丸ごと全部は、無理そうなので
直後、目の前の景色が変わる。
方向感覚を見失いそうになる一面の白と、今までに経験したことのない、肌を刺すように鋭い寒さ。
(ああ……雪景色とか言ってたっけ)
どうやら、ここはかなりの上空らしい。自分の体が、当然のように空に立っていることにも、凪は特段驚かなかった。
だって、今まで何度もシークヴァルトが見せてくれた。直接触れて、教えてくれた。
どうやって、この体に満ちる力を使うのか。どうすれば、自分の願いが叶うのか。
(この風……邪魔)
そう思えば、自分の周囲を風と寒さから守る球形の防御フィールドが現れる。これも、シークヴァルトが空を飛ぶたび、呼吸するのと同じような気軽さで展開していたものだ。
眼下を見下ろせば、真っ白な雪に覆われた大地と、そこを埋め尽くす漆黒の獣たち。彼らの赤く輝く瞳が、まるで地表を流れるマグマのようだ。
ならばこれは、大地の怒りか。ちっぽけな人間などには、とても抗うことなど――
「ナギ! 落ち着け! ここは、おまえが来る場所じゃない!」
「……シークヴァルトさん?」
強い声に呼ばれて振り返ると、なぜか必死の形相をしたシークヴァルトと、蒼白になって呆然とした様子のエリアスが、やはり球形の防御フィールドを展開してそこにいた。
「俺……なんで……? 転移なんて、するつもり……っ」
「おまえまでパニクって理性飛ばすなよ、面倒くせえ! おまえの転移魔術は、ナギの魔力圧に当てられて発動しただけだ! 責めるつもりはねえから、黙ってろ!」
ふたりが、何か言っている。
けれど今は、このスタンピードをどうにかするのが先だ。
(……殺すのは、ダメ。暴走してる魔獣たちは、何も悪いことしてない)
『自分』の命と尊厳を奪ったのは、哀れな魔獣たちではない。
意識を集中して、じっと彼らの様子を眺める。
――魔獣。そう呼ばれているからには、彼らは獣、なのだろう。
凪の知るさまざまな獣を組み合わせたような姿のもの。今まで見たことも聞いたこともない姿のもの。空想の世界にしか存在しないと思っていた姿のもの。
本当に多種多様な姿をしているけれど、そのすべてが今の凪には、まるで黒い靄の塊のように見えた。生き物の形はしているけれど、ひどく歪な気配と、乱れきった魔力の流れのせいで、まるで壊れて暴走している危険な魔導武器のようだ。
(んー……? よく見たら、全部繋がってる?)
調子外れのけたたましい鳴き声をまき散らしながら、暴走する獣たちを繋ぐ魔力の流れ。どす黒く濁った濁流のようなそれの中心にいるのは、まるで山そのものが移動しているのかと疑うような、巨大過ぎる獣のカタチをしたものだった。
ぱっと見の姿は、蜥蜴に似ている。爬虫類っぽい姿をしているくせに、こんな寒さの中でどうして動けるのかと不思議に思う。
――それにしても、本当になんという大きさだろうか。
おまけに、その魔獣が放つ魔力の澱み具合は、東の地で見た融解寸前の魔導鉱石のそれに近い。もしかしたら、これが狂化魔獣というものなのか。
(あんな大きさのものに触っても、わたしの聖女パワーで正常化できるのって、端っこのほんのちょびっとな気がするなあ)
「ナギ! オレの声を、聞くんだ!」
まったく見れば見るほど、魔力の流れがぐちゃぐちゃな魔獣だ。大きすぎてぐちゃぐちゃ過ぎて、これをすべて直接接触で正常化するとなると、気の遠くなるほどの時間が掛かりそうである。
ならば――
(……うん。このでっかいのを全部元に戻そうと思うから、ダメなんだよね)
ひとつ頷いた凪は軽く宙を蹴り、魔獣の頭部目がけて急降下した。そして、防御フィールドを解除するのと同時に、全力で巨大な角の生えた頭を殴りつける。
「ナギ!!」
(ありゃ?)
