2話 オオカミ少女と銀の呪い
◇◇◇
小さな診療所にて。
心霊系の症状も診察するという医者は、少女を人狼だと判断した。
「人間が人狼に咬まれたことでそれが感染る、なんて話は聞いたことないですが……魔法の生き物に関してはわかっていないことの方が多いですからね」
医者は色素の薄い瞳で、少女の色違いの瞳を見つめ返した。
人狼。
半人半狼の、夜に生きる魔物。
人間とオオカミ、そしてそれが合わさった魔物の三つの姿を持ち、鋭い爪と牙、それから三角形の耳と尻尾、それから人間に酷似した体つきを持つ。
そして何よりの特徴は、満月の夜だけ現れるその特徴である。
一つは、満月の日は人間の姿も魔物の姿もとれず、一匹のただのオオカミの姿にしかなれないこと。
どれだけ大人しく無害な人狼でも────そんな人狼がいるのかどうかは別として────、満月の光を浴びてしまえばもうその理性も無くなってしまうこと。
友達だろうが家族だろうが、ただの血に飢えた獣となって人間に牙を剥くのだ。
聞けば、この人間の世界にも人狼はわずかに生息しているという。
昔から文献に残されてきたのもその証拠。ただこの人間の姿で暮らすものたちは耳も尻尾もない────今の少女よりももっと人間に近い姿をとることができるので、見つけるのは困難を極めるようだ。
今回少女を襲ったのも、そういったような町でひっそりと暮らす人狼だったのだろう、と医者は述べた。
バン、と傍らの机を叩き、母親が立ち上がった。
「そんなっ!元に……人間に戻る方法はないのですか!!」
しかし医者はけんもほろろに首を振る。
「私は存じ得ませんね。文献にも残されてはいませんし、何より普通の人間だった者が人狼になるなど初めての事態ですから。元に戻るのは、諦めた方が賢明かと」
存じ得ない、とは言っているが、要するにそんな方法はないのだろう。
少女はそう思った。
家に帰って鏡を覗いた時こそ言葉を失ったものの、今の少女はそこまで────少なくとも彼女の母親に比べれば少しも落胆していなかった。
自分が既に人間でないことなど知っていたし、予想もある程度ついていたためそこまでの衝撃もない。読書好きが功を奏したのだろう。
それに彼は『人狼は人間の町で潜んで暮らしている』と言った。つまり、このままの生活は続けられる、ということだ。他の人狼たちはそれを成し遂げているのだから。
そして現に少女は早くも力を使いこなし、あの事件が起こる前と何ら変わりのない姿をとっている。心配ごとは皆無に等しく、強いて言うなら満月の日はどうしようか、とか、髪と目の色はどうしよう、と言うくらいだった。
何より今少女は、何かに守られている気がするのだ。
人狼に咬みつかれたあの瞬間から、ずっと自分のそばにつくその何か。時に家族を守るよう命じ、時に自分の功績を誇れと囁き、見えない体で少女を守っている。
その何かは、銀色のオオカミの姿をしている、と漠然と感じた。
当然その姿は少女には見えない。そもそも存在しないのであり、そんな気がするというだけでしかない。
それでも少女はそんな気がした。
少女が高校生になるよりもずっと前、名も持たぬただの赤子だった頃から、見えないなりにそっと自分を守ってくれていた優しいオオカミだ。
そんなオオカミに、大丈夫、大丈夫、僕が守ってあげるから、と頬ずりされているような気がして。
少女は気を正常に保ったままそこにいた。
母親は頭を抱えていた。
大きく目を見開き髪を掻きむしるその姿は、自分よりよっぽど化け物じみているとこっそり思った。
狂暴化を抑える薬があるということでそれを医者からもらい、診療所を出た。
帰り道は静寂に包まれていた。その空気はまるでひとが死んだようだった。少女はちゃんと生きていて、心臓は拍動していて、きちんとここに立っているのに。
今の彼らに何を言ったとて無駄だろう。受け入れる時間は必要だ、と他人事のように思った。家族が人間でなくなったと聞かされて、どうして気を動転させられずにいるだろうか。
少女はそんな家族たちを横目で見つめた。
(みんなに何を言われようと反論する気はないし、きっと従うと思うけど……でも、忘れないでほしいな)
オオカミになったとしても、わたしはわたしであること。
