『いのちだいじに』
何はともあれ、いつまでも他国の領土で立ち話をしているわけにもいくまい。一同は魔獣たちに別れを告げると、凪が寝起きしている屋敷へ移動することになった。
今までの状況は、ライニールとシークヴァルトが所持している魔導具で、リアルタイムで屋敷の者たちに共有されていたという。そのお陰で、ライニールに抱えられた凪が屋敷の玄関ホールへ転移したときには、すでに来客を迎える準備はしっかり整えられていたようだ。花瓶にはいつもより豪華な花が飾られているし、普段は見かけない立派な置物がキラキラと輝いている。
凪がはじめて彼らに保護されたときの対応も素晴らしかったが、もしかしたらこの国の騎士養成学校というのは、ハイレベルなおもてなしスキルも学ぶことができるのだろうか。
それはそれとして――凪は先ほど、景気よくブチギレた挙げ句に、スタンピードまっただ中の異国へ飛んでいったのだ。聖女さま絶対守るマンの集団である魔導騎士団の面々には、きっととんでもない心労をかけてしまったに違いない。
『マクファーレン公爵家丸ごと蟄居大作戦』から戻ったばかりだろうに、まるで疲れた様子もないアイザックに対し、凪は若干ビクビクしながら挨拶をする。
「た……ただいま、戻りました」
「ああ。無事でよかった、ナギ嬢。きみの昔馴染みの子どもたちは、ふたりとも無事だよ。ただ、少女のほうはまだ目が覚めていなくてね。彼らは本部のほうで保護しているから、後で見舞いに行ってやるといい」
「……ありがとう、ございます」
どこまでもにこやかに応じられた上、落ち着いた大人としての気遣いに溢れた配慮までされてしまった。
(うぅ……。叱り飛ばされるより、罪悪感がチクチクするよう……)
なんだか胃の辺りを押さえたい気分になっている間に、シークヴァルトが通信魔導具のコードを交換していたイザークへ、屋敷を覆う魔導防御フィールド解除のタイミングを伝える。それに合わせてザインと、エステファニアを左腕で子ども抱っこにしたイザークが現れた。
アイザックが彼らに向けて、優美な仕草で一礼する。
「ようこそいらっしゃいました。スパーダ王国の聖女。そして、アシェラ傭兵団の方々。私はルジェンダ王国の魔導騎士団団長、アイザック・リヴィングストンと申します」
その挨拶を受け、ザインが一歩前へ進み出た。
「突然の訪問をお許しくださり、感謝いたします。私はアシェラ傭兵団の団長、ザイン・ラーズリー。こちらは部下のイザーク・ナイトレイ。そして、スパーダ王国の聖女、エステファニア・ナダルさまです」
穏やかな空気の中握手を交わしたふたりだったが、この場で最も重要な存在であるスパーダ王国の聖女さまは、ものすごく幸せそうな顔で気絶したままだ。今のエステファニアがどんな夢を見ているにせよ、そこには必ず彼女が愛してやまない魔獣たちが溢れているに違いない。
(うーん……。ここまで夢中になれることがあるって、ちょっと羨ましいかも)
凪はまだエステファニアとほとんど話すことができていないけれど、これほどの情熱を抱けるものがあるというのは、なんだかそれだけで人生が楽しそうだ。
そんなことを呑気に考えていると、アイザックに指示されたソレイユが、キリッとした表情を浮かべて前に進み出る。魔導騎士団には、女性の賓客をプライベートな空間に案内できる者が、今のところソレイユしかいないのだ。仕方のないこととはいえ、彼女にばかり負担が掛かってしまう現状が、なんだか申し訳ない。
ソレイユに案内されたイザークが、エステファニアを抱えて客間へ向かうと、アイザックがザインに向けて穏やかな声を掛ける。
「ザインどのは、どうぞこちらへ。我が国の王妃殿下がお待ちです」
「……は?」
ザインが、思わず、というふうに声を零す。そんな彼に、アイザックは続けて言った。
「アシェラ傭兵団がスパーダ王国の聖女を受け入れるのであれば、ルジェンダ王室は全面的にそのバックアップをさせていただく。それが、国王陛下のご判断です。そして――」
一度言葉を切り、アイザックは静かに告げる。
