お猫さまの下僕
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落ち着かなく両手を持ち上げたイザークに、エステファニアは首を傾げた。
「父上は、妾がスパーダを出ることについて、ちゃんと国王や王宮の者たちを説得してくださるともおっしゃっていた。特に、おまえが不安に感じることはないと思うが?」
「そ……そうでしょうか?」
彼らのやり取りから、イザークが言うところの『イヤな予感』の正体をうすぼんやりと感じ取ったシークヴァルトは、ものすごく生暖かい気分になってライニールを見た。同時にこちらを見てきた彼と視線が合うと、黙って首を横に振られる。よけいなことは言うな、ということか。
シークヴァルトは、そっと息を吐く。…今までの決して平坦とは言えない人生の中でも、出会ってほんの一時間足らずで、ここまで赤の他人に対して「不憫なやつだなあ」と感じたことはない。
(スパーダの王兄が何を考えているのかなんて、部外者であるオレたちにはサッパリわからねえけど。もし、王兄がイザークどのを『自分の娘の人生を預けられる相手』だと判断して託したんだとしたら――聖女と傭兵が正式なパートナーになった前例って、あったかなあ?)
とはいえ、すべてはわずかな情報からの憶測に過ぎない。やぶ蛇になってもなんだし、やはりここは黙して語らずが正解なのだろう。
実際のところ、もしエステファニアが本当にアシェラ傭兵団に入団するとなれば、スパーダ王国上層部の説得もだが、実務的に様々な問題が生じそうだ。
気になったシークヴァルトは、ライニールに問いかけた。
「たしかアシェラ傭兵団は、創設されてからまだ十年そこそこだったよな。これから連中が聖女を抱えたとしても、聖女の派遣を求めてくる国々との折衝や手続きの調整なんかは、さすがに専門外なんじゃねえか?」
少なくとも、彼らが組織として地脈の乱れに対応するのは、今回がはじめてのはずである。いくらアシェラ傭兵団の現場構成員に腕利きのプロフェッショナルが揃っていても、それを適切に運用できるシステムが構築されていなければ、宝の持ち腐れになりかねない。そこに、『聖女』というイレギュラーにもほどがある要素が加わるとなれば、尚更だ。
「そうだな。まあ、彼らの仕事ぶりからして、相当に優秀な事務方が揃っていることは間違いなさそうだが。聖女派遣事業の統括管理となると――うん。ちょっと想像しただけで、気分が悪くなってきた」
妙に爽やかな笑顔で言い切ったライニールは、かつて学生の身分でありながら、ルジェンダ王国の筆頭公爵家を問題なく舵取りしてきた男である。その彼が、想像することさえ拒否する聖女派遣事業の統括管理とは、いったいどれほど面倒くさいものなのだろう。今後、アシェラ傭兵団がエステファニアを迎えることになったなら、事務方の者たちは相当な苦労をすることになりそうだ。
完全に他人事ながら、なんだか大変そうだなと思っていると、イザークが首から上だけでぐりんとこちらを向いた。怖い。
「……ルジェンダ王国の方々。ここでこうしてお会いできたのも、何かの縁です」
そしてどこか虚ろな様子でそう言うなり、イザークはいきなりその場で五体投地した。一体何事、とどん引きしたシークヴァルトとライニールに、彼はやたらと張りのある大声で言う。
「突然の上に、非常に厚かましいお願いを申し訳ありません! ただ、もし……もし、これから本当に、エステファニアさまがアシェラ傭兵団に入団されることになった場合、なのですが! 貴国の優秀な文官の方々を、我らの臨時指導員としてお招きさせていただくわけには参りませんでしょうか!」
(えー)
ルジェンダ王国にも、アシェラ傭兵団の拠点はいくつかある。だが、何かの巡り合わせなのか、それとも拠点責任者の方針なのか、彼らはあまりルジェンダ王国の貴族階級からの仕事は請けていない。
他国では、むしろ積極的に貴族階級との繋がりを深めていることから、ルジェンダ王国の貴族とアシェラ傭兵団上層部との間で、なんらかのトラブルがあったのではないか、という噂もある。もっとも、そういった事実は公には一切確認されていないため、あくまでも噂の域を出ていない。
