『聖歌』
しかし今は、他国の聖女の、少々特殊な生態にビビっている場合ではない。ひとつ深呼吸をしてから、シークヴァルトが改めて口を開こうとしたとき、ライニールと傷だらけの少女を抱えたエリアスが目の前に現れた。
少女の肌は、目に入るほとんどがどす黒い汚染痕に侵蝕されており、その顔立ちすら判然としない。以前、東の砦で狂化魔獣の攻撃を受けたエイドラムほどではないにせよ、ひどく危険な状態であるのは明らかだ。
――聖女の力の恩恵は、本人にそれを発動する意思がなくとも、その肉体に触れさえすれば受けられる。何より、ナギが自らこの地までやって来たのは、幼い時間をともに過ごした少女を救うためだ。もしナギの意識があったなら、迷うことなく自ら聖女の力を使っただろう。
そう頭では理解していたし、実際にそうするつもりでもあったのに――なぜだろう。意識のないナギにその力を使わせることも、その手を他人に触れさせることも、想像するだけで胃の底が焼けつきそうなほどに耐えがたかった。
同じようにひどく葛藤する様子のライニール、激しい焦燥を抱えつつもじっと唇を噛んでこちらの指示を待つエリアスから視線を外し、シークヴァルトは小さく息を吐く。そして、少し離れたところで魔獣たちの姿に興奮しきりのエステファニアと、何やらぼんやりと天を仰いでいるイザークに声を掛けた。
「お取り込み中のところ、申し訳ない。スパーダ王国の聖女。イザークどの。こちらに、重度の汚染痕に侵蝕された者がいる。どうか、助けてはいただけないだろうか」
ライニールとエリアスが、揃って大きく目を見開く。彼らが背後を振り返るのと同時に、はっと我に返った様子のエステファニアとイザークがこちらを見た。
そして、エステファニアが慌てた様子でイザークの腕をぺしぺしと叩く。
「イ、イザーク! 何をしている! ぼーっと魔獣に見とれている場合ではないぞ! 早く彼らのところへ行くのだ!」
「失礼します」
刹那、イザークの顔に『自分は魔獣に見とれていたわけではないんですが』と言いたげな表情が浮かんだものの、彼は状況判断の早い男のようだ。エステファニアの体を小脇に抱えるなり、深い雪による足場の悪さもものともせず、あっという間に距離を詰めてくる。
そのタイミングに合わせて一瞬だけ防御フィールドを解除すると、見事に呼吸を合わせて滑り込んできた。
「……これは、酷いですね。エステファニアさま、お願いします」
「う……うむ……っ」
まるで荷物のように雑な運ばれ方をしたというのに、エステファニアはまったく憤慨する様子もない。むしろ、なんだかものすごく慣れた感さえある。
しかし、全身傷だらけの少女の肌が、不気味にうねる汚染痕に侵蝕された様子というのは、おそらくエステファニアにとってはじめて見るものなのだろう。ナギが東の砦でエイドラムを前にしたときと同じように、真っ青になった顔を強張らせている。
少しの間のあと、おもむろに震える唇を開いたかと思うと、スパーダ王国の聖女は少し掠れた声で、ゆったりとした曲調の歌を紡ぎはじめた。
時は巡り 世界は回り続ける
どうか教えて
遙か彼方に広がる空は
きっとわたしの知らない色をしている
天上の煌めき 至高の青
どうかわたしを連れていって
あの日 あなたが教えてくれた
わたしが自分の足で立てること
あの星を導に 旅に出るの
鳥のようには飛べなくても
過去を振り返りながらでも
こうして歩き続けていれば
きっとどこへだって行けるから
はじめはぎこちなく、しかし次第に伸びやかに歌声が響いていくたび、少女の肌でどす黒くうねっていた汚染痕が、少しずつ薄れて消えていく。その緩やかな変化を黙って見つめながら、シークヴァルトは密かに嘆息した。
あの日ナギは東の砦で、狂化魔獣の攻撃により急速に進行する汚染痕を、一瞬の直接接触で完全に消してしまっていた。通常、聖女の能力は直接接触よりも『聖歌』によるほうが、遙かに効率的に発揮される。もしエステファニアが持つ聖女の能力が、歴代の聖女の平均値に近いものであるなら、つくづくナギの力は規格外であるらしい。
そして同時に、少し意外に思う。エステファニアが歌っている歌は、数年前にレングラー帝国で流行していた、大衆向け娯楽冒険活劇動画の中で使用されていたものである。その後、動画が配信された中央諸国でも、かなりの長期間に渡ってヒットした楽曲だ。しかし、何かにつけて排他的な国風のスパーダ王国では、他国で制作された演劇や歌の動画は配信されていないはずである。おそらく、この歌を聞き知っている者も稀だろう。
(そういや、この聖女さまはガキの頃から、魔獣観察個人ツアーとやらをしていたとか言ってたか。で、護衛が大陸中に拠点を置く傭兵組織のメンバーってことは、もしかするとそのツアーの行き先には、中央諸国も含まれていたのかもしれねえな)
その辺りの真偽はどうあれ、こうしてたったひとりの護衛だけを伴って、暴走する魔獣を止めるためにやって来た彼女は、どうやらとんでもない行動力の持ち主であるようだ。先ほどイザークが証言していた、自国の国王に対する暴言といい、かなりの跳ねっ返りであることは間違いあるまい。
(ナギは、基本的に周囲の大人たちの言うことを素直に聞き入れる子どもだが……。うん。いきなり護衛のオレまでぶっちぎってスタンピードの現場に突っこんでいった辺り、跳ねっ返り具合ではある意味スパーダの聖女以上だよな。まさか今代の聖女たちって、こんなんばっかだったりするのか?)