「叶うのであれば、十六年前にレイラさまをお助けできなかったことについて、王妃殿下から直接ザインどのにお詫び申し上げたいと。もちろん、オーブリー・マクファーレンの実姉である自分に会うのが不快であれば、無理を申し上げるつもりはない。その場合には、自分はすぐに辞去させていただくので、同行している文官長に今後のご要望を伝えてほしいと、王妃殿下より託かっております」
ザインが、言葉もなく立ち尽くす。
どうやらこの屋敷の応接間には、すでにこの国の王妃と文官長という、ものすごくエラい人々が揃っているらしい。凪は、その事実にビビればいいのか、彼らの仕事の早さに驚けばいいのかわからないまま、黙ってザインの答えを待つ。
ややあって、彼は少し掠れた声で口を開いた。
「オーブリー・マクファーレンの所業について、王妃殿下からお詫びいただく道理がございません。ただ、アシェラ傭兵団の団長として、過分なご配慮にお礼申し上げたく思います」
「わかりました、それではご案内いたします。……ああ、申し訳ありません。少しだけお待ちいただけますか」
ザインに断りを入れたアイザックが、凪に視線を移してにこりと笑う。
「ナギ嬢。きみにも、王妃殿下よりお言葉を預かっている。――あなたが聖女である事実を公表するまでは、どうぞ今まで通りの日々をお過ごしください。ご挨拶も心からのお詫びも、いずれそのときが参りましたらさせていただきます、と」
「……はい。わかりました」
きっとこの国の王妃は、自分が直接凪と挨拶をすることで、まだ幼い彼女の心によけいな負担を掛けてしまうことを恐れているのだろう。だからこうして、できるだけそのときを先延ばしにしようとしてくれている。
いまだにその姿も声も知らない、自分の伯母だというこの国の王妃。
会ってみたいか、と言われれば、わからないと答えるしかない相手。
けれど、彼女の息子である王太子は、凪にとても親切にしてくれた。あの彼を育てた女性であるなら、きっといい人なのだろうと思う。
よし、と頷いた凪は、アイザックを見上げて口を開く。
「あの、アイザックさん。わたしからも王妃さまに、伝えていただけますか?」
「もちろん、なんなりと」
穏やかな微笑に促され、少し考えてから凪は言った。
「わたしがこちらで保護されてからずっと、とてもたくさんお気遣いくださっていること、心から感謝しています。ご挨拶できる日が来るのを、楽しみにしています、と」
「了解した。ナギ嬢からの言葉、たしかに王妃さまへ伝えさせてもらうよ」
本当は、少し怖い。一国の王妃というとても立派な仕事をしている女性に挨拶するなど、想像するだけで体が竦む。
けれど、そのときには必ずシークヴァルトとライニールが、自分のそばにいてくれるはずだ。ならば、恐れることなど何もない。
(うん。この国の聖女としてゴハンを食べていくと決めた以上、それに付随するミッションは可能な限りクリアしておいたほうがいいんだろうし……。想像するだけで緊張するけど、今から緊張したって無駄なわけで。王妃さまというか、王宮関係のミッションについては、できるだけ想像しないでおくことにしよう)
凪は、無駄な努力と苦労はキライなのだ。潔く開き直った彼女に、ザインが静かな声をかけてきた。
「ルジェンダ王国の聖女。……きみはここで、とてもよくしてもらっているんだね」
「ハイ。大変よくしていただいておりますが、聖女呼びはやめてください」
反射的にそう返してから、凪はへにょりと眉を下げた。そして考え考え、驚いた顔をしているザインに言う。
「いや、わたしはたしかにこの国の聖女ですし、いずれこのことが公表されたら、ちゃんと聖女業をがんばる覚悟はしているのですけど。魔導騎士団のみなさんに守ってもらってますし、美味しいゴハンも食べさせてもらってますし。でも、ザイン伯父さまに聖女呼びをされるのは……えっと、なんかイヤです」
ひどく曖昧な言いようになってしまったけれど、なんだかイヤなものはイヤなのだ。自分の心情を上手く説明する言葉を見つけられず、むーと顔をしかめた凪の代わりに、ライニールが苦笑まじりの声で口を開いた。
「ザイン伯父上。ナギはすでに、あなたのことを身内と認識しているようです。そのあなたから『ルジェンダ王国の聖女』などと仰々しい呼び方をされるのは、きっと居心地が悪いのでしょう。もしよろしければ、こういった私的な場では、彼女のことをナギと呼んでやっていただけませんか?」
(それ! それだよ兄さん!)
