『一章』.15 犬悲の回想ー②
「――狼に牙って書いて『狼牙』。すごくカッコいいと思わない? ろー君」
「……なんか、ださい」
「ダサ……ッ⁉︎ うう、わたし的にはかなりかっこいいと思ったんだけれど」
犬童家。
その大きな屋敷の縁側でくつろぐ親子がいた。
一人は三十代の綺麗な母親。
一人は小学生くらいの生意気な顔をした息子。
「でもね、ちゃんと意味があるんだよ?」
「……ふーん」
「あれ? 全然興味が沸かない感じ?」
「別に自分の名前に込められた意味なんてどうでもいいよ。所詮、名前はただの名前だ」
「……ドライだね。今どきの小学生は保冷剤くらいドライだね」
「ちょっと何言ってるのかわからないよ、母さん」
犬童狼牙と、その母である犬童円架。
二人はいつものように、稽古が終わると縁側で憩いの場を設け、笑い合っていた。
犬童家は桃太郎に仕える〈御三家〉の一柱。中でも特に「戦闘に特化した」家系として重宝され、鬼退治でも一番戦果を上げていることで有名だった。
それは、言い換えれば最も戦闘能力が高いことを意味している。
狼牙の母、円架は犬童家の直系ではないが、「子産み」として招かれて、役目を果たすことに成功する。
犬童家が始まって以来の逸材、狼牙を産むという役目を。
「ろー君はね、一番強い男の子なんだよ。桃太郎様のお役にたって、ご先祖様達が叶えることができなかった鬼の討伐を果たすのは、きっとろー君だと私は思うな」
幼少期の狼牙は、この時、円架に言われたことを正しく理解はしていなかった。
と、いうより、できなかった。
桃太郎とか、お伽話だ。
犬の末裔などと言われても、どこかパッとしない。
自分が歴代で一番とか言われても、そんな実感なんて湧かないから、やっぱり腑に落ちないし。
だけど、母が期待の眼差しを向けてくれるなら頑張ろうとも思えた。
厳格で怖い父親よりも、母のために頑張ろうと。
「……まぁ、頑張るよ。めんどくさいけどさ」
「……ふふ。ありがとうね、ろー君」
母の喜ぶ顔が、何よりも嬉しかった。
自分なんかが頑張って、傷を作るくらいで母が幸せになれるなら、どんな犠牲だって払う。
幼い時から、狼牙はそういう風に考えていた。
しかし、転機が訪れる。
それはとある一報。
――母が、〈桃源界〉に召喚され、ボロボロの姿で帰還した。
「なんでですか、父上! 母さんは『犬』の直系じゃないのに、どうして向こうに送られたんですか!」
父親の執務室に急行し、狼牙は問いただした。
本来、円架は〈桃源界〉には送られない。「桃太郎」に関わる眷属の血の家系じゃない限り、絶対にありえないのだ。
だからこそ、この不条理に憤りを隠せなかった。
ボロボロの母を見て、じっとなんてしていられなかったから。
父からどんな言葉が返ってくるのか狼牙は考えーー、
「〈桃源界〉が、役目を終えようとしているからだ」
「……は?」
意味がわからなかった。
役目を終える?
何を言っているんだ?
〈桃源界〉が役目を終えるから、母が傷ついたのか? 今も傷に苦鳴しながら床に伏しているのに? そんな理解もできない理由のせいで、母は苦しんでいるのか?