蜥蜴の頭蓋はひしゃげて原形も留めないほどに壊れたけれど、凪の右腕も骨が砕け、拳もぐちゃぐちゃに潰れていた。その事実を認識した途端、激痛が弾け、ぐっと奥歯を噛みしめる。全身に汗が滲んで吐き気がしたが、治癒魔術を発動させれば、壊れた右腕はあっという間に元に戻った。
(……リオが殺されたときは、もっと痛かった)
一瞬の激痛のお陰で、煮えたぎっていた意識が少しだけクリアになる。
凪の右腕が治るのとほぼ同時に、蜥蜴の頭部も完全に復活していた。
ならば、と学園の授業で学んだことを思い出し、即座に手加減抜きの魔力を蜥蜴に向けて叩きつける。蜥蜴の右肩から先が、爆散した。的が大きいと、ろくに狙いを定めなくとも当たるのがありがたい。
だが、腕を飛ばした程度では、やはりすぐに元通りの姿になってしまう。連続で七度魔力の塊をぶつけたところで、ようやく魔獣の核らしきものが見えてきた。
どす黒く濁った、人間の頭ほどの大きさがある球体。原型を留めないほど潰れた血肉の中で、脈打つように明滅するそれが、たしかにこの魔獣の核だとなぜだかわかった。
全身に浴びてしまった魔獣の返り血が、鬱陶しい。けれど、核から離れた魔獣の血肉は、しばらくすれば塵となって消えていくと知っている。
凪は挽き肉状態の蜥蜴の体から、反発するように歪んだ魔力を放つ核を拾い上げた。その途端、どす黒く濁っていたそれが手品のように色を変えていく。予想通り、このサイズのものならばすぐに丸ごと正常化できそうだ。
――魔獣は、その肉体が破壊されても核さえ残っていれば、周囲にいる自分より弱い相手の魔力を奪って、すぐに復活するという。凪は、くすりと小さく笑った。
「まあ、わたしのほうが、あなたよりも強いけどさ。この辺りには、どんより濁った魔力の魔獣たちしかいないからねえ」
「ナギ! ダメだ、よせ!!」
誰かが、遠くで何かを言っている。けれど今は、こちらが最優先だ。
「わたしの魔力、食べていいよ」
いつしか、まるで満月のごとく淡く輝きはじめたその核が、凪が許可するのと同時に、彼女の魔力を勢いよく吸い取りはじめた。
(うーむ。これは、最新型のお掃除魔導具もびっくりの吸引力)
効果音を付けるなら、『ズゴゴゴゴ』だろうか。一秒ごとに核の輝きが強くなり、眩い黄金の光を放ち出す。
(お? これから体ができてくるのかな? それにしても、どうせ新しい体を作るなら、この寒さにも耐えられる感じにすればいいのに。雪には、やっぱりもふもふの毛皮が最強装備だと思います!)
そんなことを考えていると、やがて直視できないほどに強い光を放った魔獣の核が、凪の目の高さまでふわりと浮かび上がる。その輪郭が曖昧になったかと思うなり、突如として驚くほど美しい生き物が現れた。
白銀の毛並みに散る、美しい梅花模様。太く長い尻尾をゆらりと揺らすその姿は、元の世界の動物園で見た、雪豹のようだ。しかし、その体躯は虎よりも遙かに大きく、何より瞳が鮮やかな青色を宿している。凪自身と同じ、少し緑がかった透明な青。
凪は、驚いた。
(……いや、たしかにどうせなら雪景色仕様のもふもふしたバディになればいいのにー、とは思ったよ? 思ったけどさ、なんで雪豹? わたし、どちらかといえば犬派なんだけど)
単純な親近感と些細な違和感を覚えていると、雪豹がふと空を仰いだ。そのまま上空へ飛び立っていこうとしたその尻尾を、凪は咄嗟にむんずと捕まえる。途端に、尻尾をぶわっと膨らませた雪豹が振り返り、文字通り牙を剥く。
「ちょっとおー! 痛いじゃないの! 何すんのよ、小娘聖女!」
大変ドスの効いた男性的な声と、大変婀娜っぽい女性的な口調のギャップに一瞬混乱しかけてしまったが、凪はすかさず言い返す。
「そっちこそ、自分の仲間たちがまだ暴走してるってのに、何を勝手にどこかへ行こうとしていやがるんですか、このでっかい猫にゃんめ! 食い逃げは許さん!」