思わず拍手をしたくなるほど、的確に凪の言いたいことを代弁してくれたライニールに、彼女はこくこくと頷いたあとザインを見上げる。
「そんな感じなのですけど、ダメですか? ザイン伯父さま」
「………………ダメ、と、いうわけでは、ないのだけれど」
ひどく困惑した様子のザインに、ライニールがにこりとほほえむ。
「ちなみに、ザイン伯父上。我が魔導騎士団の者たちは、日常生活においてはナギのことを『ナギちゃん』もしくは『ナギ』と呼んでおります」
ザインの頬が、ぴくりと震えた。
「もちろん、どうしても難しいということでしたら、今後も伯父上が納得できる呼び方をなさってくださって構いません。ただしその場合には、私もナギもあなたのことを『アシェラ傭兵団の団長どの』と呼称させていただきますね」
笑みを絶やさないまま告げられたライニールの言葉に、ザインが一瞬で青ざめる。凪は、こてんと首を傾げて口を開いた。
「アシェラ傭兵団の団長どの?」
「すまないわかったライニール、今後はあくまでも私的な場に限ってだが、彼女のことはナギと呼ばせてもらうことにする!」
妙に早口で言い切ったザインに、ライニールがにこにこと楽しげに言う。
「ありがとうございます、ザイン伯父上。――ナギ、そういうことだから、これからもザイン伯父上のことは『ザイン伯父さま』と呼んで差し上げるんだよ」
「うん、わかった」
ライニールへの感謝を込めてほほえみながら答えると、それまで黙っていたシークヴァルトがぼそりと呟く。
「十六年ぶりに再会した伯父が相手でも、容赦なしか……」
そんなシークヴァルトをちらりと見たライニールが、改めてザインに彼を紹介した。
「ザイン伯父上。こちらは、我が魔導騎士団所属のシークヴァルト・ハウエル。現在、ナギの護衛騎士を務めております。どうぞ、お見知りおきを」
「……シークヴァルト?」
どうやら今の今まで、ライニールと凪のことにばかり意識が行っていたらしいザインが、目を見開いてシークヴァルトを見る。
「まさか元、レングラー帝国皇弟の?」
「はい。ナギのことは、自分が命に代えてもお守りいたしますので、どうぞご安心ください」
当然のように語られた言葉に、凪はむっと顔を顰めて言う。
「シークヴァルトさん。一応言っておきますけど、シークヴァルトさんがわたしのせいで死んだりしたら、わたしの魔力は間違いなくフルスロットルで暴走しますよ?」
真顔で言うと、シークヴァルトだけでなくその場にいた人々が揃って硬直した。凪は、そんな人々をぐるりと見回す。
「シークヴァルトさんだけじゃないですよ。兄さんも、アイザックさんも、ほかの魔導騎士団の人たちも同じです。つまり、みなさんの安全にこの国の未来が掛かっているということなので、その辺くれぐれもよろしくお願いしますね」
自分のせいで大切な人が亡くなっても正気でいられるほど、凪の心は頑丈にできていないのだ。彼らには、常に全力で自分の命を大切にしていただきたいものである。