トラウマ
「えー! どうして急にゲロ吐くね!」
リンリンは驚きながらも僕の背中を優しくさすってくれた。
僕は憔悴しつつも口元を拭い、どうにか言葉を絞り出す。
「僕は道場での出来事がトラウマになっていて、女子と関わるとこういう風に体調不良を起こしてしまうんだ」
そうなのだ。
子供のころ、道場で起きた事件は、強烈なトラウマとなって僕に刻み付けられていた。
あれ以来、女子が近くにいるだけで頭が痛くなる。明らかに体が拒絶しているのだ。だから、女子との交流を徹底的に避けてきた。
さすがに嘔吐したのはこれが初めてだけど……改めて、トラウマの強さを再認識した。
とかなんとか言っているうちに、またも吐き気が襲ってくる。
僕はリンリンから逃げるようにその場を去った。
「そういうことだからごめん。僕には関わらないでくれたまえ」
リンリンには申し訳ないけど、また距離を置かせてもらう。それが自分の身を守る手段だ。
幸いリンリンは教室に戻った後、いつも通り素知らぬ顔をして大人しく席に座っていた。
そうリンリンは転校してきたときから、僕のことを気にするそぶりなんて一切見せなかった。
だから今日まで彼女を思い出すこともなかった。
でも二人きりになった途端、態度が豹変した。
人前で男とイチャイチャしない……それも部族の習わしなんだろうか?
あれほど熱烈なアプローチだったから、放課後までずっと警戒していた僕だったが、ついにリンリンは僕に近づいてこなかった。
「ちょっと拍子抜けだ」
帰路、僕は一人呟く。あれほど熱烈なアプローチだったのに。
「まあはっきりと関わらないでくれと伝えたから、当然か」
もったいない気もするが命には代えられない。大げさではなく、もしあんな体調不良が毎日続いたら、貧弱な僕などころりと死んでしまうだろう。
帰宅。
「ただいま」
玄関ドアを開けると、奥から母さんの声。
「おかえり。ごめん平八郎、まだご飯の準備ができてないの」
「うん、大丈夫。今日は疲れたから先にシャワーを浴びるよ」
そう声をかけて僕は脱衣所に直行した。
戸を閉めて、服を脱いでいく。洗面所の鏡に貧弱な体が写る。
見るたび情けない気持ちになる。
ため息をついて、下着に手をかけた次の瞬間。
ひやりとした固いものが僕の喉に触れた。
耳元で、氷のように冷たい声。
「動くな、騒ぐな、暴れたら殺す。わかったらゆっくり二回頷け」
何が起こっているのか状況は全然わからない。
それでも僕の全身の細胞が命の危機を知らせている。
理屈よりも先に僕の首はきっちりと二回、頷いたのだった。
鏡には相変わらず僕が写っている。後ろにいる人物は、僕の背中に完全に隠れて見えない。その手だけが、背中から伸びて僕の喉にナイフを当てている。真っ白で幽霊のような手だった。
「よし、物分かりがいいやつだ」
「何が目的だ」
「俺の要求はリンリンだ。彼女からどんなに言い寄られても、絶対に手を出すな。手を出したら殺す」
俺、ということは男か。その割には、僕を脅す犯人の声は、高く聞こえた。わざと低くしゃべっているような感じもする。
後ろの男がどうしてリンリンと僕を近づかせないようにするのか、理由はわからない。
だがこんな状況ではイエスと言うしかないのだ。
「わかった、約束するよ」
「ふん、当然だ。お前はリンリンにふさわしくない」
首元に触れるナイフの力が強くなった。
「ど、どういうことだよ」
「お前は弱すぎる。リンリンは中国拳法の達人だ。彼女の夫となる人もまた、拳法の達人でなければいけない……だっていうのに姉さんは、部族の習わしだとか古臭いことを言ってこんな貧弱な奴とくっつこうとするなんて……」
後半、早口でぶつぶつ言っていてうまく聞き取れなかった。しかし重要な単語は聞き逃さなかった。
「は? 姉さん?」
「あ、しまっ――」
そのとき、がつん! という鈍い音が洗面所に響き渡った。
それと同時に、首元のナイフも離れて、僕の拘束は解かれた。
とっさに振り向く。
そこには、床に倒れた正体不明の男の子と……それを鬼の形相で見下ろすリンリンが立っていた。
「シャンロン、勝手な真似許さないよ。平八郎に乱暴な真似して、万死に値する」
シャンロンと呼ばれた男子は、慌てた様子で体を起こした。
「そ、そんな! 俺は姉さんのためを想って」
必死に言い訳する彼の姿に、同じ男だっていうのに僕は見惚れてしまった。
リンリンとうり二つの美貌なのだ。ショートカットの少年らしい髪形は、ボーイッシュな女の子っぽくもあって、可愛いらしい。
同年代っぽいが、制服は着ていない。特徴的な中華っぽい服装をしている。
「じ、事情を説明してくれるかな。何が何だかさっぱりだよ」
僕は混乱しながらも聞いた。するとリンリンは、目に涙を溜めて僕に抱き着いてきた。
「ごめんね平八郎。馬鹿な弟がこんな真似して」
「君には姉弟がいたのか!」
「うん、そうだよ。この子は私と双子の弟なの。人見知りで内向的な性格だたから、子供のころからあんまり人前にでなかた」
そ、そうだったのか。全く知らなかった。リンリンと同じ道場に通ってたとき、もしも彼女がもう少し日本語が得意だったら、こういう姉弟がいるとわかっただろうか。
「どうして君の弟が僕を襲うんだい」
僕がそう訊くと、シャンランは猛然と立ち上がって僕に食って掛かった。
「言っただろう! お前は姉さんの旦那に相応しくないんだよ」
「シャンラン、そんなことあなたに関係ない!」
リンリンの制止も振り切ってシャンランはまくしたてる。
「関係あるさ。もしもこいつと姉さんが結婚したら、こいつは俺の兄貴ってことになる。こんな見るからに弱そうなやつを兄と認めることはできないし、何よりうちの家系に弱者の血が混じるのは許せない!」
そう僕を睨みつけるシャンランの瞳には、本物の憎悪が渦巻いていた。
さて、気の強そうな子がでてきましたね。
こういう子がデレデレになる未来、見たくないですか?
私は見たいです(迫真)