実在は有り得ざる認識の虚
特定の誰かの動向について語る、というのはプライバシー保護等の観点から決して好ましいことではないが、とはいえ日常を生きる際に目に映るのは、大抵の場合は特定の実在する誰かの動向で。
語るべき事象は、現に存在し、存在すると見なした何か具象に由来して生じ、その実在性には依存せずにそこに残る。要するに、何かが「在る」と思った時、そこに物理的――あるいは客観的観測可能な事項が在ろうとなかろうと無関係に、みなされたものというのは単にそこに在る。
今日は、そういうことのおはなし。
とはいえ、冒頭に述べた通り、そもそもこの話をするのに至った経路については、一々詳しく説明したりはしない。見ていた対象が著名人ならともかく、特に名も無い(名称を持たない、という意味ではない)一般人の名前を出して語ることに意味はない。
なんなら、ここで私が話に挙げた誰かの実在性もまた、誰にとって明確になるわけでもない。私が存在を知り、名前を知り、声を聞いたことがある誰かが、その事実を以て現に世界に存在することを証明することは出来ない。
そして、誰も興味はない。どうやらそこに何かがいたらしい、という観測的事実のみが分かる範囲で、それが実際何に由来したのか、というのは本質的には誰も知らないのである。それは、我が身ですらも変わらず。
……なんにせよ、人の世の悉は――我々の見なす関心事という概念は、その現象の実在性には直接的に依存せず、どのように感じ、何を思うかのほうにこそ依存して在る、と思われている。
無意識的には「そんなわけはない、私はちゃんと起きていることを見ている」と感じるだろう。それは、多くの場合は単に勘違いだ。
他人の心が分かる、と感じることはないだろうか。
より正確に言えば、相手の行動を見て捉えた際に、その根幹にあった考え方や感情、それがどうして行われたのか、今相手は何を考えているのか――そういった、語られない内面に対する推測だ。
実際「そんなものは出来ない」と思うなら、それはそれでいいと思う。
他人の心中を察するという技術は、社会生活を円滑に進める上で、しばしば重要なものである。これが出来ないものは不適合者である、となる場面が結構に多い。
ただ、それは別に、存在する他者の感情を観測しているわけでも、理解しているわけでもない。あくまでも、社会において認められる範囲での他者の類型に対し、状況別に妥当な行動選択を行っている、ただそれだけだ。
そこに「内面の理解」など必要とされていない。重要なのは、選択が正解を示す範囲に含まれているか、そうでないか。たったそれだけ。他者を価値量として再認識し、極めて機械的に正解の選択を採る――この振る舞いを、口語的に「他人の心を汲む」と言っているだけだ。
……などと、厭世に擦り切れた心が紡ぐ言葉を「捻くれている」と断ずるものも当然に居ることだろうが。
通じ合うとか、分かり合うという言葉を、侵略的な意味合い無しで話す輩を見たことがない。円滑に他者と接する、という原則としてはあるべき付き合いを再現する際に、他者を自身に同調させるという過程が厳に必要な人間には、本質的な意味合いでの協調性は一切ない。
分かるか、分からないか。これが敵と味方を分ける基準になっている人間は、常に相手を分からせる振る舞いを取る。絶対に、他者に譲歩させる。分からない胸中を、分かり得る形式に矯正する。そうでないものを排斥する。
そもそも、自身の心中すら厳密には分かっていないのに、相手の心中が分かるはずがない。それなのに、相手の事を分かったような気持ちになるために、そして自身の事も分かったと思い込むために。我々は、極自然に自身の気持ちに嘘を吐き、相手の気持ちを捻じ曲げるのだ。
そういうのを弁えた上で、分からんものを分からんままに、それでも上手くやっていこう、というのが本当の「配慮」であると思う。分からなくても、むしろ分からないからこそ配慮を要する、それが人の人たる道理ではなかろうか。
そんな感じの、実態のない、結果のみが残る軋轢……不和というものが、思い込みと誤認からしばしば発生する。
もちろん、必ずしもこの世の全ての不和が、ただ思い込みと誤認にのみ由来して生じるという意味ではなく、中には当然なんらかの目的や意図をもって、攻撃によって生じる場合もある。
だが、普通に普通の生き方をしている系において、それがむしろ一般的であるか、というと……多分そうではない、と私は信じている。根拠は当然ない。
結局のところ、概念の実在性というものは、当人がそれを在ると思うかどうかによってのみ確定する。ある一つの物が、仮初の客観的事実としてそこに在ると見なされるためには、その「在る」という想念を、観測可能な多数の人が同じように見なすこと――そして、その物から何かしらの干渉を受けることが必要となる。
干渉を受ける、というとまるでその物自体の自発的意識により、たとえばその物がこちらをぶん殴ってくること等を想像するかもしれないが、ここでは単に「目に見える」ことであるとか、方法を問わず観測した物が、心中に何かしらの想起をもたらすことであるとか、そういったことを指す。
妙にまわりくどい表現ではあるが、普段我々が触れる物理的実存というものは、そういう感覚によって捉えられている。それを、我々は経験的に何ら意識することもなく「そういうもの」だという認識、常識として無意識に取り扱うことが出来る。
勿論、この理解は私のものだ。私だけのもの、という意味ではなく。
私の、私自身の世界観において、物事の実在性という概念は、そのように再解釈された、という意味で。
他の誰かは、そうは思わないかもしれない。
事実、私の定義においては、物事の実在性は、即ち観測可能性に強く依存するものであるとされるため、観測不可能なものは果たしてそこに実在しない、という結論になる。人の観測可能な範囲というのは非常に限定的なものであるため、極論してしまえば視野範囲外――自分自身の後ろ側半分は存在しない、とも言える。