狼牙は幼いながらも、確かに苛立ちを覚えた。
〈桃源界〉、そして父に。
「……なんで」
「……」
「なんで止めなかった! アンタなら母さんを向こうに送らずに止めることが出来たはずだ! ……いいや。アンタが母さんの代わりに向こうに行けたはずだ! 違うのか、犬童獅子矢!」
怒りを宿した瞳と表情で、狼牙は父である獅子矢を睨んだ。
息子が親に向ける顔じゃないことがわかっているのかどうか。獅子矢は実の子である言及に、あろうことか嘆息で返した。
「お前には関係のないことだ。部屋に戻っていなさい」
「……な」
「聞こえなかったのか? 部屋に戻っていなさい、狼牙」
思わず、だ。
狼牙は下唇を犬歯で噛み切った。
なんだこいつは。
こんなやつが本当に自分の父親なのか。
お前のせいで、母が涙を流したのに。
狼牙は怒りに身を任せるように、力を解放して叫んだ。
母いわく、狼牙の力は歴代最強。
父いわく、狼牙の伽力は《ゲノス》は犬童家では異質だと。
「うぉあああああああ‼︎」
犬童家の伽力は「テリトリー」。
自身が定めた領域内に侵入した『敵意』を排除する能力。
攻撃はテリトリー内に入った瞬間、使用者に当たる前に止まる。
逆に相手に攻撃を加える場合、自身のテリトリー内にある全ての物質を『物理法則を無視』して放つことができる。
本来であれば、『犬』のテリトリーはそこまで強大なモノではなかった。せいぜい、相手の攻撃を察知して反撃を加えることくらいだった。
しかし、敗戦に次ぐ敗戦で、『犬童家』の先祖はゲノスの解釈を広げた。
その結果、犬童家のテリトリーは攻防共に強大な力となった。
狼牙は、その最高傑作。
全てにおいて、他を圧倒する。
……そう言われてきた。
だから、自分の攻撃は絶対に父に当たる。
その鼻っ柱を叩き折ってやる。
「――ひれ伏せ」
「……ッあ!」
ズン! と。
狼牙が爆発的な加速で獅子矢に迫り、拳を振り抜こうとした瞬間だ。
たった一言そう言われた刹那に、狼牙は執務室の床にめり込んだ。まるで真上から高密度の重力に押し潰されたような光景だ。
圧死する。
内臓が潰されそうになり、きりきりと悲鳴を上げている。
「うううううううううう……ッ!」
どれくらい続いたのか。
父からの拷問に近い『圧力』に何もできず、狼牙はただ顔をくしゃくしゃにして泣きながら、奥歯を噛み続けていた。
そうして、全身に走る激痛が終わったことも気づかない狼牙は意識を朦朧とさせながら、執務室から出て行く父の背中を見続けて。
「……お、まえを……。ぜった、いに、許さな、い……」
狼牙の言葉が、獅子矢に届くことはなかった。
△▼△▼△▼△▼
「反対です! この子を〈桃源界〉になんて絶対に行かせません‼」
狼牙を守るように腕の中で抱きしめながら、円架は言った。
円架の傷が癒えて、すぐのことだった。
〈桃源界〉に行って、考えが変わったのだという。
円架は〈桃源界〉で見たすべて、その真実を話した。
神話の中でしか出てこないような「大きな鬼」。
日本の伝承、全国津々浦々に広まる伝説通りの、恐ろしい「赤い鬼」。
一言で言って、絵本の「桃太郎」みたいなメルヘンではない。
あれは、ただの残酷で冷酷な、「現実」だ、と。
「『御三家』のお役目とか、桃太郎の悲願とか、そんなの知りません。あんな地獄に送りたくて、私はこの子を産んだわけじゃない!」
強い声とは裏腹に、その顔は今にも泣き出しそうだった。
円架は『犬童家』の血筋ではない。
「子産み」として招かれた、所詮は外部の人間だ。
桃太郎のことも〈桃源界〉のことも、結局は伝言ゲームのように聞かされただけで、それをそのまま事実として受け止めるしか方法はなかった。
だけど知ってしまった。
『犬童家』の正体を。
だけど知ってしまったのだ。
〈桃源界〉、桃太郎、鬼の邪悪さを。
知ってしまったらもう、あんな、「死」だけが蔓延る世界に、唯一無二の息子を送ることなんて出来やしない。
「何をどう言われても。私は絶対にこの子を……狼牙をあの世界には送らない。例えあなたと敵対しても、私の意見は変わりません!」
『犬童家』の当主である獅子矢に敵対するように、円架は睨みを効かせる。腕の中にいる狼牙は、母の温もりを感じながら、この先のことを考えていた。
〈桃源界〉にはまだ行ったことがない。お役目はまだ継承されていないからだ。個人的にはさっさと行って、積年の恨みとやらを晴らして自由に過ごしたいと思っている。
