は拍動していて、苦痛を明確に伝えてくる。
寝ても覚めても真っ暗闇の夜のようなのに、きっちりと毎日太陽が昇って、終わらない悪夢がまた始まる。
苦痛の毎日、恐怖の毎日。
朝が怖い。ひとが怖い。足音が怖い。笑い声が怖い。目に映る、全てが怖い────。
そんな、悪夢の日々。
そんな覚めることのできない夢に、終止符を打つ存在が現れた。