ただ、現実的には、見えないというだけで実在しないわけではない。
ここでいう「観測」は、必ずしも主観的な感覚的知覚のみを指すわけでもない。たとえば人づてに誰かから聞いたこと、何かしらの経路をもって伝え聞いたこと、そのようであるらしいと事前に知っていることというのも、その認識が覆らない限りは「観測されている」事実の範囲に含まれる。
故にこそ、やはり物事の「在る」という概念は、我々が想像するよりも遥かに曖昧で、不確かなものでしかない。絶対不変のものというのは、有り得ても知り得ざる未到の極致だ。
定義周りの話は、そんなもんでよくて。
そこに感じ取れるなにか――より限定的には「悪意」の有無が、しばしば人の世の軋轢の原因となる。では、そもそも悪意とは何なのかということだが、ざっくりとは他者を害しようとする意思である、ということらしい。多分。
悪意が行動の裏に実際に存在するか、というのは想像よりも遥かに不明瞭で、どちらかというとディスコミュニケーションの発端は、誰かの何かがムカつく、という内在の認識が、相手の行動に対する解釈に悪意を見出すことから始まることが多い。
これについては「卵が先か、鶏が先か」という感じにもなるが、人間の感情の機微を先に捉える時、悪意のより本質的な根源というのは、要するに相手がムカつくこと、そして何よりも自分自身が不快であることである。
例外はない。悪意を感じ取る際、相手に対する否定的感情は必ずある。そもそも、相手に対して否定的な感情がない系において、相手の行動に悪意を感じることは不可能と言える。
……恐らくは「そんなことはない」と思うのだろう。意図を以て攻撃をされること、それ自体に自分自身の他者否定が伴うなど、俄かには受け容れ難い結論であるし、論理の飛躍に過ぎないと考えるに違いない。そんな事を言う私、自在圏のオルフレクスの方が間違っていると、やや過剰な不快感を覚える人もいるかもしれない。そこまで不快な人は、これを聞いたから不快だと言うわけではない気もするが。
だが、そこに「悪意がある」と解釈する際には、他者が自身に抱く悪感情の断定が、前提として必要となる。そもそも、そうでなければそれは「悪意」ではないからだ。
人によっては素で知らんことだが、この世に起こる大抵の事象は、別に必ずしも確固たる意志に由来して生じているわけではない。たとえば、人が歩こうと思って足を前に進める際、右足を先に出すか、左足を先に出すかという事には、厳密で確固たる意志が伴うことは、少なくとも稀であるといえる。多くの場合、それはたまたまそうなっている、というだけだ。
ものによって程度の違いはあれど、多くの行動選択には、動機はあっても、明確な理由や意志があるとは言えない。ただ「なんとなく、そうした」事のほうが多い。そんなことはない、私は全てを厳密で明確な意志に基づいて選択している、という人も恐らくはいるだろう。だが、それは「そう思って行っていること」しか見ていないだけなので、単に勘違いでしかない。
それで、誰かの行動が自分自身にとって都合が良くなかった時、誰かに対してムカつくことがある。そういう時に、誰かの行動に悪意を感じ取るわけだ。
……それでも、決してたまたまではなく、明確な意志によって誰かに害されたと感じるのなら、それは悪意があるという事実を信じていることを意味する。誰かに害意を持たれているという事実を認識しているなら、それはそこにある理由を意識的、無意識的に関係なく「理解」していることを指す。
予め言っておくが、私はそれに対して善し悪しを語るつもりはない。現実に起こることというのは、容易に制御や管理出来るものでは有り得ず、私個人が好ましくないと感じたことが、ただ世において同様に好ましくなく、在ることが否定される悪徳となるものではありえない。人には人の意思があって、感情があって、発生する万象への想起と解釈があって、行動があって、結果がある。それを違えることは、何人にも出来はしない。
出来る限り不幸がなくなればいい、と私は願う。それでも、私の願いが他者の自由意思を阻害する要因であることの方が好ましい、などと傲慢極まりない思いを抱きはしない。厳密には、抱いたとしても、私はそれを良しとはしない。良いことも悪いことも、決して断定は出来ないから、許容出来ないことだけをただ否定し、それ以外は消極的にでも認めざるを得ない。私は神ではないので。
兎も角、そこにいる誰かが好ましくないと感じる想念が、何を理由としているかには関係なくそこにあり、あるが故にそれを嫌い、排斥しようとする意思の働きによって、そこに悪意は生じるものだ。
それでも、そこに必ずしも悪意が実在するか、というのは想像よりも不確かなもので。誰かの行動選択が、自身にとって不都合であると感じられる時に、それが悪意に由来する――つまりは「明確にこちらを害する目的で行われた」行為であるかは、その判断が結構な頻度で勘違いになる。
誰かのためを想って行われることが、別の誰かにとっては都合が悪いこともあるし。
誰かのためを想って行うことが、その誰かのためになるとも限らないし。
何よりも、自己利益の追求が、他者の利益を阻害することは稀ではないし。
無くてよかった軋轢というものが、この世にあるとするならば。
それは人の人たる感情が、理屈抜きに至る結論が、実在しないものを認識する、心の作用に由来するのかもしれない。
感情は自己に強く結び付き、切っても離せない大事なものではあるけれど。
だからこそ、考えなくても分かると思うことには強く拘らず、感情が揺らぐ時こそ努めて冷静に、少しだけでもすれ違いの可能性について意識する……そういうのをやってもいいんじゃないか、と不肖私は思うばかり。