けれど、母がここまでしてくれているなら、きっと狼牙が向こうに行くことは最大の親不孝になるのだろう。
ならば、狼牙は行かない。
母を泣かせて、母を傷つける世界になんて、行く意味も価値もないから。
――なのに。
「くだらん。貴様の母性本能に突き動かされた動機など、一族にとっては実にどうでもいいことだ。我ら『犬童家』の目的はただ一つ。桃太郎の悲願を達成すること。それ以外の感情など、ただの邪魔でしかない」
「……っ! 自分の子が死地に赴こうとしているんですよ! 傷ついてほしくない、死んでほしくないと願うことは、親として道理じゃないんですか! ……それでもあなたは、父親として「死にに行け」と言うつもりですか⁉︎」
「――無論。それが一族にとって幸なのだ」
話にならなかった。
話にならなすぎて、円架は思わず鼻で笑っていた。
狼牙の目から見ても、獅子矢の思考は異常。目的のためなら、他の犠牲は厭わないという精神性。
全くもって、鬼である。
円架は狼牙に「行くよ」と言うと、獅子矢の執務室から出ようとする。
二人の背中に、声がかかった。
「理想など、所詮は贋作にも勝らない夢想に過ぎない。現実を拒めば拒むほど、犬の牙は喉元へと喰らいつく」
「……それでも。私は狼の牙であろうと、この子を守ります。それが母親としての「お役目」だからです、獅子矢様」
「儚いモノだ」
「キレイなモノだと思います。親が子を、子が親を愛する感情は、とても」
愛されていると、本気でそう思った。
母の腕の中はとても温かくて、安心できて、この人さえいれば他には何もいらないと思えるほどに。
獅子矢はそれ以上何も言うことはなかった。
話にならないと思ったのか、それとも論じる暇なんてないと判断したのか。
ともあれ、円架と狼牙が去っていくのを、彼は止めなかった。
△▼△▼△▼△▼
犬童家を出て、半年が過ぎた。
狼牙と円架は安いアパートを借りて、生活水準は下がったものの、それなりに幸せな生活を送っていた。
〈桃源界〉も桃太郎も、犬童家での鍛錬も何もない。
どこにでもありふれた、親子の幸せが広がっていた。
「ろー君は、これからどうしたい?」
「……これから?」
星が綺麗な夜だった。
ベランダで、二人で星を眺めながらアイスを食べていた時に、ふと円架が訊いてきた。
狼牙は首を傾げて、母の横顔を見る。
「そう、これから。ろー君には沢山の選択肢がある。プロサッカー選手だったり、消防士だったり、お医者さんだったり。とにかく「未来」が輝いているの。……ろー君は、これから『どういう男の子』になりたい?」
「……おれは」
どういう男の子になりたいのか。
そんなこと、今まで考えたこともなかった。
漠然と、狼牙はこのまま犬童家に従って、彼らが望むような男になるのだと考えていたから。
自分が、どういう男になりたいのか。
狼牙はしばらく考えて、アイスが溶けるくらい考えて、口を開いた。
「……おれは、誰かを助けられるような男になりたい。母さんが傷ついた時、何もできなかった自分が嫌だったから。だから、おれは……。照れくさいけど、傷ついてる人がいたら、助けてあげられるような、そんな男になりたい」
まだまだガキの自分に何ができる。
所詮は、落とし物を一緒に探してあげたり、転んで膝を擦りむいた人に絆創膏を貼ってあげられる程度の救いしかしてやれない。
でも、いつか。
もっと強くなって、もっと世界を知って、自分のテリトリーを広げることができたなら。
「……さすが、私の息子ね」
「母さん?」
「ろー君なら、きっとなれるよ。桃太郎なんかよりもずっとすごい、みんなが憧れるヒーローに」
「……うん!」
期待に応えたい。
母が笑顔でそう言ってくれたから。
流星が、夜の空を駆けていくのが見えた。
叶うといいな。
母と、自分の夢が。
――三日後、母が目の前で〈桃源界〉に転送された。
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その衝撃は、計り知れなかった。
昼下がり、母が洗濯物を取り込んでいたら、いきなり筆記体で描かれた『桃』という文字が門のように現れて、開門すると眩い光と共に母を連れ去った。
狼牙はしばし呆然とし、数秒後、母を叫んで呼ぶが当然応答はなく、誰が言ったわけでもなく、犬童家へと向かった。
「父上、父上! 母さんが、母さんが向こうに送られてしまいました! どうして父上じゃなくて、母さんが送られるんですか!」
