暴走する聖女さま
すみません、お久しぶりです……。
最近、時の流れがジェットスピード過ぎる件。
ナギが意識を失った瞬間、それまで呼吸すらしにくく感じていたほどの魔力圧が、霧散した。シークヴァルトの腕にかかる重みが増し、咄嗟に少女の呼吸を確認する。――問題ない。
「……っ」
安堵のあまり、腕の中の少女をきつく抱きしめる。その柔らかさと温かさを感じてもなお、全身が芯から凍りつくような恐怖――生まれてはじめて覚えたその感情は、しばらくの間シークヴァルトを呪縛したままだった。
幼い昔、血の繋がった兄から暗殺者を差し向けられたときだって、こんなにも恐ろしい思いをしたことはない。
怒り、絶望、憎悪に厭悪。
ありとあらゆるどす黒い感情に飲みこまれ、己に触れようとするすべてを拒絶し、物言わぬ肉塊に変えたときでさえ、頭の片隅ですべてを冷静に俯瞰して見ている自分がいた。
なのに、今は――。
(……畜生)
全身の震えが、止まらない。己の不甲斐なさに、吐き気がする。
ナギの潜在魔力量が、膨大なものであることはわかっていた。平常時に計測可能な、彼女が無意識に制御しているふわふわとした魔力から推察される数値からも、大陸有数の魔力量を誇るこの国の王族に匹敵するだろう、と言われていたのである。
だからこそ、彼女の魔力暴走だけは、何があろうと避けなければならなかった。ハイレベルの魔力が暴走状態に陥ったなら、その本人の肉体さえ容易く崩壊に導いてしまう。周囲への甚大な被害とともに、己自身の魔力に焼き尽くされ、骨のカケラすら遺さず消滅してしまう可能性だってあった。
――今回は、辛うじて暴走状態にまでは至らずに済んだ。しかし、また同じようなことがあったなら、最悪の事態になってもおかしくない。そして、ナギが幼い日々をともに過ごしたノルダールの子どもたちの中には、いまだ安否確認ができていない者たちが多くいるのだ。ナギの心の、脆く柔らかな部分から、彼らの存在が消え去ることはきっとない。
シークヴァルトが、ぐっと奥歯を噛みしめたとき、すぐそばで魔力が揺らいだ。
「ナギ!?」
蒼白になったライニールが転移してくるなり、ナギの頬に触れる。少し前のシークヴァルトと同じようにその呼吸を確かめると、深々と安堵の息を吐いた。
それと同時に、空一面に白く眩い光が溢れる。咄嗟に目を眇めた人間たちの周囲から、不気味な闇色が一瞬で消え失せた。歪んだ魔力の渦が霧散し、代わりに満ちるのは美しく澄み切った、そして畏怖さえ感じるほど豊かな魔力の響き合いだ。ナギの魔力を食って復活した大型魔獣が、見事に有言実行してみせたらしい。
シークヴァルトはこちらに来たときから、魔導騎士団のコードに繋いでいた通信魔導具で状況を仲間たちと共有していた。きちんと通じているか不安だったが、どうやらこれまでのことを一通り把握していたらしいライニールが、上空に佇む雪豹を見上げて目を眇める。
「あれが、ナギが正常化した大型魔獣か。いろいろと、確認したいことばかりだが――」
一度言葉を切り、呼吸を整えたライニールが感情の透けない瞳で見つめてきた。
「まずは、ナギが理性を失った原因である、ノルダールの孤児を回収する。おまえは、この場で待機。何があっても、ナギを守れ」
「了解した」
ナギがこの地へやってくる原因となった少女は、すでに重度の汚染痕に侵蝕されているという。今すぐナギを安全地帯に戻したいというのが本音だが、もし対象の救命が間に合わなかった場合、ナギの精神状態が再び危うくなるのは想像に難くない。
いまだに上空で呆然としていた、もうひとりの孤児院出身者――エリアスの元へ一瞬で移動したライニールは、魔導騎士団でも随一の探査系の魔術の使い手だ。対象のおおまかな居場所を聞き出せたなら、すぐに発見してくるだろう。
そんなことを考えながら、起動させたままだった通信魔導具に向けて口を開く。
「状況報告。ナギは無事だ。意識はないが、呼吸脈拍、魔力状態すべて正常。この地で発生していたスタンピードは、ナギが群れのトップを正常化したことに伴い、鎮静化している。周囲に、暴走状態の魔獣はなし。増援は不要。現在、ライニールがノルダールの孤児院出身の少女を捜索中」
一拍置いて、アイザックの声が返る。
『了解した。――ウエルタ王国にナギ嬢の存在を知らせるには時期尚早、というのが、王妃さまの判断だ。そちらに、おまえたちの痕跡を一切残すな』
「了解。対象を回収したのち、可及的速やかに帰投する」
なるほど、とシークヴァルトは思わず笑う。どうやら、ルジェンダ王国の王妃殿下は、ナギが普通の子どもとして過ごせる時間を、可能な限り引き延ばそうとしてくれているらしい。
砂漠が雪原に変じるほどの地脈の乱れに見舞われているウエルタ王国には悪いが、今回のスタンピードをタダで鎮めてやったのだ。むしろ、感謝してもらいたいところである。
(そもそも、この国が頼るとしたら、地理的にスパーダ王国の聖女なんだよなあ。いずれナギの存在を公表するときが来たとしても、ルジェンダ王国とウエルタ王国はさほど親交が深いわけでもないし。……個人的には、ウエルタはレナードの故郷だし、できるだけ早めに助けてやりたい気持ちもあるんだけどな)
魔導学園で、多くの同じ時間を過ごしているクラスメートの少年は、その朗らかで大らかな人柄もあって、ナギともいい友人関係を築いている。地脈の乱れのせいで、身近な人間が心を痛めるようなことになれば、ナギもきっと辛い思いをすることになるだろう。
とはいえ、今回の一件で、不用意に彼女を前線に連れてくることの恐ろしさは、ルジェンダ王国上層部の意識に深く刻まれたはずだ。もし、ナギが自らウエルタ王国の地脈の乱れを解消したいと願ったとしても、おそらくその許可がそう簡単に下りることはない。
ここは大人の事情ということで、ナギには納得してもらうしかないか――と思案したときだ。
すぐ近くで、再び魔力が揺らぐ。転移魔術の波動。
咄嗟にナギを片手で抱え直して距離を取り、同時に魔導剣を構えたシークヴァルトの視線の先に、大小ふたつの人影が現れた。
(な……?)