中身は変わっていないこと。
果たしてそれを沈んだ顔の三人が覚えていられるのか、それはわからないけれど。
少女は煌々ときらめく月を見上げた。
青銀色の宝石の瞳が、光を反射し輝いた。
◇◇◇
それから生活は変わった。
まず、学校が無くなった。もし学校でオオカミであることが知られたら、との両親の懸念で中退を強いられたのだ。もし学校にいた時にオオカミとなってしまい人間を襲ってしまえば、もう取り返しがつかないのである。
少女は抗わなかった。
それから、もっぱら部屋に閉じ込められるようになった。部屋の作りが曖昧でどれが誰の部屋だと決まっていなかった家の中は、明確に仕切られ少女の部屋ができた。出ることは叶わなくなり、トイレと夜更けの入浴の時のみそのドアの鍵が開けられた。
少女は抗わなかった。
それから、家族四人で食べることがなくなった。部屋の中で一日過ごし与えられた食餌をただ食べる様はまるで家畜のようだと自嘲した。ストレスだろうか、ふっくらしていた体はだんだんと痩せていった。ほとんど運動はしていないのに。
少女は抗わなかった。
抗わなかったのは、嫌ではなかったからではなかった。
ただ、家族が自分を忌避しているのがわかるからこその行動でしかなかった。
それでも、親子間は冷え切っていった。
◇◇◇
その日は唐突に訪れた。
母親が少女の名前を呼んで、こう誘った。
「出かけよう。二人で」
少女は思わず目を見開いた。
出かけよう、なんて。あの日から一度も言われていない。他の家族がどこかへ遊びに行っている時も、少女は一人留守番だった。
それなのに、一体どういう風の吹き回しだろうか。
きょとんと呆けている少女を、母親は見下ろした。
「行かないの?遠出するつもりなのに」
その声にはっと我に返る。今怒らせてはまずい。
「い、行く。待って」
少女は立ち上がった。
やめた方がいい、とそっと囁く声もそのままに。
本当に遠出だった。
せいぜい車で少し遠くの町へ行くだけかと思いきや、電車から新幹線に乗り継いで先へ進む。
今までお出かけで新幹線に乗ったことなどなかった。うちにはペットがいるし学校や仕事もあるしで、遠くまで行くことは難しいからだ。それなのに、気づけば自分の町から遠く離れ来たこともないような田舎の村までやってきていた。
こんなに遠くまで行くなんて、何かあるに違いない。疑念は確信に変わる。
新幹線を降りた母親は、少女の手を握って駅を出た。スマートフォンのマップを開いて、どこかへと向かっていく。
少女は辺りを見回した。目に飛び込んでくる空の青と山の緑、雲の白。いかにも田舎の村という雰囲気だ。
一体こんな────とても失礼にはなってしまうが────辺鄙なところに何の用なのか。
(………)
胸のうちでそっと囁かれたその正解に少女は見て見ぬふりをした。
母親に手を引かれ、緑の道を歩く。木々の隙間から金色の木漏れ日が降り注ぎ、緑の香りが燻る。少女はその中をただ導かれるまま歩いた。
無言だった。少女は何を言っても機嫌を悪くするのではないかと思って口を開けなかったし、母親はこちらを見もしなかった。ただ、手だけは痛いくらいに少女の手のひらを掴んでいた。
最初は葉の緑と、空の青と、木漏れ日の金で構成されていた世界は、だんだんと深い緑一色に塗りつぶされていった。耳に届くのはさわさわと葉の揺れる音から、獣の鳴き声と足音になった。
随分と奥深くにやってきたところで、母親は立ち止まった。辺りは昼間なのにすっかり暗くて、自分と母親以外何もいなかった。隔離されたような空間だった。
手は掴まれたままに、二人は向き合った。
母親は少女の色違いの瞳を見つめた。
沈黙ののち、そっと呟く。
「……ごめんね、──。やっぱり私は、貴女を愛せない」
少女の名前を呼んで、そう告げる。
「うん」
少女は頷いた。そんなこと知っていた。
この旅の目的に気付かぬくらい無垢でも馬鹿でもなかったし、親のことを盲信してもいなかった。
それでも、次の瞬間を想像することはできなかった。
「でも私に貴女は殺せない。────だから、」
母親は申し訳なさそうに呟いて。手に力を込めて。
ぐっ、と力強く引く。
「っ!」
少女は思わず目を瞠るものの、足に力を入れるよりも先に体が傾く。
ガッ!