執務室。
犬童家の関係者に静止を促されるが、それら全てを無視して狼牙は父の部屋のドアを開けた。
ずっと疑問だった。
本来、向こうに送られるのは今代の『犬』である獅子矢でなくてはならない。
もしくは、継承権がある狼牙だ。
全く関係のない母が、円架が〈桃源界〉に送られる道理も理由も、あるはずがないのに。
「〈桃源界〉が、私よりも円架が行く方が適任だと判断したのだ」
革椅子に座り、こちらを見向きもせずに獅子矢はそう言った。
狼牙は肩で息をしながら、意味がわからないとばかりに眉を顰める。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ。それは、〈桃源界〉が限界をむかえた、ということと何か関係があるんですか」
「……」
「……っ! 答えろ! 犬童獅子矢!」
無言。
本当に、興味がない雰囲気。
自分の妻が。
狼牙の母が。
また、あの死地に赴いたと言うのに。
ギリッと奥歯を噛んだ。
どこまで人の心がないんだ。
ぶん殴らないと気が済まない。
狼牙は拳を握ってーー、
「失礼します! 獅子矢様! 奥様が、円架様が〈桃源界〉から帰還されました!」
給仕が扉を勢いよく開けて、開口一発目にそう言った。
獅子矢は振りむかずに「そうか。今行く」とだけ答えたが、それよりも早く狼牙は部屋から飛び出して、母のもとへと向かった。
そして、狼牙の目に飛び込んできたのはーー。
「かあ、さん……?」
「急いで医療室へ運ぶぞ! 止血材を、輸血用血液、生理食塩水を早く持ってこい! 「桃浦家」に至急連絡をして「きび団子」を持ってこさせろ!」
「テリトリーを応用して、円架様の周囲の空間だけを「無菌」にするんだ! 応急の感染症対策には十分だ、早くしろ!」
焦るような声の大洪水だった。
血の匂いが充満し、視界一杯に広がっているのは赤色の地獄。
犬童円架。
彼女の右腕が、肩から無くなっていた。
絶叫はない。円架は気を失っている。
「……あ、ああ」
「狼牙様! こちらへ! 見てはいけません!」
誰かに止められた。
声なんて聞いちゃいなかった。
すべての音が、雑音に聞こえた。
母しか、見えていなかった。
「あ、ああ。ああああああ」
「獅子矢様はまだか!」
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎‼︎‼︎」
……こんな世界なんて。
壊れてしまえばいいと、本気でそう思った。
△▼△▼ △▼△▼
円架は一命を取り留めたが、心が虚な放心状態となってしまった。
桃浦家には何故か「きび団子」はなく、結局円架の腕が再生されることはなかった。
自身の腕がなくなったショックか、それとも〈桃源界〉で体験した地獄のような時間が原因か。
円架の精神は、なくなってしまった。
「……母さん」
円架が眠るベットに寄り添うように座る狼牙が声を発するが、応答はない。
もう、涙も出なかった。
悔しいと思う感情すら、湧かない。
あるのは、ただただ空虚な無力さだけ。
もっと自分が強かったら。
母を守れるくらい、強かったら。
「……おれが」
狼牙は俯いていた顔を上げた。
どうすれば、母を救えるのか。考えて考えて、考え抜いた結果。
彼の中に芽生えたのは、「強さの獲得」だった。
どんな手を使ってでも、必ず母を助ける。
〈桃源界〉も「桃太郎」も、おそらく母の腕を奪ったであろう「鬼」も。
そして、全ての元凶である獅子矢も。
残らず全員ぶち殺す。
……そのためには。
「――「俺」が最強になれば、何も問題はねェンだろ?」
獅子矢の部屋で、狼牙はそう言った。
口調も、態度も、雰囲気も。その全てが小学生とは思えない「凶暴」さに変わっていた。
息子の変化に、さしもの獅子矢も眉を顰めるが、それだけ。
獅子矢は嘆息すると、狼牙から視線を外した。革椅子に座り、読書を始めた。
「好きにしろ。継承権が移るのは十六の年だ。それまでせいぜい足掻くことだな」
「……まずは桃太郎を殺す。その後に鬼を殺す。テメェは最後のメインディッシュに取っておいてやるから、気長に待っときやがれ、クソ野郎」
返答はなかった。
もとより、求めてもいない。
狼牙は確かな殺意だけを残して、獅子矢の部屋から出て行った。
△▼△▼ △▼△▼
――それから、およそ十余年。
円架の容体が良くなることはなく、狼牙は己を鍛え続けた。
そして、十六の年になり。
――犬童狼牙に、『犬』の継承権が渡った。