そもそも、通常貴族の家では、それぞれが独自に教育した私兵を抱えていることが多いため、傭兵を雇う必要性が低いのである。他国でアシェラ傭兵団が貴族階級から受けている仕事というのも、上流階級の女性や子どもの護衛任務がメインだという。エステファニアとイザークの縁も、話に聞くアシェラ傭兵団の有能さを考えれば、納得である。
だが、ルジェンダ王国では貴族たちが抱えている私兵の質も量も、他国に比べるとかなり高い。
ルジェンダ王国が誇る、天然の良港や豊かな穀倉地の広がる平原、良質な魔導鉱石を産出する鉱山。
それらはみな、国民に豊かな生活をもたらすのと同時に、他国からの侵略者を引き寄せる種にもなってしまう。そのため、各地を統括し、治安を維持する責任を持つ貴族の家では、どうしても自衛のための戦力が必要となるのだ。
もちろん、そういった私兵の数や練度、配備状況については、王宮への詳細な報告が必須となっていた。優秀な私兵は外敵への備えとして必須だが、それが内乱の元となっては本末転倒だからだ。そうならないためのチェック体制は、厳しく徹底されている。
その一方で、ルジェンダ王国内においても、アシェラ傭兵団の評価は非常に高い。実力の確かさはもちろん、傭兵という少々荒っぽいイメージを根底から覆すほど、アシェラ傭兵団の構成員たちの立ち居振る舞いは洗練されているという。平民階級の富裕層の間では、彼らを護衛に雇うことがステイタスになっているとも聞いている。
もしアシェラ傭兵団が、国ごとに異なる経営戦略を立てているのだとしたら、少なくともルジェンダ王国におけるそれは、大いに成功していると言えるだろう。
とはいえ、今までアシェラ傭兵団とルジェンダ王国上層部の間に、これといったパイプがないことは、紛れもない事実だ。それなのに、突然文官の――しかも、聖女派遣事業を担えるほどの上級文官の派遣を要請されても、王宮側も困るばかりに違いない。
一瞬、イザークが錯乱したのかとも思ったが、どうやら彼は本気で言っているように見える。シークヴァルトが困惑していると、少し考えるようにしてからライニールが口を開いた。
「残念ですが、イザークどの。我らには、その件について回答する権限を持ち合わせておりません。しかし――」
にこりと笑って、ライニールは言う。
「たしかに、これは何かのご縁。もしアシェラ傭兵団から我が国に対し、聖女さまに関することでなんらかのご要望があった場合には、イザークどのの名で私にご連絡ください。ルジェンダ王国魔導騎士団副団長の名において、ご協力は惜しみませんよ」
「あ……ありがとうございます!」
心底ほっとした様子のイザークが、顔を上げる。ライニールは笑みを消さないまま、どこまでも穏やかな声で続けた。
「いえ、礼には及びません。エステファニアさまのアシェラ傭兵団入団については、お父君の許可がおありとのことですし、所属国がスパーダ王国であるということには変わらないと言えましょう。今後、エステファニアさまが他国で活動される場合には、その報酬の配分についてきちんとスパーダ王国側と協議なさってくださいね。いくらエステファニアさまが家出同然に祖国から出奔されてきたとはいえ、スパーダという『国』が後見についているか否かで、他国からの見る目がまったく違って参ります。万が一にも、スパーダ王国との合意のないまま、公に聖女としての活動などなさいませんように。聖女に関する大陸国際条約が適用されるのは、あくまでも条約加盟国に所属する聖女である、ということをお忘れなきよう」
「………………ハイ。我が団の事務を統括する者に、そのまま伝えさせていただきます」
ライニールの助言に、イザークが死んだ魚のような目になって頷く。どうやら彼は、傭兵としては優秀でも事務作業は不得手らしい。常日頃から、報告書の作成に四苦八苦しているシークヴァルトは、ものすごく親近感を覚えた。
そこで、エステファニアがふむ、と腕組みをする。
「なるほど。野良聖女では、いつどこの国の者に、保護という名の捕獲をされるかわからなくて危険だぞ、ということか」
(野良聖女て)
シークヴァルトだけでなく、ライニールとイザークも、ものすごく残念なものを見る目をエステファニアに向けてしまった。いくら彼女自身のこととはいえ、もうちょっとほかに言い方があるだろう。
しかし、そんな男たちの視線に気付く様子もなく、エステファニアはけろりと言う。