シークヴァルトは、なんだか遠いところを眺めたくなった。
やがて汚染痕がすべて消えると、エステファニアはへなへなとその場に座りこんだ。そんな彼女に、イザークが声を掛ける。
「お疲れさまでした、エステファニアさま。頑張りましたね」
「わ、妾は頑張ったぞ……もっと褒めろ。と、言いたいところだが、その娘の傷は……」
エステファニアが、青ざめた顔色のまま口ごもった。
たしかに、たとえ汚染痕の侵蝕がなくなったとしても、これほどの重傷だ。血が流れ過ぎれば、人は死ぬ。そして、治癒魔術の使い手であるナギは、まだ目覚めていない。
ライニールが、淡々とした口調でエリアスに言う。
「我々の拠点に、治癒魔導士の派遣を要請してある。話は通してあるから、おまえは先に戻っていろ」
「あ……っ、ありがとう、ございます!」
半泣きになったエリアスが、姿を消す。次いで、少し何かを考えるようにしたライニールが、改めてエステファニアとイザークに向き直って一礼する。
「ご挨拶もせずに、申し訳ありません。スパーダ王国の聖女。護衛どの。私は、ルジェンダ王国魔導騎士団副団長を務めております、ライニール・シェリンガム。こちらは、同じく団員のシークヴァルト・ハウエルと、私の妹のナギと申します。このたびは、我らと縁ある者を救っていただき、ありがとうございました。心よりお礼申し上げます」
優雅な仕草で一礼したライニールに、エステファニアとイザークが揃って目を丸くした。何度か瞬きをしたあと、イザークが若干上擦った声で口を開く。
「こ……こちらこそ、失礼いたしました。しかし、なぜルジェンダ王国の方々が、このような南方の僻地まで……?」
「はい。先ほどの彼らは、我が国の孤児院出身の者たちなのです。そして、少々事情がありまして、私の妹も彼らと同じ孤児院育ちなのですよ。先ほどの青年のほうが我らの任務中に突然現れ、この地でスタンピードに巻きこまれた、友人が命の危機にあるから助けてくれ、と訴えてきましてね。大事な妹と縁のある者たちのことですし、また一刻を争う非常事態ゆえ、取るものも取りあえずこうして飛んできてしまいました。妹は、治癒魔術の適性があるため同行してきたのですが、どうやらショックが強すぎたようで……。スパーダ王国の聖女さまの前でのご無礼、誠に申し訳ありません」
嘘ではないが、ものすごく重要な事実を端折ったライニールの説明に、イザークがなるほど、とうなずいた。
「そうだったのですか。我々もウエルタ王国の使者から、この地でスタンピードが発生していると伺ってやってきたのですが……」
困惑した表情を浮かべ、イザークは周囲をちらりと見回した。
「自分はスタンピードを経験したことがないのでよくわかりませんが、この辺りに集った魔獣たちに暴走の兆候は見られませんし、我らはすぐにスパーダへ戻らせていただきます。みなさまも、どうぞお気を付けて――」
「何を言う? イザーク。妾はもう、スパーダに戻るつもりなどないぞ」
見るからに、一刻も早く聖女をあるべき場所へ戻したがっているイザークの言葉を、当の聖女がふんぞり返ってぶった切る。一瞬固まった彼女の護衛が、ギシギシと壊れた絡繰り人形のような動きで、雇い主を振り返った。
「あの……なんと、おっしゃいました? エステファニアさま」
「む? その若さで、もう耳が遠くなったのか? 大体、スパーダ王国内で発生した地脈の乱れは、すべて正常化が終わっているのだ。あの国に、聖女はもう必要なかろう」
まるで当然のことのように言うスパーダ王国の聖女の様子に、シークヴァルトとライニールは思わず顔を見合わせる。なんだか想定外過ぎることが目の前で起きているぞ、とふたりが困惑している間にも、エステファニアはものすごくげんなりした顔をして続けて言った。
「このままスパーダに留まり続けていては、聖女の威光を欲しがる連中が厳選してきた種馬――もとい、婿候補をどんどん押しつけられるばかりだからな。妾は、これでも恋に恋する乙女な年頃なのだ。四六時中、鼻息を荒くしたむさ苦しい男連中に、聖女の権威目当ての求愛行動をされていては、気色悪くて仕方がない」
深々とため息を吐き、エステファニアはイザークを見上げて笑う。
「そういうわけで、イザーク。妾は、おまえの所属しているアシェラ傭兵団への取り次ぎを頼みたい。今後、おまえたちが請ける仕事の中には、地脈の乱れ絡みのものもさぞ増えてこよう。そういった仕事に聖女が同行すれば、おまえたちもかなり動きやすくなるのではないか? 今なら、おまえのところの新人報酬に加え、三食昼寝付きという破格の条件で、妾というぴっちぴちの聖女を雇えるぞ。お買い得、というやつだな!」
にこにこと屈託なく告げられるエステファニアの言葉に、イザークが完全に固まった。