シークヴァルトは、呆気に取られて目を見開く。なぜなら――。
「さ、さささ、さむー! 寒すぎるぞ! ウソだろう、なんでこんなに寒いんだー!? 死ぬ死ぬ死ぬ! うわああぁああん、イザーク! 頼むからどうにかしてくれー! さーむーいいいぃいいいいーっっ!!」
「現地は雪だと、先にお伝えしたはずですが。だから、きちんと装備を整えてから参りましょう、と申し上げたではありませんか」
甲高い少女の声と、落ち着いた青年の声。
「なんと!? これが、雪というやつか!? うわー、ホントに白くてキラキラしているのだな! すごいすごい、はじめて見たぞ! ものすごくキレイだが、冷たい! 寒いー!」
「エステファニアさま。感動するのは結構ですが、迂闊に飛び跳ねないでいただけますか」
腕と腹部もあらわな、南方独特の色鮮やかな衣装をまとった少女と、この大陸で三本の指に入る傭兵組織の戦闘服を着た青年が現れたから、というだけではない。
十五、六歳といったところだろうか。黒髪黒瞳に浅黒い肌をしたその少女が、自らの喉元に短剣を突きつけたまま「寒い、寒い」と震えているからだ。南国仕様の薄い衣服でこの雪の中に現れれば当然のことではあるが、あまりに豪快な震えっぷりに、うっかり短剣が彼女の喉を切り裂いてしまいそうで、見ていてものすごく不安になる。
一方、慌てず騒がず自分と彼女の周囲に防御フィールドを展開した青年は、少し癖のある褐色の髪と、明るいグレーの瞳をしていた。相当に実戦経験を積んだ人間特有の、隙の無い佇まい。おそらく、かなりの手練れだ。
青年は、シークヴァルトとナギの姿に気付くと、少し驚いた顔になる。そして、周囲を軽く見回したあと、慎重に声を掛けてきた。
「救助が必要な状況か? 我々は、この辺りでスタンピードが発生したと聞いて来たんだが――」
「ひょわああぁああー! なんだ、この豪華すぎる魔獣祭りは!? って、こんなにもグレイトゴージャスな魔獣カーニバルのど真ん中にいるというのに、なぜ妾はこんなナイフの一本しか持っていないのだ! お願いだ、イザーク! 動画! いやせめて静止画だけでもおぉおおおおおー!!」
青年の言葉の途中で、煌びやかな装飾を施されたナイフを放り捨てた少女が、彼の襟元を掴んでガクガクと揺さぶりはじめる。
「なんという素晴らしきモフモフ! 麗しきキラキラ! ハッ! まさかあそこに見えるのは、煮えたぎったマグマでぐつぐつの火口付近でしか観測されないという、幻の――!」
「落ち着いてください、エステファニアさま」
慌てず騒がず、少女の手をむんずとつかんで無造作に引き剥がした青年が、再びシークヴァルトを見た。
「お騒がせして、申し訳ない。自分は、アシェラ傭兵団所属のイザーク・ナイトレイ。こちらは、スパーダ王国の聖女、エステファニア・ナダルさまです」
「………………は?」
思わず間の抜けた声を零したシークヴァルトに、イザークと名乗った青年は淡々と告げる。
「自分は、エステファニアさまが聖女として認定される以前から、この方のご趣味である魔獣観察個人ツアーの護衛として、何度か雇われたことがあったのですが……。まさか、聖女の国外派遣を渋るスパーダ国王に対し、『すぐそこでスタンピードが発生してるというのに、この妾に黙って哀れな魔獣たちを見殺しにしろなど、まったくありえないのだぞ! このクソ以下のビビリへっぽこゲリ国王野郎が!!』と言い放った上、邪魔をしたらこの喉かっさばいて死んでやる、と周囲を脅しての出奔劇に巻きこまれる羽目になるとは、大変不本意な上に、かなり想定外な事態でした」
よく見てみれば、死んだ魚のような目をしているイザークに対し、一拍置いてシークヴァルトは問いかけた。
「そちらの聖女さまは、魔獣マニアなのですか?」
真顔になったイザークが、即答する。
「いえ、魔獣マニアではありません。エステファニアさまは、立派な魔獣オタクです」
なるほど、とうなずいたシークヴァルトは、とろけきった目を周囲の魔獣たちに向けているスパーダ王国の聖女を見る。……どこかイッてしまった彼女の目つきが、ちょっと怖かった。