母親が少女の手に何か突き立てた。
「っ!!」
途端、襲う耐え難い痛み。
かっと手に炎が燃え移りごうごうと火花をあげて燃えだすような、鋭く熱い感覚。
「っああああああああああ!!!!」
少女は咆哮を上げた。
隠していた耳が、尻尾が、牙が、爪が、姿を現す。
耳が荒ぶるように立ち、尻尾が苦しげに燻り、牙の生えた口で吠え、鋭い爪が土を掻き抉った。
感じたことのない痛み。これは一体何か。
母親に掴まれた手を力ずくで振り解き、自身の手のひらを歪む視界の中で捉える。
手に、深々とナイフが突き刺さっていた。
グリップの部分は木でできた、至って普通のナイフ。しかしその刃は、鉄よりも白く鋭い輝きを宿している。
銀の、ナイフだった。
銀の呪い、というものが存在する。
人狼を始めとする魔物にとって、銀は猛毒だった。
白く鋭い輝きは、魔物の心を、魂を、黒く蝕んでいく。
ただ、銀の呪いは、魔物の力を弱めるだけではなかった。明確に魔物へと及ぼす呪いがあった。
銀は、魔物の力を押さえ込み幼体へと戻してしまうのだ。
大きな力を失った、か弱い子どもの魔物に。
「ゔゔゔゔゔゔゔっ!!」
涎を垂らし、痛みに悶える。
そんな少女の体は銀の呪いに従って、みるみる縮んでいった。高校生ほどだった体が中学生に、小学生に、幼稚園児に。どんどん小さくなっていく。
「ひっ……!」
不可解な現象に悲鳴を上げるも、母親はどうすることもできない。足を縺れさせながらその場を後にした。
十五年以上一緒に生きてきた、娘を残して。
唐突に、誰かがナイフに触った。
意気込むような声と共に、手を痛みが貫く。
唸り声が漏れたが一瞬だけで、次の一秒後にはあの鋭い痛みは薄くなっていた。
何かあったのだろうか。
「っは、はっ、は……」
荒い息で唾液を滴らせ、涙に潤んだ色違いの瞳を大きく見開いて、少女は自分の手を再び見つめた。
血塗れの小さな手。呪いでその手のひらはとても高校生のそれではない。幼稚園児の小さな手だった。
そしてその手の甲には、ナイフは刺さっていなかった。
誰かが抜いたのだ。
目を丸くして、その手を見つめていると。
不意に上から声をかけられた。
「大丈夫かい、お嬢ちゃん?」
はっと顔を上げる。
知らない男性がいた。
白衣を纏い、髪を撫で付けている。眼鏡の奥の瞳は理知的な光を宿していた。
その目の中に恐怖はない。強いて言うならば、興味だろうか。
男性は優しい声を出した。
「怪我が酷いね。手当てしてあげるから、こっちにおいで」
優しい言葉。
それを疑う心の余裕など少女にはない。
「………」
こくり、と頷いて、少女はそっと立ち上がった。怪我をしていない方の手で男性の手を握る。
男性はふ、と笑った。
「いい子だ。さあ、行こうか」
手を引いて、そこから連れ出す。
行くな、と囁く声も聞こえない。少女の足はゆらゆらと導かれるまま進んでいく。
ここからが、絶望の始まりだった。