先ほどまで蜥蜴だったものの血肉が飛散している周囲には、不思議とほかの魔獣たちは入ってきていない。しかし、その外では先ほどまでと変わらない様子で、多くの魔獣たちが暴走しているのだ。
この蜥蜴だか雪豹だかわからない獣は、おそらく彼らのリーダーである。仲間たちがいまだ暴走しているというのに、自分だけスタコラ逃げだすなど言語道断だ。
そう言うと、一度ぐっと押し黙った雪豹が、ものすごくいやそうにぼそぼそと口を開いた。
「今のアタシのカラダは、アンタの魔力で形成されてるからね。暴走してるコたちと、今のアタシの魔力を同調させれば、みんなまとめて正気に戻せると思うわよ」
「え、そうなの? 今のあなた、わたしの聖女パワー搭載型魔獣ってこと?」
驚いた凪に、雪豹がぴくりと髭を震わせる。
「身も蓋もない言い方をするわねえ。まあ、時間が経てば、アンタの魔力は全部アタシ自身の魔力に置き換わるから、乱れた魔力を正常化できるのは今だけのことだと思うけど……。とにかく、わかったのならさっさとその手を離しなさいよ! アタシの大事な尻尾がもげたら、どうしてくれるの!?」
尻尾がもげたところで、どうせすぐ復活するのだろうに、何をうだうだ言っているのだろう。しかし、聖女パワーをほかの魔獣たちにも伝えるというなら、その供給は続けていたほうがよさそうなものである。凪が雪豹の尻尾を掴んだままそう言おうとしたとき、突然視界を塞がれた。大きな手。指先が硬くて少し冷たいこの手を、凪はよく知っている。
「……ナギ」
少し掠れた、低い声。とても、好きな声だ。
「ナギ。……オレの声が、聞こえるか?」
背後から自分を抱きしめる、大きな体。長い腕。伝わる体温が、心地いい。
「その手を、離せ。大型魔獣の肉体を、丸ごと再構成するだけの魔力を持っていかれたんだ。これ以上は、絶対にダメだ。最悪、おまえ自身の魔力バランスが崩壊して、暴走がはじまる」
「暴走……?」
それは、いけないことだ。……なぜ、いけないのだろう?
「大丈夫だ。理性を取り戻した魔獣は、決して自分の眷属を見捨てない。放っておいても、おまえから吸収した魔力で、勝手に仲間たちを助けるはずだ」
穏やかな低い声が鼓膜を震わせるたび、体に甘い痺れが広がっていく。触れ合ったところから伝わる相手の魔力が、自分の中で激しい奔流のように荒れ狂っていた魔力を宥めてくれる。
……温かい。
「だから、落ち着け。おまえの魔力が無制限に放出されていると、転移魔術の座標を固定できなくて、ライニールがこっちに来られない。おまえの昔なじみを助けるには、あいつの力がいる。オレは、探査系の魔導は不得意だからな」
昔なじみ。そうだ。自分は、そのためにここに来た。
凪の目を覆っていた手が離れ、視界が急に明るくなる。咄嗟に目を細めると、雪豹の尻尾を掴んだままの手に、大きな手が重なった。
「ナギ」
名を呼ばれ、硬く強張っていたようだった指先から、力が抜ける。極上の毛並みが、するりと手のひらを撫でて、離れていく。
頭上から、雪豹の声が降ってくる。
「おかしな小娘聖女。アタシのマスター。アタシを助けてくれたことには、感謝してるわ。……でも、アンタがアタシに名前を寄越すのは、まだ早すぎる」
名前、と呟いた凪に、雪豹は小さく笑ったようだった。
「だから、今はまだ仮契約よ。アンタがそのバカげた魔力をきちんと制御できるようになったら、また会いましょう」
「ますたー……?」
仮契約、とはなんだろう。わからない。
(たしか、『ご老公』を英語で言ったら『グランドマスター』……。いや、マスターだから普通に『ご主人』? えぇー……。オネエな雪豹の飼い主になるのは、なんかヤダなあ……)
上手く働かない頭で、そんなことを考えたのを最後に、凪の意識はストンと落ちた。