「まあ、なんだ。そういった難しいことに関しては、ルジェンダ王国の者たちに教えを請えばよいのだろう? ときに副団長どの。ルジェンダ王国では、地脈の乱れの具合はどうなのだ? 便宜を図ってもらう礼に、そちらで『聖歌』が必要な状況があるなら、いくらでも歌わせてもらうぞ」
エステファニアからの無邪気な申し出に、ライニールはふっと笑みを深めた。
「ご配慮ありがとうございます、エステファニアさま。ですが幸い、我が国では今のところそういった問題は起きておりませんので、お気持ちだけ受け取らせていただきます」
ただ――と、ライニールはエステファニアとイザークを順に見る。
「エステファニアさまが正式にアシェラ傭兵団に入団されることになったとしても、聖女をお迎えするための住まいや環境を整えられるまでには、しばしの時間が必要でございましょう。もしよろしければ、そういった諸々の準備が整うまでの間、我が国でエステファニアさまが安全にお過ごしいただける場を提供いたしますが、いかがなさいますか?」
その申し出に、エステファニアが軽やかな口調で応じた。
「貴殿の気遣いはありがたいが、副団長どの。妾はこう見えても、幼い頃から魔獣の生態を研究するため、数え切れないほどフィールドワークに出ているのだぞ。イザークさえいれば、野宿だろうとなんだろうと――」
「少々黙っていていただけますか、エステファニアさま。今のあなたは、現在この大陸で唯一実戦投入可能な聖女なのです。その厳粛にして重すぎる事実を、うっかり忘れないでくださいませ」
エステファニアが言いかけた言葉を、おそらく現在キリキリと胃痛に苛まれているであろうイザークが、容赦なくぶった切る。そして深々とため息を吐いた彼は、へにょりと眉を下げて口をつぐんだエステファニアのほうを見ないまま、ライニールに向き直って口を開く。
「ライニールさま、ありがとうございます。しかし、その件を受けさせていただくか否かについては、自分の判断の分を超えます。申し訳ありませんが、上の者と少々連絡を取らせていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんです」
そうしてライニールに礼を述べたイザークは、通信魔導具を取り出すと同時に、小さな双眼鏡をエステファニアに手渡した。
「どうぞ、エステファニアさま」
「うむ!」
途端に、目をキラキラさせたエステファニアが、双眼鏡越しに周囲の魔獣を観察しはじめる。非常に慣れた様子からして、これがいつもの彼らのスタイルなのだろう。
どうやらイザークは、エステファニアの扱い方を完全に熟知しているようだ。もしかしたら、自分が意識を離している間に、彼女が自分たちによけいなことを言わないようにするための措置なのかもしれないが、それにしても手慣れている。エステファニア本人も、誰に邪魔されることなく魔獣観察をできて、ものすごく幸せそうだ。
(……本人たちがどう思っているかは知らんが、いい組み合わせではあるんだよなあ)
なんだか、イザークにならエステファニアを任せられると判断したスパーダ王兄の気持ちが、ちょっぴりわかる気がしてしまったシークヴァルトだった。
「ん……」
と、そこで腕の中で眠っていた少女が、僅かに身じろぐ。目を醒ましたのか、と見下ろせば、濃い金色の睫毛がふるりと揺れた。
「ナギ?」
そっと、呼びかける。瞬時にこちらを振り返ったライニールが息を詰めて見つめる中、ナギがぼんやりと口を開く。
「エリアス……」
掠れた声で彼女が求める青年の姿は、すでにない。
(……なんだ?)
そのとき、今まで経験したことのない不快な熱が、じわりと胸の奥に広がった。なんだこれは、と内心首を傾げながらナギに状況を説明しようとしたとき、ナギがひどくふわふわとした口調で言う。
「昔……エリアスが、キライな神官の背中に『お猫さまの下僕』って書いた紙を貼って、シスターたちにめちゃくちゃ怒られてたときの夢、見てた……」
どうやらエリアスは、シークヴァルトが思っていたよりも、ずっと愉快な感性を持つ青年だったらしい。
「そうか。神官は普通、猫ではなく神の僕だからな」
シークヴァルトが至極まっとうなツッコミをすると、ナギが少し驚いた様子で瞬きをする。
「シスターたちが、キレ散らかしてたのって……エリアスがその紙に書いてた猫の絵が下手すぎて、新種の不気味な魔獣にしか見えなかったからじゃ、なかったんだ……」
「……それは、そのシスターたちが猫派だった場合、ぶちギレする原因になるかもしれないなあ」